狼男の貴公子・タンスのゴン

ましら 佳

第1話 序章・谷間の百合

春だと言うのに、まるで寒波のような年だった。


イベリア半島の北ともなれば、春というものは女神のため息の如くゆっくりと優雅に訪れるのが常であるが、今年は春の訪れを喜び歌う雲雀ひばりの姿も無く、いつまでも冷たい雨ばかりが降り注いでいた。


冬に逆戻りというよりも、春が来ない、とでもいうような絶望感。


さても、嵐である。


吹き荒れる風と打ち付ける雨の中、地上を単騎で進む姿があった。


・・・これを、あの方に渡さねば。


青年は、黒毛の馬の首を叩いた。


「・・・ニケ、もう少しだ」


この嵐でも、怯む事なく走るこの愛馬をどこまでも信頼していた。


女神アテナに従う勝利をもたらす女神の名前を与えられた牝馬ひんば

今、まさに翼を持つ勇敢な女神のように、ただひたすらに一途に共に嵐を進んでいる。


青年が胸に抱くのは、油紙と革袋に包んだ、それは小さな春。


まだほんの少し花房をつけたばかりの鈴蘭谷間の百合の鉢植え。


・・・自分の小さな春、希望。


サント・ドミンゴ・デ・シロスの谷間の百合リリオ・デ・ロス・パジェス


まさに、あの姫君のようだ。


彼女はこの地には珍しいほんの少し菫色が溶け込んだような薄青の瞳をして居た。


母親がフランスから伯爵家に嫁ぎに来て、やはりその母親の母親はもっと北から嫁いで来たそうだ。


身分の高い令嬢が幼い頃から修道院に預けられて教育される事は一般的であるが、その中でも彼女は特別だった。


王の側近たる伯爵の末娘であり、生まれた時点ですでにいずれ皇太子では無い皇子達のどれかの妃になると決まって居たから、修道院でも令嬢というよりももはや王族の妃に対するような扱いであった。


小さな妃殿下と呼ばれ、名前も呼ばれない程に。


修道院には院長の他に二人の副院長がいて、そのうちの一人が自分の長姉であった事で出入りを許されていたのだが、初めて彼女を見かけたのは、昨年の花咲ける春の修道院の中庭。


実家で姉が可愛がって居た小犬に子犬が生まれたので、姉から知らせを受けて連れて来たのだ。


彼女は淡いすみれ色のドレス姿で花壇の中の何かを探している様子であった。

金やダイヤモンドよりも高価な大粒の一粒真珠のネックレスが胸に揺れていた。


王族とも貴族とも縁の深い修道院であるから寄進は莫大で、庭もまさにエデンのような華やかさ。


オスマンの黄金ともされる珍しいチューリップトゥリパンや、中国の牡丹ペオニア、東の果ての日本の椿カメリアまでが咲き誇っていた。


その中を、まるで自分が花かのように動き回る様子はあまりにも絵画的で。


後日、彼女が探していたのが、小さな鈴蘭だと知ったのは、姉からそう聞いたから。


結局、彼女は鈴蘭ではなく、自分を発見して「ああ、なんて愛しいのでしょう!」そう言って微笑んだのだ。


自分の事かとあまりにも驚き、薔薇色ばらの頬と、その薄青の瞳に呼吸すら忘れた。


彼女は、自分が抱いて居た子犬にそう言ったのに。


でも、いつか、自分もそう言って貰いたいと思ったのも本当。


彼女は、触ってもいいかと自分に尋ねて、子犬をそっと抱き上げた。


ちっとも懐かないと思っていた子犬が、彼女の胸にぴっとりと身を寄せたのにも驚いたけれど。


可愛い、愛しい、まるで小さな光、あなたに会えて私とっても嬉しいの、そんな事ばかり言ってもらえる子犬に本気で嫉妬した程。


「・・・まあ、こちらでしたか。・・・あらあら、もう見つかってしまったの」


尼僧姿の姉が現れて、令嬢がすっかり子犬と打ち解けていた様子に微笑んだ。


「・・・副院長様、この子が仰っていたワンちゃんね?」

「そうでございますよ。この子の親はもう少し栗毛でしたね。でもよく似ておりますね」

「この子はちょっとアーモンドクリーム色ね。お菓子のトゥロンみたいな色。なんて可愛いの!」


トゥロンは、様々なバリエーションがあるが、そもそもはアラブから製法が伝わった古くからあるお菓子で、蜂蜜と砂糖と卵白、たっぷりのナッツを合わせたもの。


彼女は子犬にすっかり夢中な様子だった。


「ねぇ、あなた、この子、何色が似合うと思う?リボンをつけてあげたいの」


突然そう問いかけられて戸惑ったが、青年は「勿忘草ノメオルデビス色はどうでしょうか」と答えた。


わすれな草。

それは春の空のような澄んだ薄青で、彼女の瞳と同じ色。


その答えに彼女は喜んで「ちょうど、勿忘草ノメオルデビス色のレースがあるの!あれをリボンにしましょう。それから、あなたの名前はトゥロンに決めたわ・・・」


そう言って、花のように笑みこぼれた。



結局、姉が自分に子犬を持ってこいと言ったのは、令嬢の為だったからのようだった。


「・・・あんな風に笑ったりお話しされたのも初めて見たわ・・・。あの方ね、8歳からこちらにいらっしゃるの。あの子犬が良い慰めになってくれるといいのだけれど」


小さな令嬢の孤独に心を寄せる人間は少ないのだと知り、胸が痛くなった。


「・・・お前、今後も使いに来て貰う事はたびたびあると思うのだけど。・・・もうあの方と話してはダメよ」


令嬢の前ではあれだけにこやかだった姉が厳しくそう言い放った。


なぜ、彼女が年端もいかない頃からここにいるのか。

彼女は、大切な宝である。それは財産であり、政治的な担保でもある。


生まれてすぐに王子のどれかの妃になると決まった令嬢を預けた者、預けられた者、そしてそれを知っている者に様々な思惑が存在しているのだから。


まずは余計な知識、人間関係を身につけさせない為のもの。


何か手違いがあれば、この修道院、そして姉、自分たち家族もまた罪に問われる事になる。


・・・でもそうして、彼女は孤独になって来たのではないか。


しかし、まだ少年に近い程の青年は、ただ頷いた。




それから、彼女の方も何か悟るものがあったのだろう。

こちらに気付いても、話しかけてくる事はなかった。


けれど、中庭の回廊の内側の柱と柱の間の格子に佇み、中庭を見ているようにして、彼女は子犬を抱いて話すのだ。

自分はそれを何気ない様子で外側の柱にもたれてずっと聞いている。


「・・・私が喋っているだけだから、答えてはだめよ」


彼女はそう言って様々な事を語る。


幸せだった。


隔離されて育てられているまだ少女の年齢にしては驚くほどの知識、そして深い内面世界。


それはやはり伯爵令嬢という頂きの頂点に近い世界の生まれだからこそのものだろう。


自分の属する当家は子爵家。

爵位はあるが、伯爵と子爵では、あまりにも身分が違う。


確かに、自分の領地、国の事はよく知っている。

けれど、世界のことなど・・・知っているのは近隣の三国の事くらい。


太陽の沈まぬ国、このスペイン帝国。

王国など、どこにでも、いつの時代もいくつもある。

しかし、帝国というのは、少ないものだ。


その中心の近くに生まれた彼女は、自分などより、世界の今を知っていた。

父や兄達から手紙や本やいろいろ品物が届くからだと嬉しそうに話して。


ある日など、その格子の隙間から彼女が小さな果実を切り分けた物を差し出した。

小さなガラスの器に大切そうに数切れ乗った、それは甘く芳しい、けれど見た事のない黄色い果実。


「美味しいのよ。ピーニャパイナップル、食べてみて。お兄様が届けてくださったの」


・・・これがピーニャパイナップル?!


図録で見たことはあるが、実物を見たのは初めてだった。

遠く異国のもので、王族くらいしか口に出来ない最高級品。


口に含んでみると、今まで経験のない鮮烈な香気と甘味と酸味が体を満たして行った。

まるで小さな快い雷がパチパチと弾けるように。


「ね、美味しいでしょ?」


そう問われて、答えるなと言われたのに、つい頷いてしまった。


ああ、一体、この不思議で魅惑的な果実は、どこでどんな花が咲いて、どんな風に実がなっているのだろう。


あの日、世界は知らないことばかりであると、そう知った。



それから、秋が近づいて来たある日。


色とりどりのバラが中庭を彩って居た。


「・・・結局、今年も鈴蘭は咲かなかったみたい」


そう悲し気に言って、次の春になったらまた探してみると彼女は微笑んだ。


まるで図録のように栽培されている花しか知らない彼女にとって、野生の花など見たことも無いのだとその時、悟った。


鈴蘭とは、谷間の百合リリオ・デ・ロス・パジェスと呼ばれるほどに野の花なのだから。



嵐の中。


青年は、きっとこれを手渡す事ができれば、世界にまた春が訪れるかのような気持ちで、大切そうにまた包みを胸に抱き込んだ。


愛しい姫君は、今、この寒さに怯え震える世界で病床にあった。

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