第8話: はじまりの街(神戸)-港町で父と-
春以来の帰郷になる。
地元の駅に降りたとき、風にわずかに塩の匂いが混じっている気がした。
参道沿いにある、かつて家業だった写真館のシャッターは閉じられたまま。けれど、外から見える棚には、今も変わらず、手入れされた古いカメラが並んでいた。
母は黙って水を差し出し、「顔が疲れてる」とだけ言った。
しかし、美佳の話になると、ふっと表情がやわらいだ。
「例の時計、喜んでたわよ。あんたも昔、父さんに同じようなものをもらってた。」
スマートフォンに映る笑顔は、どこか春の光を思わせた。娘の腕には、あの時計がきらりと光っていた。
夜、父の寝室に入ると、ほのかに薬の匂いがした。
療養中の父は、ベッドに凭れながら、テレビの音を絞っていた。
「おまえ、港を撮ってるんやてな」
唐突にそう言うと、ふと天井を見上げた。
「構図やら光やら、頭で考えるもんちゃうぞ。撮りたくなる瞬間が来るまで、手を出さんことや」
昔と変わらない、短く、真っ直ぐな物言いだった。
******
翌朝、坂を下り、少し港まで歩いてみた。
春に撮れなかった場所。
だが今回は、空気が違っていた。
小さな舟がひとつ、ゆっくりと岸を離れていく。
カメラを構える手に、もう迷いはなかった。
昼前、もう一度父の部屋に顔を出すと、彼は窓辺で新聞を読んでいた。
「夏の港なら、瀬戸内やな」
少し間を置いて、父は続けた。
「船と風の街や。あそこは、表情がよう変わる」
慶彦は頷いた。
言葉にしなくても、道が開けた気がした。
その夜、母に頼んで便箋を一枚もらった。
娘・美佳へ、小さな手紙を書く。
————————
美佳へ
──おばあちゃんに時計の写真、見せた、とても 喜んでいたよ。
──パパは、神戸の港で、ようやく写真が撮れた。春にも一度立った場所だけど、そのときは撮れなかった。
今回、光の加減も、海の匂いも、ちゃんと写せた気がする。
──パパはこれから、本格的に“港の光”を探すことにした。
──また手紙を書くよ。
追伸:おじいちゃん、おばあちゃんも元気だよ。2人の写真同封します。
パパより
————————
坂道を降りる風が、少しだけ涼しくなっていた。
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