第11話 ささやき
次の日の朝、食堂の喧噪の中で、レグは誰にも気づかれないよう視線を巡らせていた。昨日まで一緒に笑っていたはずのジョイの姿を思い出しながら――。
やっぱり、誰も気にしていない。昨日よりもさらに「空席」が自然に紛れ込んでいて、まるで最初から存在しなかったかのように振る舞っている。
(本当に、みんな忘れてしまったんだ……)
スプーンを握る手に力がこもる。
けれどその時だった。
「……ねえ」
小さな声が耳に届いた。
隣に座っていたのは、物静かな少女――サロ。
彼女は普段、ほとんど言葉を発さない。けれど今は、スープを見つめながら唇を動かしていた。
「レグ……、あなたも……気づいてる?」
レグの心臓が跳ねた。
一瞬、食堂のざわめきが遠のいたように感じる。
「……何を?」と問い返す声は震えていた。
サロは目を上げなかった。
けれど、わずかに声を潜めて言った。
「昨日……ひとり、いなくなったよね」
その言葉は、雷に打たれたみたいにレグの全身を痺れさせた。
忘れていない。
ここに、同じ記憶を抱えている子がいた。
だがサロはすぐに首を振り、何もなかったようにパンをちぎった。
「ごめん、今の忘れて。」
その声はかすれて震えていた。
レグは思わず口を開きかけたが、その瞬間、先生が食堂に入ってきた。子どもたちの笑い声が一気に広がり、サロも黙り込む。
レグはパンを噛みながら、隣の横顔をちらりと見た。サロの手は小さく震えていた。
――自分ひとりじゃない。
そう思った瞬間、レグの胸に初めて、希望に似た熱が灯った。
夕方、遊び場の片隅にある木陰。ブランコの軋む音と、子どもたちの笑い声が遠くに響いていた。レグは砂を靴でかき回しながら、ちらちらと横目でサロを見た。
サロは木の幹にもたれかかり、細い指で小枝を折りながら黙っていた。
昼間のこと――「昨日、ひとりいなくなった」と囁いた彼女の声が、まだ耳に残っている。
勇気を振り絞り、レグは口を開いた。
「サロ……。さっきの話、ジョイのことだよね?」
サロの指先が止まった。
枝がぱきりと折れ、彼女は顔を上げないまま小さくうなずいた。
「みんな、忘れてるよね。ジョイがここにいたこと……。
でも、わたしは……忘れられない。」
レグは思わず身を乗り出した。
「ぼくもだ。昨日まで隣で笑ってたのに、いきなり……。先生は何も言わなかった。誰も気づいてないみたいに振る舞って……。」
言葉が溢れそうになり、レグは唇を噛んだ。
声に出すだけで危険だと直感していた。
サロは枝を砂に突き刺しながら、低く囁いた。
「たぶん……言っちゃいけないんだと思う。思い出しちゃいけないの」
「でも、なんで? どうしてサロは忘れてないんだ?」
サロはしばらく黙ったまま、ゆっくりとレグを見た。
その瞳は深い湖のように澄んでいて、そこに怯えと決意が同時に揺れていた。
「……たぶん、わたしは“憂い”だから」
一瞬、意味が分からなかった。
けれどレグの胸に、ひやりと冷たいものが走った。
彼女は自分を「サロ」と名乗りながら、その奥で別の名を抱いている――。
自分と同じように。
レグは声をひそめた。
「じゃあ……きみも知ってるんだね。みんなが何なのか。」
サロは小さくうなずき、すぐに視線をそらした。
「でも、誰かに聞かれたら……もう帰ってこられなくなる。」
二人の間に沈黙が落ちた。
夕暮れの光が長い影を落とし、風が砂をさらっていく。
その沈黙の中で、レグの胸に芽吹いたものがあった。
――秘密を知る仲間ができた。
それは恐怖よりも少しだけ強い、温かな実感だった。
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