第2話 序章・銀の弾丸

今や嵐は唸りを上げて、世界の全てを叩き壊し、生きとし生けるものを屠り皆殺しにでもするかのように荒れていた。


それでも駿馬が決して脚を止めないのは、己が翼を持ち戦場を駆け抜けて勝利を決する女神の名を持つという矜持、それからやはり主の一途な想いを掬い取ったから。


青年が、修道院に到着したのは夜明け前であった。


下女に取次を頼むと、思うより早く姉が姿を現した。


この嵐の中、単騎でやって来た弟に驚き、実家の家族に何かあったのかと案じる姉に、そうではない、これを伯爵令嬢にと懐から包みを取り出した。


姉は困惑したようにして受け取り、包みを開き、革袋と油紙から出て来たのが小さな鈴蘭の鉢植えだとわかると、顔を覆って泣き出してしまった。


姉が泣いたのを見たのは、彼女がまだ幼い娘を亡くした時、数年前のあの日だけ。


・・・ああ、あの日も今日のように嵐で、夜明け前で・・・。


不吉な思いに囚われて、青年は姉を見た。


「・・・あぁ、私の弟・・・間に合わなかった。これを見たら、私のお星様はどれほど喜んだことか・・・」


間に合わなかった、と言われて、青年もまた膝から崩れ落ちるような気持ちであった。


姉は、やはり自分の亡くした娘を、私のお星様と呼んでいた。

令嬢に亡き娘を重ねていたのだろう。


自分もまた、彼女はあの春の日の輝き。


けれど。

全ては、間に合わなかった。


彼女は、青年が到着する、ほんの10分ほど前に、息を引き取ったのだった。



「亡くなったフランスから嫁いでいらしたお母様から聞いたの。昔、フランスの宮廷で、シャルル9世陛下と、お母上様のカトリーヌ・ド・メディシス母后様が、訪れたプロヴァンスで、歓迎の印に鈴蘭の花束を贈られたのですって。陛下と母后様はとてもお喜びになって、それ以来、春には宮廷のお妃様や女官方に幸福を願って鈴蘭を贈る事にされたそうなの。今でもその習慣は続いていて、フランスの宮廷では、春になるとご婦人は殿方から鈴蘭を贈られるのよって。・・・私、鈴蘭って見た事無いけれど、いつか、贈られてみたいの・・・」


令嬢は、恥ずかしそうに、夢見るように、罪を告白するように言っていたのだと、姉は鈴蘭の鉢を抱き込むようにしてまた泣いた。



異国の高価なチューリップトゥリパンや、牡丹ペオニア椿カメリアまでが咲く庭で生きた彼女が唯一求めたのは、野にある小さな鈴蘭であったのだと知るのは、今やこの世界でこの姉弟だけであった。




母の家系は、不思議な逸話があるらしい。


お母様のおじいちゃまは狼だったのよ。

そのおじいちゃまのおじいちゃまも。


娘ばかりが続いた後に、やっと生まれた男児である自分であったが、いたずらばかりする息子に手を焼いた母が怖がらせる為に話した作り話だと思っていた。


だが、今や自分はまさに狼のような被毛に覆われ、森を駆け、悲しい悲しいと啼いているのだ。


どうしてこうなったのか、きっとこのまましばらくすれば、獣身になり果てて、令嬢の死と、間に合わなかった谷間の百合リリオ・デ・ロス・パジェスの悲しみも消えてくれるかもしれない。


そう思って荒野に佇んでいた時、神父姿の男が現れた。

聖職者にしては精悍なほどの様子。


「・・・ああ、やっぱり。久しぶりに見た。まだ若い狼男だ」


彼は笑顔でそう言った。


警戒し唸り声を上げると、彼は少し困ったように、背負っていた革の袋から包みを取り出した。


一切れのパン、それにミルク、ケーキにりんご。


狼に食わせるにはだいぶ見当違いのような食材だが、当然のように差し出された。


初めて空腹に気付いて、木の椀に注がれたミルクについ口をつけた。

甘やかで柔らかな味わいに、人間性を取り戻す思いだった。


「ケーキも食べるといいよ。きっとまだ甘いものが好きな年だろう?」


バカにするのではなく、親しみを込めてそう言われて、バターがたっぷりと入った、雪のように砂糖がけがしてある甘いケーキを口に含んだ。


甘い。

・・・甘い。


たったこれだけの一片が、どうにも心を溶かした。


彼は自分がローマのヴァチカンから来た司教だと言った。


・・・そのような御身の聖なる方!


畏れ多いと身をすくめると、彼は笑った。


「やっぱり人間なんだなあ。獣にそんなの関係ないはずだものな。・・・さて、話をしようか。・・・その黒と銀灰の毛皮にとび色とグレーの目。メンドーサ家の流れだね」


それは間違いなく母の姓。


「メンドーサ家はだいぶ血が薄くなったと聞いたけど、なんの立派な狼だ。・・・沢山泣くと狼になってしまう事があるらしいよ。可哀想に、きっとあまりにも辛い事があったんだね」


情けをかけられて、獣の身がほろほろと涙を流した。


「・・・そのうちきっと人間に戻るから。そしたら、一緒に君のおうちに行こう。ご家族は心配しているから。私のところで神に祈っていたと言えば、皆結構納得しちゃうもんだよ。立場と言うのは便利だねぇ」


彼は不真面目な事を言い、戸惑いただ涙する若い狼の頭を撫でた。



彼が言ったのは本当で、しばらくすると人間の姿に変化して行った。


屋敷に戻ると、両親も、嫁いだ姉達も、数日消息不明だった末子の帰宅を喜んだ。


司教がローマ教皇の身分紹介状を見せると、家族はすっかり彼を信じ切ってしまった。


聖職者ではあるが精悍で、貴公子のように男振りのいい彼の外見とその様子に、姉達など夫も子もある身でありながら、頬を染めていた。


「ご子息に出会いまして、あれこれ手伝いをして頂いておりました。ご心配された事と存じます。大変なご無礼をどうぞお許しください」


そして、彼は息子をどうかこのまま預けてくれないかと申し出た。


司教エミネンザ様、でも・・・あの、この子は、娘が三人続いて、やっと産まれた跡取り息子なのです。・・・我が家は国王陛下より子爵ヴィスコンテを賜っております。まだまだ若輩ではありますが、このせがれは間違いなく我が子爵ヴィスコンテを名乗る者なのです」


父が戸惑いそう言ったが、母が、父の腕にそっと触れた。


「・・・迷い多きこの世で、私どもの息子が司教様に出会いましたのは、神様のお導きでございましょう」

子爵夫人ヴィスコンデーサ、貴女はなんと信心深い。神の門は貴女の為に開かれるでしょう」


司教は大袈裟に感激したようにして、聖書の一説をラテン語で誦じた。


しかし。

これで、お前の奥方の天国行きは決まったけど、お前はどうする?地獄に行くか?


と突きつけられたようなもの。


悩める子爵は、ついに「御国みくにの来たらんことを」と呟き、首を垂れた。




生まれ育った屋敷を離れるその日、青年は、母親に抱きしめられた。


「・・・ああ、私の可愛い坊や。どうか立派な誇り高い狼子爵ヴィスコンテ・ホンブレロボになるんですよ」


・・・やはり母は知っていたか。


「これは、私が嫁いで来る時にお母様から渡されたもの。私もお前のお姉さんたちが嫁ぐ時に同じものを作って渡しました。もし、万が一、息子が狼になってしまったら渡して、抱きしめて、その子が望むようにしなさいと言ってね」


彼女はそっと息子の手に輝く小さなものを握らせた。

銀細工の小さなアラベスク模様の球体の中に、何かが入っている。


「銀製の弾丸です。狼男になってしまうと、これでないと・・・死ねないのですって。・・・お母さんは、この弾丸でお前を撃ち抜かなくて済んだ事が嬉しい。でも、別れはやっぱり寂しいわ。・・・これが苦しみではなく、救いになってくれるように祈ります。・・・折を見てたまに帰って来るんですよ」


母はそう言うとまた息子を抱きしめた。


青年は新たな命を与えられたのだ。


司教と共にヨーロッパ中を巡った。

彼は、つまりは、自分の仕事は布教の他は、狼男担当なのだと笑った。


我が事ながら、狼男なんて本当にいるのか・・・と驚いたが、実際数は少なくなっているらしく、10年で出会ったのは二人だけ。

しかも、自分のようになってしまった新規ではなく、すでにベテランの部類に入る者達だった。


ある日、イタリアのジェノバで、司教の友人であり、アジアで7年布教をしていたと言う赤毛の男に出会ったのだ。


司教は旧友との再会をとても喜んだ。


東方オリエントでもアジアというのはな、違う神様を信じているんだそうだよな。そいつらはな、死ぬと皆、ホトケサマになるって言うんだとか。その上な、また違う人間に生まれ変わるって言うんだよ」


なんだか頭がおかしくなりそうだろ?


そう言って笑ったが、司教の友人はとても妙な顔をしたのだ。


「・・・そうなんだよ。・・・でもな、そういう事もあるのかもしれないんだよ。・・・だって、俺、会ったんだよ・・・。昔、川に落ちて死んだ従兄弟が居たんだ。でな、インドのゴアでさ、よう、久しぶり!なんだよ、こんなとこまで来て・・・って話しかけて来たやつがいて。・・・そいつ、従兄弟の事、全部知ってて・・・」


彼はそう言って、困惑した表情のまま久しぶりの故郷のワインを飲み干した。


司教は、バカバカしいと一笑に伏すだろうと思ったが、しばらく自分と友人を見て、それから頷いたのだ。


「・・・そうか。狼男もいるんだから、生まれ変わりってやつも、あるのかもしれないな」


それから、青年狼男はずっと考える事になる。


生まれ変わって?

生まれ変わったら、また会えるだろうか。


あの、春の空にすみれ色を溶かしたような瞳の少女に。


いつか、また出会って。


今度こそ、ああ、なんて愛しいのでしょう!と微笑みかけて貰って。


間に合わなかった鈴蘭を、あの谷間の百合リリオ・デ・ロス・パジェスを手渡す事が出来たら。


初めて、自分の命に意味が生まれたような気がした。







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