32
夜明け前の、全ての色が青に溶け込む時間。
四人は、
ひやりとした
源兵衛を先頭に、水上、志乃、そして最後尾を
朝霧の中、四人は言葉を交わすこともなく、
道は、初めから険しかった。
人の
しかし、志乃は弱音を吐かなかった。
巌から教わった、大地を
志乃は、次第に自分の身体が、この山の空気に
先頭を行く源兵衛の足取りは、老人とは思えぬほど確かで、一切の無駄がない。
彼は
数時間が経ち、陽が高く昇り始めた頃、一行は少し開けた岩場で小休止を取った。
眼下には、朝霧が晴れた松本の町が、まるで
志乃は、岩に腰を下ろした源兵衛の隣に座ると、意を決して話しかけた。
「
「…なんだ」源兵衛は、水筒の水を一口飲みながら、ぶっきらぼうに答えた。
「先日、帝都で不思議なものを見ました。私の先祖だという、古い時代の
源兵衛の動きが、ぴたりと止まった。
彼は水筒を置くと、真剣な目で志乃を見つめた。
「…どんな
「はい」志乃は、
その説明を聞くうちに、源兵衛の顔から、
代わりに浮かんだのは、深い驚きと、
「……まさか」老人は、かすれた声で呟いた《つぶやいた》。「お前さん、それを見たのか。本当に」
「はい。はっきりと」
源兵衛は、天を
「…そんな社は、この辺りにはねぇ。わしが知る限り、どこの山にも、そんな立派な社はとっくに
それはまるで遠い昔の
「この日鎮ヶ岳の、さらに奥の奥、地図にも
源兵衛の言葉は、志乃の幻視が、ただの記憶の断片などではなく、この山の最も深い場所に隠された、
「お前さんが見たのは、それかもしれん。もしそうだとしたら、わしらは、ただ山に登るんじゃねぇ。神様の庭に、お邪魔させてもらうことになる。心してかからにゃ、生きては帰れんぞ」
その言葉は、脅しではなかった。
長年、山と共に生きてきた男が抱く、人知を超えたものに対する、偽りのない
神の庭。
人が作ったのではない社。
その途方もない話に、水上ですら言葉を失い、巌は険しい顔で、これから挑むべき山の頂を
一行は、しばし沈黙に包まれた。
風の音と、遠くで響く鹿の鳴き声だけが、岩場を吹き抜けていく。
その静寂を破ったのは、やはり志乃であった。
彼女は、目の前の絶景から、隣に座る水上へと、その静かな視線を移した。
「水上さん」
「…はい」水上は、思考の海から引き戻されたように、ゆっくりと応じた。
「源爺様が仰る『天の岩戸』…それは、私が知っている、
その問いは、この神秘的な状況にあって、あまりに冷静で、
水上は、この十五歳の少女が、神話の存在をただ恐れるのではなく、一つの
彼は、自らの専門分野に引き戻されたことで、いくらか落ち着きを取り戻したようだった。
「…素晴らしい質問です、志乃さん」水上は、一度ゆっくりと息をつくと、学者としての顔つきで語り始めた。「古事記や
彼は、そこで一度言葉を区切ると、まるで大切な秘密を打ち明けるかのように、声を
「ですが、我々『
水上は、その視線を真っ直ぐに志乃に向けた。
「もし、神話に語られる『天照大神』が、我々が考えるような神そのものではなく、あなたと同じ、『
その言葉に、志乃は息を
「そして、彼女が天岩戸に『隠れた』のではなく、何かを『封印した』のだとしたら? 例えば…そのあまりに強大な力
水上の仮説は、壮大で、しかし奇妙な説得力を持っていた。
神話の物語が、彼らが今まさに直面している現実と、ぴたりと重なる。
「古事記では、神々は宴を開き、舞を舞って、大神の興味を引いたとされています。ですが、我々の解釈では、あれは宴ではない。あれは、
「……」
「あなたが幻視で見た、戦国の世の巫女は、おそらく、その神代の儀式を再現し、
水上の言葉を、隣で聞いていた源兵衛が、深く頷きながら引き取った。
「学問のことはよう分からん。じゃが、言うとる意味は同じことじゃ。あの場所は、この国の始まりの場所であり、あるいは、終わりの場所にもなる。わしらがやるべきことは一つ。神々の庭を荒らし、眠りを
志乃は、自分がこれから挑むものの、本当の大きさを理解した。
それは、もはや玄洋会という一つの組織との戦いではない。
この国が、神代の昔からひた隠しにしてきた、巨大な秘密そのものとの
一行は、再び立ち上がった。
彼らの
しかし、その心に
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