スラムに王は生まれる

田中

第1話

 古いモルタルが湿気と混ざって、鼻を刺すように臭う路地裏。足元には雨でふやけた段ボールと、誰のものとも知れない薄汚れた靴下。

 鼻を刺す匂いに混じって、どぶ川のぬめった臭気が漂っていた。


 昼日中でも光は差さず、空気は淀み、そこにいるだけで人間が腐っていくような場所。

 靴もなく、行き場もなく、世界からはみ出した負け犬たちが集まっている、まるで国の暗部を表すかのような薄暗いそこに、背が高いのや鼻水が擦れて黒くなったの、歯が欠けて無くなっているのなど、四、五人の少年たちが集まり、一人の少年を取り囲んでいる。


 取り囲まれている少年は大きな赤い瞳に、薄紫色の短い髪。抜けるような白い肌をしていた。耳には赤い飾りを付けている。彼はその容姿のせいで、「日本人じゃない」、「その目、やっぱ気持ち悪ぃよ。血みたいじゃん」と差別を受けていた。

 路地裏に落ちている新聞に、少年の顔写真が写っている。


「おい、兄ちゃん。お前こないだまで政府の犬だったんだろ」


「兄ちゃん、負け犬じゃんか。俺らと同じだ」


 まだ中学生ほどに見える、自分と同年代だろう少年たちが笑う。

 イスナは口に咥えていた両切りの煙草を唇で挟み、口の中に入り込んできた乾いた煙草の葉を唇でこそぎ落とす。

 湿気に溶けるように、イスナの口から吐き出された紫煙が解けていく。

 子供たちが、煙草を吸うイスナの姿を羨望とも、嘲笑ともつかない目で見つめていた。


「ああ、だから」


「……今日から俺がテメェら負け犬どもの王だ」


 そう言った少年の名は、東雲凍砂──イスナ。

 彼は口に咥えてふかしていた両切りの煙草を壁で押し潰して笑う。吐き出した煙と共に、噎せ返りそうな咳を抑えてその赤く大きな目を細めて、軽く咳払いをする。

 そして、それを誤魔化すようにイスナは薄い笑みを浮かべる。


「は?なに言ってんだコイツ」


「王様だってよ!」


 イスナのその言葉に、彼を取り囲んでいた少年たちはゲラゲラと笑う。まるで抱腹絶倒さながらだった。

 黄色く染まった歯を見せて笑っている少年すらいる。

 笑い声の中に、一人だけ黙ったままの子供がいた。

 その目は、嘲笑ではなく――羨望に近い色を帯びていた。

 そして、彼らは「元エリート官僚様なら、スラムを良くしてくれよ」などと嘲笑して見せるのだ。

 その笑い声すら、イスナには王に従う民のざわめきに聞こえた。


 凍砂……イスナは、その月の始めにこの路地裏へとその身を落とされたのだ。

 風に飛ばされた新聞にはたった一言が、しかし、センセーショナルに書かれている。


──東雲家の御曹司、退学処分。父の汚職事件により失脚!


 スラムにいる少年達のほとんどは、文字を読むことができない。

 その中のごく少数の文字が読める“博識”な少年が、拾ってきた新聞を「なんて書いてあんの?」と聞く子供へ読み聞かせるのが、スラムの日常だった。

 だからこそ、イスナがこの路地裏へ落ちてきたことを知っていたのだった。


 博識な少年が読み上げていく。


「しののめけの、おんぞーし、たいがくしょぶん。ちちの、おしょくじけん、により、しっきゃく」


 読み上げる声はたどたどしく、けれどどこか誇らしげだった。

 少年たちは「御曹司ってなんだよ」だとか、「御曹司?」「汚職ってなんだよ」「しっきゃくってなんだ」などと話し合っていた。文字を読めた少年ですら、その意味までもは理解していない。


 つい先ほどまで赤い絨毯の上を歩いていた少年が、いまは段ボールに新聞紙を敷いただけの上に座っている。

 靴で踏む、濡れて柔らかくなった段ボールの感触に、まだ足裏が慣れない。靴裏からはグジュグジュと濡れて腐った、不快な音が聞こえてくる。その不快な音は、耳の奥でまだ響く拍手を踏みにじるようだった。

 東雲凍砂は、将来を約束されたエリートだった。

 少なくとも、あの“赤い絨毯の上”では。

 イスナは一般的な日本人とは異なった容姿をしていたものの、整った目鼻立ちに、官僚である父と弁護士である母を両親に持つ、この腐った世界での勝ち組だったのだ。


 腐敗した政治家と、その天下り企業が牛耳る社会の中では警察も裁判所もメディアも信用することはできず、彼等は政治家の言いなりになってしまっていた。

 そんな世界の中で、官僚と弁護士の両親を持っていれば、完全に勝ち組であると言われていたのだ。


 しかし、イスナの母親は、ある日、首を吊った。

 静かな家の中に、赤い絨毯の上に立つはずの母は、そこに吊られていた。その体を初めて見つけたのは、まだ一〇歳だったイスナだった。


 母の部屋をノックして開けた途端に、目に飛び込んできた変わり果てた母の姿と、その足元を汚す失禁と汚辱の、生っぽい臭気。

 イスナの世界は、その日から静かに腐り始めた。

 まるで、湿気にさらされた段ボールのように。


 その瞬間、一〇歳のイスナの心から何かが落ちていった。


 イスナは、慌てて父の書斎へと向かう。その重厚な樫の木で作られた扉を、イスナの小さな手が叩いた。


「お父様! お父様、開けてください!」


 必死に父を呼ぶイスナの声に、白髪の混ざり始めた黒髪に小さな眼鏡、グレー混じりの黒い瞳をした男性。

 一八〇センチメルトルを超える、長身がイスナの小さな体を見下ろしている。


「お、お母様が、お部屋で……」


 イスナの声に、父が部屋を出て母の部屋へと向かい、そこに吊るされた母だったものを見る。

 彼はそれに美しい柳眉を顰めて鼻と口をハンカチで覆った。その声には震えの欠片も無く、ただ嫌悪に塗れていたが、それもすぐに冷徹な調子へと戻った。


「使用人を呼んですぐ片付けろ、マスコミに知られるな。お前は何も見ていない、いいな」


 父の言葉に、イスナは声を失う。

 イスナの小さな膝は、勝手に震えて止まらなかった。

 愛は無かったとは言え、家族であった存在を無かったものとし、制度や体面を優先するこの世界に、恐怖すら覚えたのだ。


 両親は、イスナの容姿で何度も喧嘩を繰り返していたのだ。両親のどちらにも似ていない色合いに、顔立ち。


「あの目は私たちの血じゃない」


 そんな声を、イスナは何度も廊下で聞いていた。

 イスナは、所謂アルビノの一種だったのだ。白すぎる肌と、血をすくったような瞳。それだけで、彼は家の汚点だった。

 しかし、原因を知っていてなお、世間体を重視する彼らはイスナを認めなかったのだ。

 その中でイスナは、せめて父が母が自分を見てくれるようにと、必死に勉強をし武芸に、スポーツへと励んでいたのだ。

 けれど、どれだけ努力をしても、父母の目は新聞の株価と世間体にしか向いていなかった。


「お父様、お母様、今期の試験では私が首席でした」


「お父様、お母様、武芸の大会があるんです」


「お父様、お母様、弓道の試合があり、私は大将に選抜されました」


 言葉を重ねるイスナをちらりと見て、それでも両親は何も言うことは無かった。

 返事を待つ沈黙の中で、イスナの喉は小さく鳴った。

 しかし、父は新聞を一枚めくり、母はパソコンの画面から目を離さなかった。

 母の指先は、冷たいキーボードを叩き続けていた。

 彼らにとっては一人しか生まれなかった、出来損ないの息子の華々しい活躍よりも、世間の変化のほうが大切だったのだ。

 称賛の言葉を得るための努力は、虚空に投げられ続けた。

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