16

 水上の言葉が重くのしかかり、テーブルを囲む男たちがそれぞれの思案しあんに沈む中、志乃は静かに心を決めた。

 父の不安そうな顔と、岸馬の険しい表情、そして水上の真摯しんし眼差まなざしを順に見つめた後、彼女は口を開いた。


「水上さん」


 志乃の声に、三人の視線が再び集まる。


「あなたの言う『防人さきもり』の隠れ家へ、私を連れて行ってください。自分の身を守るため、そして、私自身のこの力の謎を解くために」


「志乃! 何を言うんだ!」


 宗一郎が悲鳴のような声を上げた。

 彼は娘の肩を掴み、自分の後ろへ隠そうとする。


「いかん! 絶対に許さんぞ! どこの誰とも知れん男に、お前を預けられるものか! 岸馬君、君からも言ってやってくれ! この子は、まだ十五なんだぞ!」


 父の必死の形相ぎょうそうに、志乃の心はちくりと痛んだ。

 しかし、彼女は父の手をそっと握ると、静かに首を横に振った。


「お父様。ここにいても、玄洋会げんようかいは必ず来ます。この店や、お父様を危険にさらすだけです。それならば、私自身が動くべきです」


 岸馬は、吸いかけの煙草を灰皿に押し付けると、深く長い煙を吐き出した。

 彼は宗一郎の肩を叩き、それから水上を睨みつけた。


「旦那、落ち着け。嬢ちゃんの言うことにも一理いちりある。このまま店にいたんじゃ、親子揃って危ない。だがな、水上先生」岸馬の声は、低く、脅すような口調だった。「あんたも、ただ『安全だ』と言うだけじゃ、こっちは納得できん。どこへ娘さんを連れて行くつもりだ? 俺たちが、彼女の安否あんぴを確認する手立てはあるのか? 記者の言葉など、あんた方のような裏の世界の人間には意味がないかもしれんが、もしこの子に何かあったら、俺は持てる全ての力を使って、あんた達の秘密を白日の下に晒してやる。そうなっても構わん、という覚悟があっての話か?」


 岸馬の言葉には、友人を思う男の気遣いと、記者としての執念しゅうねんが同居していた。

 水上は、その脅しとも取れる言葉を、冷静に受け止めた。


「場所の秘匿ひとくは、彼女の安全のためにも不可欠です。しかし、ご心配はもっとも。岸馬さん、あなたを連絡役としましょう。定期的に、必ず志乃さんの状況をお知らせする方法を設けます。それでご納得いただけませんか」


 水上の提案に、岸馬はしばらく考え込んだ後、宗一郎に向かって頷いた。


「旦那、今のところは、これが最善かもしれん……」


 宗一郎は、まだ納得しきれない様子だったが、信頼する友人の言葉と、何より娘の固い決意の前に、力なく肩を落とすしかなかった。


 水上は手早く段取りを決めると、「今夜半こんやはん、時計の針が十二時を回る頃に、店の裏口で」とだけ言い残し、代金をテーブルに置いてカフェを去っていった。


 古今堂に戻ってからの時間は、まるで水の中にいるかのように、重く、ゆっくりと過ぎていった。

 宗一郎は、黙々と店の片付けをしていたが、その手が時折止まり、遠い目をするのを志乃は見ていた。

 彼は、志乃の亡き母の古い写真立てを引っ張り出し、そのガラスを何度も何度も、柔らかい布で拭いていた。


「お母さんもな、志乃。お前のように、芯の強い人だった。わしが止めるのも聞かずに、都へ出てきて……。あんな山奥の暮らしよりも、広い世界が見たい、と……」


 その言葉は、娘を送り出す今の自分の心境しんきょうと重なっているようだった。

 志乃は、父の背中にそっと声をかけた。


「すぐにお手紙を書きます。岸馬さんを通じて、必ず」


 志乃は、旅支度と言っても、着替えの着物二、三枚と、数冊の書物を風呂敷に包んだだけの、ささやかな荷物を作った。

 その中には、女学校の教科書の他に、与謝野晶子の歌集も一冊、忍び込ませておいた。


 約束の時刻、志乃が店の裏口の戸をそっと開けると、そこには一台の黒塗りの自動車が、音もなく闇に溶け込むように停まっていた。

 運転席の男は、帽子を目深に被っており、その顔はうかがえない。

 水上が、その傍らに影のように立っていた。


「志乃……」


 見送りに来た宗一郎の声が、震えている。

 彼は志乃の肩を固く掴んだ。


「……必ず、無事でいるんだぞ。必ずだ。誰のことも、完全に信用するんじゃないぞ。水上さんとて……」


「はい、お父様。ご心配なく」


 志乃は気丈きじょうに微笑むと、後部座席に乗り込んだ。

 水上がそれに続くと、運転手は一声も発さずに静かに発動機はつどうきをかけ、車は滑るように動き出した。

 低い走行音だけが、夜のしじまに響く。

 志乃は、次第に小さくなっていく古今堂と、そこにたたずむ父の姿を、闇が覆い隠すまで、じっと見つめていた。


 自動車は、帝都の眠る街を、まるで夢の中を渡るように滑らかに進んでいく。

 ガス灯の淡い光が、人気のない通りを頼りなげに照らし、路面電車の線路が濡れたように鈍く光っている。

 志乃は窓の外を流れる景色を眺めながら、自分が今、人生の大きな節目ふしめに立っていることを実感していた。

 不思議と、恐怖はなかった。

 ただ、これから始まるであろう未知の出来事に対する、静かな好奇心が胸を満たしていた。


 やがて、麻布の静かな屋敷町の一角で、車は音もなく足を止めた。

 目の前には、高い塀に囲まれた、古いが手入れの行き届いた武家屋敷が、夜の闇の中に黒々とその影を横たえていた。

 表札も出ておらず、ここが何であるかを示すものは何もない。

 ただ、その佇まいだけが、尋常ならざる歴史と秘密を内包ないほうしていることを物語っていた。


「ここです」


 水上の言葉と共に、屋敷の重厚な門が、内側から音もなく開かれた。

 志乃は、父と暮らした穏やかな日常に別れを告げ、これから始まるであろう、謎に満ちた新たな世界へと、その一歩を踏み出した。

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