18

 書庫に満ちる古書の匂いと、張り詰めた空気の中、志乃は水上と、そして部屋の隅に立つ護衛ごえいいさおに視線を向けると、八坂やさかおうが座る大きな机へと進み出た。

 彼女はまず、深々と礼をした。


「八坂様、改めましてご挨拶させていただきます。私、神阪志乃と申します。昨夜は、急にお邪魔いたしました」


 翁は、広げていた地図からゆっくりと顔を上げた。

 その深いしわ縁取ふちどられた瞳は、まるで悠久ゆうきゅうの時を見てきたかのように、穏やかで、そして全てを見通しているようだった。


「うむ。おもてを上げなされ、『しずめの乙女おとめ』よ。ここ、神宮文庫じんぐうぶんこまで、よう来られた」


 その呼び名に、志乃は改めて背筋が伸びるのを感じた。

 彼女は意を決し、真っ直ぐに翁を見つめた。


「恐れながら、お尋ねいたします。なぜ、私のことを『しずめの乙女おとめ』とお呼びになるのでしょうか。その所以ゆえんが記されていたという、古い記述について、お見せいただくことは叶いますでしょうか」


 その言葉は、単なる好奇心から発せられたものではなかった。

 自分の身に起きていること、そしてこれから起きるであろうことから目を背けず、正しく向き合いたいという、静かで、しかしるぎない決意がこもっていた。

 水上と和泉が、息を呑んで志乃を見守っている。


 八坂翁は、志乃の瞳をしばらく見つめていたが、やがて満足げに、深く頷いた。


「よかろう。おのれの役目を知ろうとすること、それこそが第一歩じゃ。水上、例のものを」


 水上は心得たとばかりに、書庫の最も奥にある、一際ひときわ古びたきり箪笥たんすへと向かった。

 厳重な錠前を外し、彼が取り出してきたのは、紫の袱紗ふくさに大切に包まれた、細長い桐箱であった。

 机の上に置かれた箱を、八坂翁はまるで赤子に触れるかのように、うやうやしい手つきで開いた。

 中から現れたのは、象牙ぞうげの軸を持つ、一本の古い巻物であった。


「これは、『先代旧事本紀大成経せんだいくじほんぎたいせいきょう』の写本の一部じゃ」翁はそう切り出すと、注意深く付け加えた。「表向きは、江戸の世に作られた偽書ぎしょとして知られておる。帝大の学者先生方に言わせれば、一顧いっこだにする価値もない、戯言たわごとの集大成じゃろうな」


 志乃と、そして水上の顔にも、わずかに困惑こんわくの色が浮かんだ。


「じゃが」翁は続けた。「その元となった原典げんてんは遥かに古い。偽作者は、己の説に権威けんいを持たせるため、遥かいにしえの、そして危険な真実の断片だんぺんを、巧みに織り交ぜたのじゃ。ここに書かれておることの大半は、出鱈目でたらめ。じゃが、いくつかのくだり…それだけは、本物じゃ」


 翁はそう言うと、巻物をゆっくりと広げていった。

 紙は茶色く変色し、所々が虫に食われている。

 そこに書かれている文字は、志乃が見慣れた漢字や仮名とは違う、まるで梵字ぼんじのようにも見える、異様な形をしていた。

 翁は、その難解な文字を、よどみなく読み解き始めた。


「……ここに、こう記されておる。『…かの大禍たいかの時代、地は荒ぶり、天は裂け、人の世は混沌こんとんに沈みたり。古き神々の怒りの具現ぐげんたる神器じんぎ、その在処ありかを示し、乱れたる龍脈りゅうみゃくをさらに掻き乱さんとす。されど、天と地のことわり、乱れし時、鎮めの血脈より一人の乙女現るべし。その乙女の傍らにありては、荒ぶる神器もその猛威もういを鎮め、堅き錠前のごとく、その力を内に秘めるであろう。故に、かの乙女を『鎮めの乙女』としょうす…』」


 翁はそこで一旦言葉を止め、志乃の顔をじっと見た。


「我々『防人さきもり』は、代々この記述を頼りに、神器を探し、そして『鎮めの乙女』の出現を待ち続けてきた。そなたが古今堂で手にした『鎮めの石』は、まさしくその神器の一つ。そして、その猛威を、そなたは無意識のうちに鎮めていた。志乃殿、そなたこそが、この記述にある『鎮めの乙女』に他ならぬ」


 翁は、いつの間にか志乃のことを「志乃殿」と、敬意を込めて呼んでいた。

 その事実が、彼の言葉の重みを何よりも物語っていた。


 志乃は、ただ呆然ぼうぜんと立ち尽くしていた。

 自分の家系が、そんな大それた宿命しゅくめいを背負っていたとは。

 おっとりした、ただの古物屋の娘。

 そうとしか思っていなかった自分が、帝都の、いや、この国そのものの安寧あんねいを左右するかもしれない存在だという。

 にわかには信じがたい話だった。

 しかし、あの石に触れた時の感覚、そして海龍や水上、八坂翁といった人々が自分に向ける視線を思い出すと、それを否定することもできなかった。


 翁は、巻物の別の箇所を指差した。


「ただし、記述には続きがある。『…されど乙女よ、心せよ。わざわいを望む者どもは、乙女を救い手としてではなく、神器を自在じざいに操るための、最も価値ある『鍵』として求めるであろう…』」


 その言葉は、水上がカフェで言った警告と、不気味なほど一致していた。

 玄洋会げんようかいは、自分を「鍵」として狙っている。

 その意味が、今、はっきりと理解できた。


「これが、そなたが『鎮めの乙女』と呼ばれる所以ゆえんじゃ」


 八坂翁は、静かに巻物を巻き終え、桐箱に納めた。

 志乃は、自分の掌をじっと見つめた。

 この手に、そんな力が宿っているというのか。

 恐怖はなかった。

 しかし、自分の身体が、自分だけのものではなくなったかのような、途方もない責任の重さを、彼女は感じていた。

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