古今堂怪異綺譚

35

　山と一体になるという、これまで経験したことのない不思議な感覚。

　それは十五歳の心と身体に、見えざる大きな疲労を強いていた。

　万物の声を聞き、魂の悲しみを感じ取る。

　それは、ただでさえ過酷（かこく）な山中での夜にあって、あまりにも心身を消耗（しょうもう）させる行為であった。

　その異常なほどの五感の鋭敏（えいびん）さが、自らの精神が昂（たか）ぶり、すり減っている証拠（あかし）だと、志乃は冷静に理解した。

（今は、休まなくては…）

　この力は、玄洋会（げんようかい）と対峙（たいじ）するための、そしてこの山の謎を解き明かすための、何よりも大切な切り札だ。

　しかし、使い方を誤れば、自分自身が先に燃え尽きてしまう。

　今は、この昂（たか）ぶっていた感覚を鎮め、明日からの長い道のりに備えて、心と体を休めるのが先決だった。

　志乃は、ゆっくりと足を崩すと、男たちが眠る所から少し離れた、洞窟の壁際に横になった。

　硬い岩肌の感触と、獣の毛皮の匂いが、現実の世界へと彼女の意識を引き戻してくれる。

　志乃は父のことを思った。

　今頃、帝都の家で一人、眠れぬ夜を過ごしているのだろうか。

　岸馬さんは、父を励ましてくれているだろうか。

　守られるだけの存在ではいけない。

　自分がしっかりしなければ、父を、そして仲間たちを、もっと大きな危険に晒（さら）してしまうことになる。

　そんな思いが、昂ぶっていた彼女の心を、ゆっくりと優しく、穏やかに鎮めていった。

　研ぎ澄まされていた五感は、その鋭さを和らげ、山から感じる声は、再びただの風の音、梟（ふくろう）の声へと戻っていく。

　やがて志乃の意識は、深い、穏やかな眠りの底へと沈んでいった。

　夢は見なかった。

　ただ、遠い遠い場所で、懐かしい母の声が「それでいいのですよ」と、優しく囁（ささや）いたような気がした。

　夜明けの光が洞窟の入り口から差し込み、一行は静かに目を覚ました。

　山の朝は、帝都のそれとは比べ物にならないほど清浄（せいじょう）で、そして厳（おごそ）かだった。

　源兵衛が火に薪（まき）をくべ、再び火を大きくすると、その暖かさが、眠っていた体と心をゆっくりと解（と）きほぐしていく。

　志乃は、昨夜の不思議な体験の後、深く眠ることができた。

　休息をとったことで、かえって昨夜に感じたあの感覚…この山に眠る多くの魂の、静かで深い悲しみの気配が、より鮮明に、より切実に感じられるようになっていた。

　それはもはや漠然（ばくぜん）とした気配ではない。

　声なき声となって、志乃の心に直接語りかけてくるかのようだった。

　一行が、残りの握り飯と干し肉で朝餉（あさげ）を済ませ、出発の準備を整えていると、志乃は意を決して、仲間たちに向き直った。

「皆様。出発する前に、一つ、ご提案がございます」

　その場にいた三人の男たちが、一斉に彼女の顔を見る。

　その表情は、もうただの少女に向けるものではない。

　この不可思議な旅の中心にいる、『鎮（しず）めの乙女』の言葉を聞こうとする、真剣な眼差（まなざ）しであった。

「昨夜、私はこの山の声を聞きました」志乃は、静かに語り始めた。「この山には、三十年前に亡くなられた、私の母の故郷の方々の魂が、今も眠っておられます。その魂は、あまりに突然命を奪われ、誰にも弔（とむら）われることなく、深い悲しみの中にあります。その悲しみが、この山全体を覆っているように、私には感じられるのです」

　彼女の言葉に、源兵衛の顔が悲痛（ひつう）に歪（ゆが）んだ。

　彼の脳裏には、土砂に消えた息子と、村人たちの顔が浮かんでいるのだろう。

「このまま、ただ私たちの目的のためだけに、神邑（かむら）の跡地を通り過ぎてしまうのは…あまりに人の道に外（はず）れているように思います。それに、この山の魂の悲しみを鎮めずして、その先の神域（しんいき）へ足を踏み入れることは、許されないのではないでしょうか」

　志乃は、そこで一度息をつくと、深く、深く頭を下げた。

「どうか、お願いいたします。神邑の跡地に付きましたら、まず、犠牲となった方々の魂を弔（とむら）わせてください。それが、この山の許しを得て、私たちが先に進むために、どうしても必要なことだと思うのです」

　それは、斎部（いんべ）の血を引く者として、そしてこの山の悲劇に心を寄せる一人の人間としての、心からの願いであった。

　最初に口を開いたのは、源兵衛だった。

　彼のしわがれた声は、こらえきれない感情で震えていた。

「……お嬢ちゃんの言う通りだ。三十年間、わしは奴らへの憎しみばかりに囚（とら）われとった。村の衆を、きちんと弔ってやることさえ忘れて…いや、怖くてできんかった。…すまねぇ。本当に、すまねぇ…」

　老猟師は、その場に崩れるように膝をつき、深い皺（しわ）の刻（きざ）まれた手で顔を覆った。

　水上が、その肩にそっと手を置く。

「志乃さん、あなたの提案に、心から賛同（さんどう）します」水上は、静かだが力強い口調で言った。「我々の目的は、ただ神器（じんぎ）を手に入れることだけではない。乱されたこの土地の理（ことわり）を、元に戻すことにある。そのためにはまず、この地に眠る魂への敬意（けいい）を払うのが何よりも大事でしょう」

　巌もまた、志乃の後ろに静かに立ち、深く、そして力強く頷いた。

　こうして一行は、まず神邑の跡地を目指し、三十年の間、忘れ去られていた魂たちを弔うことを決意したのだ。

　それは、玄洋会と先を争うばかりではない、この旅の持つ本当の意味を問い直す行為であった。

　一行は、再び険しい獣道（けものみち）を進み始めた。

　しかしその足取りは、これまでとはどこか違っていた。

　木々の合間から、その背に朝陽の光が差し込み、この先の道のりを後押（あとお）しする祝福のように感じられた。