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 水上みなかみ壮大そうだいな仮説は、一行の心に、畏怖いふと、そしてこれまでとはしつの違う、より根源的こんげんてきな緊張感をもたらした。

 彼らが向かっているのは、ただ玄洋会げんようかいが狙う宝が眠る山ではない。

 この国の神話が生まれた、原初げんしょ聖域せいいきそのものであるかもしれないのだ。

 風の音、木々のざわめき、その全てが、得体の知れないものの息遣いきづかいのように感じられた。


 その重い沈黙を破ったのは、これまでほとんど口を開かなかった、いさおの低い声であった。

 彼は、それまで一行の後方で、影のようにその身をひそめていたが、静かに源兵衛げんべえの前へと進み出た。


源爺殿げんじいどの


 その声には、武人ぶじんとしての、実直じっちょく切実せつじつさを感じさせた。


「これから我々が足を踏み入れるという神域しんいき…そこで我々をはばむものは、人や獣だけではない、と心得こころえた。俺のこの腕は、どこまで通用するのか。護衛ごえいとして、特別な心構こころがまえが必要であれば、ご教授きょうじゅ願いたい」


 巌の問いは、自らの役割を深く理解しているからこそのものであった。

 彼の役目は、志乃を守ること。

 そのためには、敵の正体を正確に知る必要があった。


 源兵衛は、その岩のような巨躯きょくを、下から上までゆっくりと見上げた。

 そして意外なことに、ふっと、その口元をゆるめた。


「……おめえさんのその腕っぷしは、ここでは何の役にも立たんかもしれんぞ」


 その言葉は、決して巌を侮辱ぶじょくするものではなかった。


「神の庭で、まず守るべきおきては三つじゃ。一つ、決して殺生せっしょうをしてはならん。獣も、虫も、そして人もな。ここで流された血は、このの怒りを買い、百倍の災いとなって我々に返ってくる。おめえさんのそのこぶしは、人を殺すためではなく、ただ守るためだけに使え」


 源兵衛は、拾った枝で、地面に奇妙な印を描いた。


「二つ、目に見えるものを、真実と思うな。山のモノノケは、人の心の隙間すきまにするりと入り込み、まぼろしを見せる。ありもしない道、亡くなったはずの懐かしい顔、あるいは、この世のものとは思えぬ美しい女の姿…それにまどわされた者は、二度と里へは戻れん。常に守るべき者の、そばを離れるな。あの子の持つ清いが、おめえさんを幻から守る、唯一の道標みちしるべとなるだろう」


 そして、源兵衛は、その鋭いまなこで、巌の心の奥底を射抜いぬくように見つめた。


「そして、三つ目。この山で一番恐ろしい敵は、玄洋会の連中でも、モノノケでもねぇ。おめえさん自身の、心の中にいる。恐怖、焦り、仲間への疑い…そんな心のよどみが、おめえさんの力をにぶらせ、この地のぬしの怒りを招く。どんな時でも、心を水面みなものように静かに保て。まもたる者は、誰よりも固く、るがぬ心を持たねばならん。…それが、わしからの教えじゃ」


 源兵衛の言葉を、巌は微動びどうだにせず、その全身で受け止めていた。

 やがて、彼は深く、そして力強く頷いた。


「……承知しょうちした。この巌、志乃様の盾となり、心を乱さぬこと、この山の主と、おのれたましいに誓おう」


 そのやり取りを、志乃と水上は、息を殺して見守っていた。

 ただの護衛と案内人とではない。

 これから神域に挑むにあたり、守る者と導く者との間で、儀式ぎしきが交わされたかのようであった。

 巌の誓いの言葉は、静かだが、その決意の重みを強く感じさせた。


 そして、そんな重い沈黙を破ったのは、源兵衛の、厳しいながらも張りのある声だった。

 彼は、傾きかけた太陽の位置を、猟師りょうしの目で鋭く見定みさだめていた。


「覚悟が決まったようだな。結構なことだ。だが、感傷かんしょうひたるのは、今夜の寝床ねどこに着いてからにしろ。ここから先、日没にちぼつまでに越えねばならん尾根おねがある。そこを逃せば、夜は獣の腹の中か、がけの下だ。のあるうちに、わしが目星めぼしをつけとる岩小屋まで辿たどく。ぐずぐずはしておれん。行くぞ」


 老猟師のその一言は、一行の心を現実に引き戻し、再びふるたせるには十分だった。

 水上も巌も、その言葉に力強く頷く。

 志乃もまた、その言葉に、これから進むべき道が、ただひたすらに険しいものであることを改めて覚悟した。


 一行は、再び険しい獣道を進み始めた。

 しかし、先程までとは、明らかに場の空気が違っていた。

 ただの案内人と護衛に守られた少女、ではない。

 孤高ここうの猟師、沈黙の守護者、博識はくしきの学者、そして、その中心で一行を導く、不思議な力を持った乙女。

 四人は、それぞれの役割を自覚し、一つの目的のために進んでいった。


 道は、もはや道と呼べるようなものではなかった。

 人の背丈せたけほどもある笹薮ささやぶをかき分け、こけむした倒木とうぼくを乗り越え、時にはぬかるみに足を取られながら、ひたすらに急な斜面を登っていく。

 先頭を行く源兵衛の足取りは、老人とは思えぬほど確かで、一切の無駄がない。

 彼は、時折立ち止まっては、風の匂いをぎ、傍目はためにはわからない目印を読み、一行が進むべき、最も安全な道を選んでいた。


 やがて木々の密度が濃くなり、陽の光さえ届かない暗い森の深みへと入っていく。

 空気は、ひやりと肌を刺すように冷たくなり、湿った土と腐葉土ふようど、そして濃密のうみつな生命の匂いがした。

 帝都で生まれ育った志乃にとっては、全てが初めて体験する、原始的げんしてきで、畏怖いふすべき世界であった。


 数時間、ひたすらに歩き続けた後、源兵衛は不意に足を止めた。

 目の前には、巨大な岩が、まるで家のようにそそり立っている。

 そのたもとに、人一人がようやくかがんで入れるほどの、黒い洞穴どうけつが開いていた。


「…着いた。今夜の宿、熊穴くまあなじゃ」


 源兵衛が、息一つ切らさずに言った。

「本当の熊の寝床ねどこだが、今は留守のようじゃな。陽が落ちる前に火を起こして、結界けっかいを張る。獣避けと、それから…よからぬモノ避けのためにな」


 その言葉に、一行は改めて、自分たちがただの山登りをしているのではないことを実感した。

 ここは、人の世のことわりが通用しない、いにしえの自然が支配する領域なのだ。

 日が暮れ、山の闇が深まるにつれて、その気配はますます色濃くなっていった。

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