第2話: 羽田空港 ─ 流れゆくもの、そこに留まるもの ─
春の光がまだ柔らかい。
勝どきの高層階。窓の先に、隅田川がゆるやかに流れていた。その向こうには、静かな東京湾。そして、さらに遠く──霞んだ空の縁に、羽田の滑走路がかすかに覗いていた。
コーヒーメーカーのスイッチを押す。
待つ間、ふと、神戸の港で撮れなかった写真のことを思い出す。
──撮りたかったのか、撮れなかったのか。
温かなロイヤル・コペンハーゲンの白いマグを片手に窓際に立つ。
少し、旅の空気が恋しかった。
「今日は、空港に行ってみるか。」
声に出してみたら、案外すんなり身体が動いた。
******
モノレールに乗り込むと、車窓から流れる風景に自然と目が向いた。
幾層にも連なる、都市の層。
ビル群。運河。コンテナヤード。船。
そして、飛行機が遠く滑走路の端に姿を見せる。
人工の極致ともいえる風景の中を、自分はいま走っている。だが、それだけでは、何かが足りなかった。
胸の奥に、小さく鈍い違和感が残っていた。
******
羽田空港のターミナルは、変わらぬ賑わいだった。
出発の掲示板が次々に更新され、アナウンスが途切れなく流れる。
行き交う人々の表情の中に、期待、不安、別れの影が混じっている。
旅は、始まりと終わりの重なりだ。
展望デッキに出ると、空の青さが少し薄まっていた。外は、少し強めの春の風が吹いている。
一機の飛行機が離陸に向かって滑走していく。
ファインダーを構えた。
──撮れない。何を見つめ、何を写すべきかが、まだ見えてこない。
あの時と同じだ。
何を撮ろうとしているのか、まだ掴めていない。
美佳の姿が、不意に浮かんだ。
ランドセルを背負った後ろ姿。
もう来年には中学生になる。
そっと、ファインダーを下ろした。
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カフェのカウンター席に座ると、やや疲れが出た。
コーヒーを頼み、ぼんやりとカップの湯気を見つめる。
隣の席に、眼鏡をかけた、小柄な年配女性が座った。
そして、明るい口調で話しかけてきた。
「今日はどちらへ?」
「いや、旅立つわけじゃなくて。ただ、写真を撮りに。」
「旅も写真も、いいものよね。私はよく"港"を訪ねるの。港には、面白い顔がたくさんあるわ。」
"港"。
その言葉が、胸の奥にふと引っかかった。
******
会計を済ませ、歩き出す途中、ふと案内板に目が止まった。
鹿児島行きの便が、ちょうど掲示されたところだった。
「桜島」──その文字が目に入った。
火山。湾。自然と街と人とが溶けあう場所。
うん、悪くないかもしれない。
小さく息を吐いた。
──次は、港町を巡ってみるか。
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モノレールの車窓から、再び都市の層が流れていく。
ビル、運河、船、そして遠ざかる滑走路。
歩き出さなければ、何も写せない──その言葉を、胸の奥にそっとしまい、目を閉じた。
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