36

 道は、源兵衛げんべえの言葉通り、人の世を拒絶きょぜつするかのように険しかった。

 昨日よりもさらに急な斜面を、木の根や岩につかまりながら登っていく。

 時折、道がふさがっている場所で、源兵衛がなたふるって道を切り開き、いさおがその巨体きょたいで一行の安全を確保かくほした。

 水上は時折、立ち止まって方位磁石ほういじしゃくで方角を確かめ、手元の地図と現実の地形をわせている。


 数時間ほど歩き続けた後、源兵衛は、沢近くの少し開けた場所で足を止めた。


「ここで一息ひといき入れる。水を飲んでおけ。この先の尾根おねは、もっときつくなるぞ」


 一行は、それぞれ岩に腰を下ろし、水筒の水を飲んで息を整えた。

 志乃は、沢の冷たい水で顔を洗い、火照ほてった体を冷やした。

 志乃はそして、岩に腰を下ろして煙管きせるをふかし始めた源兵衛の隣に、そっと腰を下ろした。


源爺様げんじいさま。母が暮らしていたという、神邑かむらは、どのような村だったのでしょうか」


 その問いに源兵衛は、遠い目をして、一行が登ってきた谷の奥深くを見つめた。

 彼の顔には、深い郷愁きょうしゅうと、それを上回るほどの、えることのない痛みがにじんでいた。


「……神邑、か」


 老人は、ゆっくりと語り始めた。


「あの村は、この先の梓川あずさがわが大きく蛇行だこうする、谷の袋小路ふくろこうじのような場所に、ひっそりとあった。村の衆は、お前さんと同じ『斎部いんべ』の血を引く者たちじゃった。気性きしょうおだやかだったが、よそ者に対する警戒心は、そりゃあ強かった。わしのような猟師でさえ、初めて村へ入ることを許されるまでには、十年近くかかったもんじゃ」


「では、お父様は…」志乃は、当然の疑問を口にした。「父は、ただの行商人だったと聞いております。どうやって母と?」


 その問いに、源兵衛は苦々にがにがしげに顔をゆがめた。


「…あんたの親父おやじさんは、ただの行商人じゃったが、とんでもねえ悪運あくうんの持ち主じゃった。あれは、もう二十年近くも前、秋の終わりのことじゃ。親父さんは、この山で足を滑らせ、がけから落ちた。普通なら、そのまま獣の餌食えじきになっておしまいじゃ。それを偶然見つけたのが、山へ薬草やくそうみに出ていた、千代ちよじゃった」


 源兵衛の言葉に、志乃は息をんだ。


「千代は、お前さんと同じ『しずめの力』を持っとった。そして情け深い子じゃった。村のおきてでは、よそ者は決して村に入れてはならんことになっとった。じゃが、千代は掟を破り、瀕死ひんしの親父さんを村はずれの小屋へ運んで、つきっきりで看病かんびょうした。村に伝わる薬草の知識を使い、な。…おかげで親父さんは助かった。それが全ての始まりじゃった」


 老人は紫の煙を、澄んだ山の空気の中に、ゆっくりと吐き出した。


「命の恩人である千代に、あんたの親父さんがれるのに、そう時間はかからんかった。傷が癒え、麓の町へ帰された後も、親父さんは何度も何度も、この山へ通ってきた。村へは入れん。じゃから麓の森で、ただひたすらに千代を待ち続けた。…わしの息子も、そんな千代に心を寄せておった。じゃが、朴念仁ぼくねんじんのあいつには、都の男の『しつこさ』にはかなわんかった」


 その口調には、どうしようもないあきらめと、息子の不器用さをあわれむ、父親としての悲しみがあった。


「そして、千代は村を捨てた。わしらはそれを、ただの裏切りだとしか思えんかった。村の巫女みことしての神聖な役目を捨て、都の男にうつつを抜かした、とな。だが、今なら分かる。あの子は村の…いや、斎部の血に終わりが来ることを予感していたのかもしれん。だからこそ、その血を後世こうせいつなぐため、一人村を出た…」


 話し終えた源兵衛は、すっくと立ち上がった。

「…さて、行くぞ。陽は待ってはくれん」


 そして一行は、再び険しい獣道けものみちを進み始める。

 道は次第に険しさを増し、一行は言葉少なに進んだ。

 太陽が中天ちゅうてんに差し掛かり、木々の間から光がまだらに降り注ぐ頃、源兵衛は再び足を止めた。


「ここで昼餉ひるげにしよう。この先は、しばらく水場がねぇ」


 一行は、小さな沢のほとりに腰を下ろした。

 志乃は、用意してきた握り飯を皆に配りながら、隣に座った水上に、意を決して話しかけた。


「水上さん」


「はい、何でしょう」


「神邑の跡地に着きましたら、皆さんの魂を弔いたいと、そう申し上げました。ですが、私には、どのような準備をすればよいのか、全く分かりません。古くからの鎮魂ちんこんの儀式について、何かご存知でしたら、お教えいただけますでしょうか」


 その問いに、水上は食べていた握り飯を置くと、真摯しんしな表情で志乃に向き直った。


「…ええ、もちろんです。あなたがそのように考えてくださることは、我々にとっても、そしてこの地に眠る魂にとっても、何よりの救いとなるでしょう」


 彼は、学者としての知識を総動員そうどういんし、ゆっくりと、そして丁寧に説明を始めた。


古来こらいからの鎮魂の儀式で、最も大切にされるのは、『おそなもの』と、『祈りの場』、そして『祈りの言葉』です。まずお供え物ですが、これはその土地で手に入る、最も清浄せいじょうなものが良いとされています。幸い、目の前には清らかな山の湧き水がありますし、我々は塩と米も持ち合わせています。これだけあれば、魂たちへの敬意けいいは十分に伝わるはずです。最も大切なのは、形よりも心ですから」


 水上は、沢の流れを指差した。


「祈りの場は、必ずしも立派な社である必要はありません。清浄な場所を選び、四方に笹竹ささだけを立て、注連縄しめなわを張ることで、神籬ひもろぎと呼ばれる、神様や魂をおまねきするための、一時的いちじてき聖域せいいきを作ることができます。これも、この山にあるもので十分に用意できるはずです」


「では、祈りの言葉は…」


「それこそが、最も重要です」水上は、その視線を真っ直ぐに志乃に向けた。「古い祝詞のりととなえるのも一つの形式ですが、今回の儀式で最も力を持つのは、あなたの言葉そのものです。あなたは、『鎮めの乙女』。あなたの心からの弔いの言葉こそが、この地に縛られた魂を鎮め、なぐさめるための、唯一無二ゆいいつむにの祝詞となるのです。難しい言葉は必要ありません。ただ、あなたの心を、素直に、正直に、魂たちに語りかけてあげてください」


 水上の言葉は、志乃の心の中にあった、漠然ばくぜんとした不安を、確かな道筋へと変えてくれた。

 特別なものは、何もいらない。

 ただ、この山にある清らかなものと、自分の心からの言葉があればいい。


「ありがとうございます、水上さん。私、やってみます」


 志乃の顔には、もう迷いはなかった。

 彼女は、沢の水を一口飲むと、まだ見ぬ神邑の村の方角を静かに見据みすえた。

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