第44話

 貴族が勾留される場合、平民とは違いそれなりに整った設備の部屋に入れられるが、ディートリヒの場合は特に良い環境に収容されていた。それは、レーヴェンシュタイン公爵家の一員だからというわけではなく、死に行く自分へのせめてもの贐として、第二王子からの『施し』であった。


 ディートリヒは勾留されている間、ただ虚ろな瞳を天井に向けていた。先日愚弟が面会を申し込んできたが、それを伝えに来た刑務官にため息一つ吐いて、それを拒否した。罪人義母を処罰した罪悪感にかられ、自らに呪いをかける愚か者と話すよりは、こうして天井を眺めていた方がまだ有意義だと感じたのだ。そして、ディートリヒが愚弟に行った悪事に対し、糾弾されるのは目に見えていた。それをすんなり受け入れてやるだけの気持ちなど微塵もない上、むしろあの愚弟のことだ、何故そんなことをしたのかなどと聞いてくるに違いない。聞いたところでもうどうなることでもないのに、何故聞こうというのか。奴をもう邪魔するものなど、レーヴェンシュタイン公爵家にはいないのだから。


 不意に、廊下を歩いてくる刑務官の足音が聞こえる。ディートリヒがいる階にはおそらく誰もいないため、その刑務官が向かっている先は、おのずとにここになる。ディートリヒはベッドから起き上がって、ドアの方に視線を向けた。


「ディートリヒ・フォン・レーヴェンシュタイン、面会が来ている」


 いつもよりも少し高く若い声の刑務官の声が響く。ドアについている小窓が開くが、その小窓から見えたのは一通の手紙だった。


「面会者が、差し入れだといってこれを渡してきた」


 面会希望者の名前さえ言わずに、手紙が小窓から投げ込まれる。いったいこの刑務官は何者だ。こんな無作法なことをする男が、この階の担当をするとは思えない。だが、小窓から刑務官は顔を見せようとしない。


「……見ないのか? お前の、元恋人からの手紙だろう?」


 嘲るような口ぶりに、久々に苛立ちを覚えながら小窓を睨んだ。元恋人とは何のことだ。意味が分からない。そのまま沈黙していると、刑務官は鼻で笑い始めた。


「分からない、か……あの初公判での供述は嘘である証明だ。なんとも浅はかなことだ」


 刑務官の言葉に、ディートリヒは強いられた自供を思い出した。ただ生き恥を晒すだけのシナリオに縋らなければいけなかった自身の弱さを噛み締めて、投げ込まれた手紙を拾い上げる。少し膨らんだ封筒に書かれた差出人の名前は、レイ・ヴェルノット。完璧な被害者である奴が、加害者である自分に何を送ってきたというのだ。刑務官から手渡されたということは、中の検閲は済んでいるのだろう。反吐が出そうになりながら、簡単に紐で留められた封筒を開いた。


 はらりと中から落ちる見覚えのある煌めく銀色。紐で括られた一房の銀狼の毛に、自然と指が震える。すぐに理解した。彼女の物だ。何故それがこの封筒に入っている。訳が分からず、封筒の中に張り付くように入っていた便箋を摘まんで中を開く。走り書きしたのだろう一文が、目に飛び込んだ。


 ――お前の大切な者は、確かに保護した。謝罪は結構。妄言は程々に。妄想上の恋人より


 何故、奴は彼女のことを知っている。

 何故、奴が彼女を助けた。

 何故。


 答えのない問いが頭の中を駆け回り、思考を支配した。それを現実に引き戻したのは、厭味な刑務官の声だった。


「確かに、渡したぞ。面会の意思があれば、次の者へ伝えろ」


 顔を上げると、ドアの小窓から刑務官の目が見えた。青緑色の射抜くような光が宿る強く大きな瞳に、ディートリヒは見覚えがあった。声をかけるよりも一瞬早く、カンッと音を立てて小窓を乱暴に閉められてしまう。


「ま、待て! 待ってくれ! 彼女は、彼女は無事なのか!?」


 ドアに駆け寄るが、その向こうにはもう人の気配はしなかった。


「答えろ! レイ・ヴェルノットォッ!」


 木霊する声に、答えるものは何もなし。ディートリヒは一刻も早く本当の刑務官に気付いて欲しくて、ドアを叩き続けた。







 面会室で待つこと二十分。ガラス越しに見える小さな部屋に、ディートリヒが入ってきた。こちらを見た瞬間、思っていた人物ではなかったことへの落胆が瞳に浮かんだ。


「……彼は」


 席に座り、伝声管越しにそう言ったディートリヒへ、クラウスは静かに答えた。


「ここには来ない。もう用は済んだとのことだ」

「なら、私ももう用はないな」


 ディートリヒが腰を上げたので、クラウスはため息とともに静かに続けた。


「特級保護指定生物は」


 その一言で、ディートリヒはぴたりと動きを止めた。こちらをじろりと睨みつけてくるが、クラウスは視線で座るように促すだけに留めた。ディートリヒが苦々しい顔で座るのを見届けて、クラウスはため息を吐いた。


「……こうやって面と向かって話をするのは、何年ぶりだろうか」


 先ほどの話の続きを聞きたいディートリヒの顔は、容易に歪む。


「世間話をしに来たのか?」


 不機嫌を隠そうともしないディートリヒに、クラウスは気持ちを奮い立たせて語り掛けた。


「兄さん」

「呼ぶな」


 短い拒絶に、クラウスは眉を顰めながら自分と同じ色を持つディートリヒの瞳をじっと見つめた。その瞳には、自分に対する憎しみは感じない。ただ、自虐に悶える痛みが見える。


「……私にとって貴方は、尊敬する兄だった」


 静かに告げると、ディートリヒの傷みの色が深くなる。


「尊敬! 尊敬だと!? は、笑わせる」


 ディートリヒが自虐的に額に手を当てる。


「魔法使いだが長兄ほどの才もなく、出来損ないのレーヴェンシュタインと呼ばれ疎まれた、白金色も持たない私を、尊敬? 貴様はどこまで私を惨めにさせれば気が済むのだ!」


 額に当てていた手を伝声管がついた台に叩きつけ、ディートリヒは怒りのまま続けた。


「父の覚えもめでたく、誰にでも望まれるお前に、そんな目を向けられるほど出来た人間でもないのは、自分でも分かっているさ!」


 兄の悲痛な叫びに、クラウスは目を細めた。その憤りを家族として受け止めてやるべきだったはずなのに、自分は自分のことで手一杯で、それをしてこなかった。その落ち度をまざまざと見せつけられている。クラウスにはその叫びが、解放と赦しを乞うているようにしか見えなかった。


「そう思っていたとしても、貴方は私を詰ることは一度もなかった。他に何と言われようと、長兄亡きあと、石に噛り付くように父を支え続けた兄の姿を見てきた者として、尊敬しないなどということがあるわけないだろう――それに」


 ディートリヒが口を開いたのを見て、クラウスは有無を言わさず続けた。


「『あの時』、私は確かに貴方に救われた。『よくやった』と……レーヴェンシュタインを代表して、貴方は私にそう言った。それだけが……当時あの行いを肯定してくれた言葉が、私を生かしたんだ」


 クラウスは自身の頬の傷を触った。母が「憎い」という言葉と共に残した罪の傷跡を触ると、今でも当時のことを思い出す。


 シーツの血飛沫。床に広がる血溜まり。力尽きた白い手に握られた短剣。冷たくなっていく母の体を抱きながら、涙も出ない自分。そして、それを見下ろしながら杖を床に一突きし、発せられた「よくやった」という声。あの時ディートリヒは、クラウスの代わりに母を討とうとしていた。それはレーヴェンシュタインとしてというよりは、弟に母親を殺させない兄の姿だった。それを成せなかったがために、レーヴェンシュタインとしての仮面を被り、クラウスの行いを肯定してくれたのだ。――家族として。


 クラウスは頬から手を離し、視線を上げた。ディートリヒの視線が頬の傷に注がれているのを感じながら、クラウスは口を開いた。


「……今まで、ありがとうございました」


 伝声管を通る声が反響して聞こえるほど、ディートリヒは静かに自分の言葉を聞いている。


「貴方が受けるべき報いを、一緒に背負ってあげられない。貴方は、罪を犯した。例えそれが、本当に貴方の意思ではなかったとしても」


 ディートリヒの視線が下がり、栗色の髪がその表情を隠してしまう。


「あんなまどろっこしい方法を取らなくても、私を殺そうと思えばいつでも殺せたはずだ。雇った者すら、魔術師でなかった。……父に代わり、あの広大な領地を治められるほどの貴方が、そんなことに気付かないはずがない」


 声が上ずりそうになるのを、クラウスは冷静に抑えた。こうやって会話ができるのも、恐らく最後だろう。


「貴方の孤独を埋めていた存在は、国の指定された場所で保護され、元気に生きている」


 クラウスは立ち上がった。視線が合うことはない。だが、きっとこれでいいのだろうと、クラウスは複雑な気持ちを飲み込んで、面会室を後にした。


 建物の外は、夏の日差しにあふれていた。昼時の一番陽が高い時間に、クラウスは細い目を更に細めながら、空を見上げた。燦々と降り注ぐ光が、クラウスの胸の中に重くかかる影を濃く残した。






 レイは、薄茶色のかつらで蒸れる頭を掻きながら、レーヴェンシュタイン公爵家の書庫から持ってきた本を広げ、クラウスを待っていた。首に巻かれた認識阻害の魔法機構が施されているチョーカーも、汗で張り付いてかゆみが増す。


 喫茶店のテラス席は、熱い日差しを日よけが隠しているものの、誰も座っていない。魔法機構が施された石製のコースターが、その上に載せられているグラスを冷やし、結露した雫がコースターを伝ってテーブルに染みを作っていく。


「飲まないのなら、いただいても?」


 誰もいないように見える向かいの席から、図々しいタールマンの声が聞こえる。レイは苦笑しながら、本で口元を隠して言葉を発した。


「突然グラスの中身が減ったら、吃驚するでしょう。ダメです」

「誰も見ていませんよ、保証します」


 流石に炎天下の中、飲み物も飲まずにいるのは酷か、とレイは渋々承諾した。本を立ててグラスを隠し、タールマンが傾けたのだろう、グラスが勝手に傾いて中身を減らしていく。グラスの中身がなくなり、コースターの上で動かなくなるのを確認して、レイはまた本で口元を隠した。


「美味しかったですか?」

「長く生きてきましたが、初めて飲みました。この炭酸飲料というもの。口の中や喉の奥がはじけて面白いです」

「一気飲みできるのがむしろすごいですよ。俺には無理です」

「やはりそう言うものですか。けっこうがんばりました。おそらくもう飲むことはないでしょう」


 タールマンの言葉が面白くて、レイは笑い声を上げないようにするのに必死になりながら、口を開いた。


「改めて、今日はありがとうございます」

「弟子の頼みは、たまに聞いてあげて損はないでしょう。貴方に貸しができるのも、悪くないですし」


 タールマンの面白そうに笑う声が、静かに聞こえる。


 クラウスが考えたレイがディートリヒへの接触方法は、タールマンを使うことだった。タールマンの隠密魔法と転移魔法を使用し、レイが勾留所に侵入、ディートリヒと話をするというものだった。なんとも他力本願なものではあったが、勾留所にかけられた結界を中和し転移してみせるのは、タールマン程の実力がないとおそらく叶わなかったものだろう。クラウス一人なら転移を使わずとも侵入は出来ただろうが、レイというお荷物がいると、安全策が思い浮かばなかったのだろう。


「俺に返せるものだといいんですけどね」

「そうですね。おいおい考えておきます」


 タールマンの声に、レイは思わず苦笑した。いったい何をさせられるのだろうか。


 再び本に目を落とすと、暇なのかタールマンが声をかけてきた。


「それにしても、いいんでしょうかね。私と二人きりにさせるというのは。一度は貴方を攫った者ですよ?」

「信頼されてるんですよ。もしくは、俺が貴方を信用しているせいかもしれませんが」

「私は信用されているんですか? 貴方に?」


 意外、とでも言いたげな言葉に、レイは訝しげな表情を浮かべた。


「クラウスの師匠で、オルディアス王国屈指の魔術師で、俺にも良くしてくれた。信用しない方がおかしいのでは?」

「それは浅慮ですね。私はケイジンが殺せといったら簡単に貴方を殺しますよ?」

「なら、訂正します。貴方程の人がどうかしようとしたら、今の俺にもクラウスにもどうしようもないので、どうもしない方に賭けているだけです」

「無謀ですね」


 まるで言葉遊びのような問いかけに、レイは我慢できず笑った。


「貴方には、そう考える人間はさぞ愚かに見えるでしょうね」


 その一言を発した瞬間、一瞬息苦しさを感じるぐらいの沈黙が下りた。レイはパッと顔を上げて、向かいの席を見た。隠密魔法を使っているので姿は見えない。ましてや、タールマンの完璧な隠密魔法は、魔力を探ることすらできなかった。


「……いつから、気付いていましたか?」


 タールマンの緊張した声が聞こえる。レイは再び本に視線を落とし、ページをめくった。


「貴方の魔力を感じた時から。洗練されているのに、それはどこか異質で、人間のそれではないと思いました。いや、正確には人間のようにも感じた何か、と言う方が正しいかもしれません」


 そう答えると、タールマンは小さくため息を吐いた。


「これだから、ゾー家の者は苦手です。……来たようなので、私は失礼しますね」


 話を切り上げるように言い捨てられ、タールマンの声は聞こえなくなった。テラス席から見える通りの少し先に、陽の光を浴びる白金髪が揺れているのを見つけ、レイは手を上げた。クラウスが駆け寄ってきてレイに微笑みかけるので、レイは手に持っていた本を閉じた。


「きちんと、話せたか?」


 その質問に、クラウスは向かいの席に座りながら一呼吸おいて答えた。


「あぁ」


 短いその声に、レイは小さくため息を吐いた。


「……そうか」


 返せる言葉が見当たらなかった。――この傷心の男を早く抱きしめてやりたい。そう思いながら、レイは迎えの馬車が来るのを待った。

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