第9話: 風の渡る島で(前編:尾道)
神戸を出たのは、朝の八時過ぎだった。
雲は薄く、海の向こうにかすかに明石海峡大橋のシルエットが浮かんでいる。
高速道路を西へと走らせながら、カーナビに表示された「尾道」の文字を何度か見返した。
「夏の港なら、瀬戸内やな」
昨夜、父がそう言った。
少し体調が落ち着いた時間帯で、父の寝室で、昔の話をぽつりぽつりと続けていた中のひとつだった。
「船と風の街や。あそこは、表情がよう変わる。」
その声の奥に、懐かしさのような、柔らかな後悔のようなものが滲んでいた気がして──
それだけで、行ってみようと思った。
高速を降り、尾道の町に入る。
坂の町だ。
道が絡み合うように細く、車を停めて歩いてみると、すぐに足が汗ばむ。
斜面の途中、洗濯物の向こうに瀬戸内の海がちらりと見えた。
軒先の猫が、こちらを一瞥して、また昼寝に戻る。
誰もこちらを急かさない。足取りまで、風に溶けていくようだった。
それだけで、この旅に出た意味がある気がした。
商店街の裏通り、小さな港に面した駐車場で車を停める。
窓を開けると、海風がふわりと車内を抜けていった。
潮の匂い。
自転車を押して歩く高校生。
渡船に乗り込む作業服の男たち。
尾道水道の朝は、東京のように急かさない。
時計の針ではなく、光と風で一日が動いている──
そんな気配がある。
慶彦はカメラを取り出し、最初の一枚を撮る。
朝の光を浴びて、斜めに影を落とす水道。
フェリーがゆっくりと、向島へと進んでいく。
シャッター音が、神戸の春と重なるような気がした。
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