コンサートホール②
これに気づいた渡辺がとっさに3人めがけて「警戒! 右、4時の方向!」と声を発した。
なんのことかわからず振り返る萠妃に対し、オーダー科の2人は指示された右斜後ろを振り向いた。
迫り来るその、まだ少年といっていい面立ちと中肉中背の男の挙動を見て、多喜は青ざめた。
その右腕は、胸前に吊るしたボディバッグに差し込まれ、何かを掴みだそうとしている。その顔は画質の微妙な駅の監視カメラ映像でも見て取れた特徴の顔と同じだった。
先日萠妃を切りつけたストーカーである。
「富山、傘広げろ!」
そう叫びながら、男と二人の間に割っているように多喜が前に出る。
次の瞬間には男はカバンから取り出したなにかの、短いさやのようなものを投げ捨てていた。
ぎらりと白い短い刃が光る。いわゆるペティナイフや果物ナイフと呼ばれるサイズの、アゴのない短い刃物だ。
多喜は折りたたみ式の日傘の柄を伸ばし、右手で持って右肩に担ぐように振りかぶった。
富山が長傘型の日傘を開いて目隠しのように萠妃と自分の身体を覆いながら、回転扉へと萠妃を押し込み、同じ狭い枠内に傘を閉ざしながら富山自身も滑り込む。
複数犯でホール内にも共犯者が居た場合、萠妃一人を先に入れるわけにはいかないからだ。
「この売国奴が!」
男はそう叫びながら、多喜に斬りつけてきた。これを大きく二歩下がって間合いを取って
男がナイフを振り切った右腕めがけて、傘の柄を振り下ろし、犯人の右前腕を叩いて再度の振り上げを一瞬阻止する。
多喜は空いている左腕で犯人の右肘ごと脇腹を押し込み、姿勢を崩させる。
そのまま犯人の手からナイフを落とそうと、素早く一度、二度と傘で殴りつける。だが先を生地で包まれたアルミフレームの折り畳み傘は打撃に耐えきれず、一撃ごとにゆがんで曲がってしまう。
この間に、駆け寄りながら渡辺は首に吊るしたサッカー用のホイッスルを咥えて強く吹いた。
その甲高い笛の音に、一斉にその場に居た他の灰色の制服の少年少女達が振り向いた。
その音は、国防コース生達に配布された警笛の音にとても良く似ていたからだ。
それでも犯人はナイフを落とさず、それどころか持ち手を左手に変え、まっすぐに多喜の胸元めがけてまっすぐに突き上げられた。
がら空きになった狭い間合いで、避けようもない。
右半身、みぞおちの斜め上のあたりにナイフが突き立った。
多喜は、右上脇腹にいや胸の骨全体が揺れるような、強烈に殴りつけられたような衝撃に近い痛みを感じた。
それに続いて、肺の一部まで刃が達したのかと思うほど肋骨周りの筋肉がすくみ上がり、一瞬息ができなくなった。
刺されたという自覚がなければ、そのまま全身が硬直してしまいそうだった。
(これは……やばいか?)
痛みを感じながら、ゆがんで使い物にならない傘から手を離し、ストーカーの手ごとナイフを掴んだ。このまま引き抜かれるわけにはいかない。致命傷になりうる大出血をするからだ。
ナイフの短い刃は、その全てが多喜の体に刺さりこんだわけではなく、根元側半分以上を残して留まっていた。おそらく肋骨に刃先が当たって止まったのだ。
だが、ここから少しでも刃先が骨の間を滑り込めば肋間膜に突き立つ。その奥は肺である。
絶対に、引き抜かせるわけにも、刃先を動かすわけにもいかなかった。左手で刃の根本を直に掴み、右手で男の指を小指から一本ずつ剥がしていく。
刃に触れた指の半ばから血が流れる。興奮しているせいか、痛みよりも判断が勝っていた。
いや、むろん刺された上脇腹は猛烈に痛い。無意識に体をすくめて、頭を垂れてしまうほどに痛い。
それでも耐えてこの手からナイフを奪うしか生き残る手はなかった。素手で自由な状態のナイフを持った相手には勝てないのだ。
男が右手を添えてナイフを握り込もうとしたその右腕を、渡辺が
これをうけて、この凶行に走った国防コース生は叫んだ。
「裏切り者どもが! お前らそれでもにっぽ……」
言葉が不意に止むと同時に、パンと、多喜の背後から爆竹でも爆ぜるような乾いた軽い音がした。
そして、その音に続いて、雨のように真っ赤などろりとした液体が背後の渡辺の肩口と、多喜の頭上に降り注ぎ、同じ刹那、豪雪地の落雪のように細かなガラス片がどしゃーっと降り注いだ。すぐ傍らのコンサートホールの外観でもある大窓が、まるで車の窓のように細片に割れたのだ。
雨のようなものが赤黒い血だと気づいたのは、崩れるように倒れる少年の手から、どうにかナイフをもぎ取った後だった。
その顔は目を見開いたまま、怒りに歪み声を放った表情で固まった顔の、しかめられた左眉にまるで釘でも打ち込まれて引き抜かれたように真っ赤な穴が空いていた。そこからびゅうびゅうと血が吹き出ている。
血を吹く顔越しに背後の渡辺を見上げると、血まみれで唖然とした顔で多喜の右後方5時の方角を見ていた。
多喜が自身に刺さったナイフをかろうじて両手で支えながら、よろりと振り返ると、そこには灰色の軍服に角帽の男性が、腰のベルトに何かを収めるところだった。
それが拳銃だとはすぐには気づかなかった。
頭の中で、先の乾いた火薬の音、ストーカーの顔の穴、そして背後のコンサートホールの巨大なガラス壁を一直線に穿ち砕いたものが他にはありえないと結びついて、ようやく理解できた。
その人は、他校の士官教員か、警備を兼ねて来場していたと思しき統合治安推進局の人間だった。どうみても薔舎学園の彼とは背格好も顔立ちも似ても似つかない。
だが、痛みとともに体が急速に体温を失い、意識が遠のきかけた多喜には、その帽子の下の顔が城戸2尉に見えた。
「来て、たんだ……」
うわ言のようにそうつぶやきながら、突っ伏すように倒れかける。
その懐を支えるように、回転扉を回って現れた萠妃が支えた。白いシャツスカートが、真っ赤に汚れた。
彼女の背後から追って現れた富山がバッグからタオル地のハンカチを出して、傷口に刺さったままのナイフを支えて固定するように巻き付けて、ナイフを握り込んだ多喜の手を開いた。
左手はざっくりと刃の筋にそって切れていた。この左手は、萠妃が取り出したハンカチがくるんで硬く握手でもするように圧迫止血をしてくれた。
多喜は萠妃と富山に支えられてガラスの散った路面から離れた場所まで歩かされ、そのまま路面に仰向けに寝かされた。刺されたナイフは抜けば大出血を起こすおそれがあるからそのままだ。
渡辺は死体となった今はもう名前を聞くことすらもできないどこかの高校の1年生をその場に横たえて目を瞑らせてやった。
「裏切り者でもなんでもねえよ。
そうぼやくように言ったところに、一発で頭を撃ち抜いた治安士官殿がやってきた。彼に遺体を委ねて、渡辺も、女子2人に寄り添われた多喜の元にかけつけた。
遠巻きに取り囲んだ灰色の制服の合唱部員達は、ボディカムのかわりのように胸元に携帯電話をかまえて、その様子を撮影していた。
まるで、この夏と共に終わるあてがわれた役割を最後まで全うするかのようだった。
「りょーじゅ、おい、りょーじゅ?」
渡辺に声をかけられて、多喜はにへらっと笑った。
「大丈夫、生きて……」
そう言いかけて、白目をむいて気を失った。
これに、渡辺は多喜の名を呼びながら肩を揺さぶり、富山は右手の手首をとって脈を確かめた。
みぞおちの右斜め上に突き立ったナイフに撒かれたタオルはぐっしょりと赤く濡れていた。
萠妃は泣きながら左手と右胸の傷を両手を真っ赤に染めながら必死に圧えている。
遠くから救急車と警察車両の二種類のサイレンが近づいてきていた。
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