第2話
母が死んでから、家の中は妙に広くなった。
同じ食卓に座っていても、父との間には壁より厚い沈黙があった。
赤い絨毯の上を歩いていても、足音がやけに冷たく響いた。
母のいない食卓は、妙に空々しかった。誰も話すことがない。ただ、イスナだけが学校であったことを話すばかりだった。
しかし、父親がそれに反応することもない。
愛の無い家庭だったはずで、父は母の死にも世間体を気にする反応をするばかりだった。それにも関わらず、父の背中は空虚で、家の中の温度が徐々に失われていく。
使用人の数すら減っていったのだった。
それでもなお、イスナは勉強も武芸もスポーツも手を抜くことはなかった。
そんな中で、イスナは当時、唯一の友人であった両儀園路から煙草を教えられた。
それは両切りのPeaceだった。安価な煙草は学生が手を出しやすい。
しかし、その紫煙は、イスナにとって大人の真似事には似合わず、ただ苦くて、胸の奥に穴を開けるだけだった。
「これ、使えよ。センパイが作ったんだ」
園路から渡されたのは、偽造身分証であり、成人を偽証するためのものだった。
官僚や政治家、マスコミの二世三世が通うその学校で園路は珍しく、平民の出だった。
「昔は貴族だったんだぜ、俺の家系」
園路はそう笑っていた。
イスナは、笑わなかった。ただ、その園路が話す言葉を、どこか羨ましげに聞いていた。
イスナが背伸びして得られなかった自由を、園路は最初から持っているように見えた。
園路は、学校に通う中で何度も苦難に遭遇していた。園路の上靴は何度もゴミ箱や汚泥の中から見つけられ、教科書には落書きがされ破られていた。
平民出身だと笑われ、元貴族ってただの没落だろと揶揄される。
体育館裏やトイレで園路は殴られ、蹴られ、「身分違いのくせに同じ学校に通いやがって!」「豚小屋のニオイが移る」とバカにされる。
そんな、血が滲んだ体で園路はイスナと話す。
「痛ぇよ、ひっでぇよなぁ。こんなめちゃくちゃに殴りやがって」
園路は地面に血痰を吐き出す。
それを、イスナはただ見ているだけだった。
「悪いな、守れなくて」
小さく呟いたイスナの言葉に、園路は笑って「気にすんなよ、俺ら、友達だろ」と笑うのだ。
そして園路はその日、イスナに煙草を渡した。まだ新品の、封を切っていないものまで。
「お前はさ、吸っとけよ。俺の分まで」
園路の言葉に違和感を覚えたイスナは、けれど「ああ」と頷いて終わらせてしまったのだ。
園路は翌日、川から冷たくなった体で、引き上げられた。
彼が飛び込んだと思われる橋には『遺書』と書かれた罫線のない、破れたノートの切れ端と、それを押さえていた石だけが残されていた。
園路の死体には靴が履かされており、明らかに自殺ではない。
しかし、それは自殺でも他殺でもなく、ただ“事故”として処理されたのだ。
マスコミは「不慮の事故で帝政学園の生徒が亡くなり」などとセンセーショナルにがなりたてている。
その一方でニュースキャスターは、抑揚なく園路の死を読み上げていた。
ここですら世間体が優先されるのかと、イスナは怒りすら覚える。
園路の葬儀には、学校関係者の誰もいなかった。
祭壇の前に並ぶ椅子は二〇脚。埋まったのは、たった五つだけだった。
ただ一人、イスナだけが友人として参列し、その参列者の少なさに彼は滂沱と涙を流したのだ。
あの、おおらかで、優しく他者のことを自分事のように受け止めるような奴の死が、たったこれだけの人数にしか受け止められないのかと。
「そのじと、仲良くしてくれてありがとう」
園路の母親から告げられたその言葉に、イスナは唇を噛む。
──友人一人、救うことのできなかった俺が園路を友人だと言ってもいいのか。
その日のうちに墓へといれられた園路に会いに、イスナは墓地へと向かう。
「お金が無いの」
そう恥ずかしそうに呟いた園路の母親は、彼のための墓など建てることもできず、代々続く墓の代金も払うことすらできず、共同墓地へ彼を眠らせたのだ。
名札もなく、番号だけの木札が風に揺れていた。
それに、イスナは愕然とする。
金が無いと、死すら辱められるのかと。
「なあ、園路。お前、自分が死ぬの分かってたのか?」
共同墓地の前に座り込んでイスナは問い掛ける。返事は、無かった。
新しい煙草の封を切って一本咥え、火を付ける。煙草の先から伸びる紫煙だけが、風に揺れながらも、細い煙はまっすぐに空へ伸びていった。まるで園路が最後に「行け」と背を押しているように。
まるで、園路の死を悼むように空へと立ち上っていく。
──イスナはさ、王になる器だよ。
そう笑う、園路の姿だけがイスナの脳裏に映る。
家に戻ったイスナを迎えたのは、警察と報道陣の群れだった。
門の前に立つリポーターが喚き立てる。
「優秀な官僚として有名だった東雲秋斉氏の汚職が発覚しました! 地下カジノでの金を、マネーロンダリングして使用していたとのことです!」
家の中から警察官に挟まれて出て来る父親の姿が、イスナの目に映る。
カメラのフラッシュが雨のように降り注ぎ、手錠を掛けられ腕に白い布を被せられた父親へ、矢継ぎ早にマイクが突き出される。
まるでこの場所にイスナという存在自体が、存在しないかのようだった。
警察官に挟まれて歩く父親は、その時ですらイスナのことを見ることは無かった。
彼は、何も言わず眉一つ動かさずに連行される。
この瞬間にイスナは、家も庇護される立場をも失ったことを、否応なく理解させられた。
唯一の友を失ったその日に、イスナは全てを失った。
その時、イスナの世界は終わった。
……だからこそ、彼は王にならなければならなかったのだ。
王に、なるしかなかったのだ。
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