第35話

笹原さんの家は、重厚な瓦屋根と、周囲の荒れた畑とは対照的に手入れの行き届いた庭木が印象的だった。門を叩くと、中から出てきたのは、耕作によく似た、頑固そうな表情の老爺だった。


「…どちらさんだ」


笹原さんの声は低く、訪問者を拒絶する響きを持っていた。


「笹原さん、高橋正樹です。こちらの、渡辺裕子と申します」


正樹は丁寧に頭を下げた。裕子もそれに倣う。


「高橋?ああ、耕作さんのところの。何の用だ。うちには、よそ者と話す時間はない」


笹原さんの視線は、裕子のロングスカートと、どこか都会的な雰囲気を纏った彼女の存在に、鋭く突き刺さった。


裕子は、臆せず一歩前に出た。


「私たちは、笹原さんの畑を広げたいとか、ひまわり迷路を作りたいとか、儲け話をしに来たのではありません」


裕子はそう切り出すと、持参した古い水利組合の資料と、クラウドファンディングの企画書を広げた。


「私たちは、この畑の隅にある枯れた井戸について、お話に来ました」


笹原さんの表情が、一瞬で凍りついた。彼の目つきが、警戒から動揺へと変わるのを裕子は見た。


「その井戸は…もう、過去のものだ。関係ないだろう」


「いいえ。あの井戸は、ただの過去ではありません。『笹原水源』として、この土地の命を支えてきた歴史です。そして、私たちが調べた限り、あの井戸は、水脈が途絶えたのではなく、塞がれた可能性があります」


裕子は、地元の工事関係者の調査結果を、簡潔かつ丁寧に説明した。


「私たちは、あの井戸を復活させたい。お金儲けのためではありません。水が、この土地の農家にとって、どれほど大切なものかを知っているからです」


裕子は、ウェブサイトのデザインをやり直した時と同じように、嘘偽りのない真実の言葉を、まっすぐに笹原さんに届けた。


正樹も続けた。


「笹原さん。父ちゃんから、この土地の歴史を聞きました。水を奪われた悔しさ、痛いほど分かります。俺たちに、この畑の命を取り戻す手伝いをさせてください」


裕子と正樹の真剣な眼差しに、笹原さんは長いため息をついた。彼の頑なな心が、少しずつ溶けていくのが、二人に伝わってきた。


「…費用は、どれくらいかかる」


笹原さんは、声のトーンを落として尋ねた。


裕子は、クラウドファンディングの現在の支援額を示した。


「まだ全額ではありません。ですが、多くの人が、この畑の命の復活を望んでいます。私たちは、その人たちの想いを、形にしたいのです」


笹原さんは、裕子と正樹を交互に見た後、静かに門を開けた。


「…上がれ。詳しい話を聞こう」


その瞬間、裕子の目から、安堵の涙がこぼれた。都会の論理ではない、愛と誠実さが、この町の頑固な心を動かしたのだった。

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