32

 夜明け前の、全ての色が青に溶け込む時間。

 四人は、源兵衛げんべえの小屋を後にした。

 ひやりとした朝霧あさぎりが立ち込める中、東の空だけが、わずかに茜色あかねいろに染まっている。

 源兵衛を先頭に、水上、志乃、そして最後尾をいさおが固める。

 朝霧の中、四人は言葉を交わすこともなく、日鎮ヶ岳ひずめがたけへと続く、地図にはない獣道けものみちへと足を踏み出した。


 道は、初めから険しかった。

 人の背丈せたけほどもある笹薮ささやぶをかき分け、こけむした岩を乗り越え、時には沢を渡る。

 帝都ていと平坦へいたんな道に慣れた身には、一歩進むだけでも息が上がった。

 しかし、志乃は弱音を吐かなかった。

 巌から教わった、大地をつかむような歩き方と、自然と一体になる呼吸法を実践すると、不思議と体は軽く、疲れを感じにくかった。

 志乃は、次第に自分の身体が、この山の空気に馴染なじんでいくのを感じていた。


 先頭を行く源兵衛の足取りは、老人とは思えぬほど確かで、一切の無駄がない。

 彼は時折ときおり立ち止まっては、風の匂いをぎ、地面に残された獣の痕跡を読み、一行が進むべき、最も安全な道を選んでいた。


 数時間が経ち、陽が高く昇り始めた頃、一行は少し開けた岩場で小休止を取った。

 眼下には、朝霧が晴れた松本の町が、まるで箱庭はこにわのように小さく見えた。

 志乃は、岩に腰を下ろした源兵衛の隣に座ると、意を決して話しかけた。


源爺様げんじいさま


「…なんだ」源兵衛は、水筒の水を一口飲みながら、ぶっきらぼうに答えた。


「先日、帝都で不思議なものを見ました。私の先祖だという、古い時代の巫女みこの姿です。その方が、山の頂にある、立派なおやしろにおりました。そのお社のことを、何かご存知ではないかと思いまして」


 源兵衛の動きが、ぴたりと止まった。

 彼は水筒を置くと、真剣な目で志乃を見つめた。


「…どんなやしろだ」


「はい」志乃は、幻視げんしで見た光景を、懸命けんめいに言葉にした。「お社の後ろには、いただきが三つに分かれた、かぶと前立まえだてのようなお山がそびえていました。ふもとには、とても大きな湖があって…お社の造りは、伊勢いせ神宮じんぐうで見たような、飾り気のない、直線的なものでした。屋根には、千木ちぎが高くそびえ、鰹木かつおぎが何本も並んでいました」


 その説明を聞くうちに、源兵衛の顔から、けわしさが消えていった。

 代わりに浮かんだのは、深い驚きと、畏怖いふねんであった。


「……まさか」老人は、かすれた声で呟いた《つぶやいた》。「お前さん、それを見たのか。本当に」


「はい。はっきりと」


 源兵衛は、天をあおぐように、遠い山の稜線りょうせんを見つめた。


「…そんな社は、この辺りにはねぇ。わしが知る限り、どこの山にも、そんな立派な社はとっくにさびれてしもうとる。じゃが…わしがまだガキの頃、死んだ爺様じっさまから、一度だけ聞かされたことがある」


 それはまるで遠い昔の御伽噺おとぎばなしを語るかのように、ゆっくりと話を続けた。


「この日鎮ヶ岳の、さらに奥の奥、地図にもっておらん雲の上に、『あま岩戸いわと』と呼ばれる場所がある、とな。そこは、神様がおかくれになる場所で、清い心の持ち主か、神に呼ばれた者しか、辿たどくことはできん。そこには、人が作ったのではない、神様ご自身が作ったという、そっくりなお社がある、と…」


 源兵衛の言葉は、志乃の幻視が、ただの記憶の断片などではなく、この山の最も深い場所に隠された、聖域せいいきの姿を映し出したものであることを示唆しさしていた。


「お前さんが見たのは、それかもしれん。もしそうだとしたら、わしらは、ただ山に登るんじゃねぇ。神様の庭に、お邪魔させてもらうことになる。心してかからにゃ、生きては帰れんぞ」


 その言葉は、脅しではなかった。

 長年、山と共に生きてきた男が抱く、人知を超えたものに対する、偽りのない畏敬いけいの念であった。

 神の庭。

 人が作ったのではない社。

 その途方もない話に、水上ですら言葉を失い、巌は険しい顔で、これから挑むべき山の頂をにらんでいる。


 一行は、しばし沈黙に包まれた。

 風の音と、遠くで響く鹿の鳴き声だけが、岩場を吹き抜けていく。

 その静寂を破ったのは、やはり志乃であった。

 彼女は、目の前の絶景から、隣に座る水上へと、その静かな視線を移した。


「水上さん」


「…はい」水上は、思考の海から引き戻されたように、ゆっくりと応じた。


「源爺様が仰る『天の岩戸』…それは、私が知っている、古事記こじきに出てくるお話と、何か関係があるのでしょうか。天照大神あまてらすおおみかみがお隠れになり、世が闇に包まれたという、あのお話です。学者として、水上さんはどのようにお考えになりますか」


 その問いは、この神秘的な状況にあって、あまりに冷静で、学究的がっきゅうてきなものであった。

 水上は、この十五歳の少女が、神話の存在をただ恐れるのではなく、一つの事象じしょうとして理解し、分析しようとしていることに、改めてしたいた。

 彼は、自らの専門分野に引き戻されたことで、いくらか落ち着きを取り戻したようだった。


「…素晴らしい質問です、志乃さん」水上は、一度ゆっくりと息をつくと、学者としての顔つきで語り始めた。「古事記や日本書紀にほんしょきしるされた神話は、我々が知る『正史せいし』です。天照大神が弟神おとうとがみ乱暴らんぼうに怒り、天岩戸に隠れたことで世界は闇に閉ざされ、八百万やおよろずの神々が策を練って、うたげで大神を誘い出した…というのが、我々が知る物語ですね」


 彼は、そこで一度言葉を区切ると、まるで大切な秘密を打ち明けるかのように、声をひそめた。


「ですが、我々『防人さきもり』の間では、古くから別の説が伝えられています。神話というものは、時として、人の世のことわりを超えた、あまりに強大で不可解ふかかい出来事できごとを、後世こうせいの人間が理解できるように『翻訳ほんやく』したものである、と。もし…もしですよ」


 水上は、その視線を真っ直ぐに志乃に向けた。


「もし、神話に語られる『天照大神』が、我々が考えるような神そのものではなく、あなたと同じ、『しずめの血脈けつみゃく』を持つ、神代かみよの時代の、絶大な力を持った一人の大巫女おおみこであったとしたら?」


 その言葉に、志乃は息をんだ。


「そして、彼女が天岩戸に『隠れた』のではなく、何かを『封印した』のだとしたら? 例えば…そのあまりに強大な力ゆえに、世界そのものを焼き尽くしかねない、危険な神器じんぎを。…そう、あなたが幻視で見たという、『陽霊ようれいの玉』のようなものを」


 水上の仮説は、壮大で、しかし奇妙な説得力を持っていた。

 神話の物語が、彼らが今まさに直面している現実と、ぴたりと重なる。


「古事記では、神々は宴を開き、舞を舞って、大神の興味を引いたとされています。ですが、我々の解釈では、あれは宴ではない。あれは、あらぶる神器の力を鎮め、封印を完成させるための、大規模な『儀式ぎしき』だったのです。そして、その中心にいたのが、『鎮めの乙女』のである、大巫女だった…」


「……」


「あなたが幻視で見た、戦国の世の巫女は、おそらく、その神代の儀式を再現し、乱世らんせの中で再び不安定になった『陽霊の玉』を、その身をして再封印さいふういんしたのでしょう。我々が向かっているのは、ただの山ではなく、日本の神話が生まれた、その原初げんしょの舞台そのものである…その可能性が、あるのです」


 水上の言葉を、隣で聞いていた源兵衛が、深く頷きながら引き取った。


「学問のことはよう分からん。じゃが、言うとる意味は同じことじゃ。あの場所は、この国の始まりの場所であり、あるいは、終わりの場所にもなる。わしらがやるべきことは一つ。神々の庭を荒らし、眠りをさまたげようとする不届ふとどものどもを、山から叩き出す。それだけじゃ」


 志乃は、自分がこれから挑むものの、本当の大きさを理解した。

 それは、もはや玄洋会という一つの組織との戦いではない。

 この国が、神代の昔からひた隠しにしてきた、巨大な秘密そのものとの対峙たいじなのだ。


 一行は、再び立ち上がった。

 彼らの背負せおう荷物の重さは変わらない。

 しかし、その心に宿やどす使命の重さは、先程までとは比べ物にならないほど、増していた。

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