シンクの卵

名前も知らない兵士

『シンクの卵』

「この世界は卵

 地球は卵

 中身は何だか分からない

 何人いる?

 気づいている人が何人いる?

 世界は秘密であふれているってこと

 世界が秘密で出来ているってこと

 さあ 自我に目覚めろ

 すぐに旅立て

 お前の脳内にクエッションを打ちつけろ」

 (原文 桜井秋)



 教室の窓際に並んだカーテンが、航海する帆船の帆のように膨らんでいる。

 もしも内側で泳いでいる風に色が付いていたなら、何色になるのだろう? 

 そんなことを考えながら、パルコは春の陽気にまどろんでいた。彼はカーテンから目を離して、一つため息をついた。それから気を取り直して、教科書を盾にしてから、パルコはステッドラー製の青いシャーペンをいじくり始めた。

 これは、実はシャーペンのようでシャーペンではない。彼の愛器マルステクニコは、いわゆる芯ホルダーと呼ばれていて、鉛筆の芯ほどの太さ2ミリ芯を入れて書くペンのことを指す。鮮烈なボディの青色は、パルコのお気に入りだ。

 パルコは得意顔で、声に出さないで言った。

「まあ、この良さを分かってくれる友達は、周りにはまずいないよ。秘密組織のメンバーの中にもいないんだ。やっぱり……」

「桜井春!」

 ビクってなった。

 教室に漂っていた春の陽気を、マーヤ先生のつんざく声が切り裂いた。

 ハイ来ました。桜井春、つまりパルコの名前のことである。

 彼は椅子を引いて、無言でその場に立った。

「聞いてたの? また文房具を分解してたんでしょう?」

 マーヤ先生がそう言うと、教室中がどっと笑い声で満たされた。

 パルコはしぶしぶ応えた。

「……ステッドラーのマルステクニコをカスタマイズしていました」

 クラスメイトの笑い声がクスクス聞こえる。

 わかってる。次はマーヤ先生のお決まり文句だ。

「どこのゲームの呪文なの?」

 待ってました! と言わんばかりに教室中がまた、どっと笑いで満たされた。

 

 昼放課、校庭の隅にあるクライミングネットによじ登った四人の中の一人が言った。

「ハルちゃん、先生からシャーペン返してもらった?」

「まだだよ。秘密の時は、秘密のアダ名で呼び合うのが秘密ルールだからね」

 パルコは、不機嫌な顔でアンテナに言った。

「ごめん、そうだった!」

 アンテナのお腹の脂肪が、網目状のネットにうまいこと乗っかっている。

 パルコと同じ五年生のアンテナは、保育園の頃からの幼馴染だ。アンテナは、秘密メンバーイチの情報屋だ。少し心配症が過ぎるけれど。同じクラスじゃないのに愛器を没収されたこと、もう知ってる、とパルコは思った。

 シャーペンじゃなくて芯ホルダーだと説明するより前に、六年生の閣下が言った。

「帰りまでには返してくれるさ。この前もそうだったろ?」

「マーヤ先生は若いし、まだ新任だから優しいよね?」

 アンテナはやたらとマーヤ先生の肩を持つから、その発言はパルコにとって不愉快だった。この前だって、秘密メンバーで回覧している交換日記を没収されそうになったばかりだった。

「エロ目になってるぞ、アンテナ」

 閣下が茶化して言った。

「なってないって!」

「優しい? この前だってクオバディスのノートを……」

「そりゃお前が授業中によそ事やってるからだろ? 毎度毎度マニアックな文房具を改造してたらアンタ、毎時間、図工じゃねえか」

「言えてる」

 アンテナがうなずき、閣下とゲラゲラ笑い出した。

 秘密メンバーイチの年長者である閣下は、いつもリーダーだ。成績良し、顔良し、高身長で、髪の毛サラサラ。賢くてミリタリー好きで……少し口汚いところがあるが、ほんとに優しい男だ。

 パルコの父親が交通事故で死んだ時も、閣下は一番に駆けつけてきてくれた。閣下の父親もまた、早くに亡くなっているから、パルコのことがほっとけなかったのだろう。

 パルコは、そんな心優しい閣下に憧れている。密かにね。

 パルコに近すぎるほどすぐ隣りにいる女の子が、ツツーッとパルコの首すじをなでた。

「わっ! くすぐった」

「…………」

 秘密メンバーイチの無言キャラで四年生のキキが、目にかかる前髪を揺らしてクスクス笑ってる。この前髪のせいで、彼女の目をおそらく誰もが見たことがない。

「なに?」

 パルコはそっけなく言った。

 キキは、パルコの耳に手を押し当てて、ささやくように耳打ちした。

「…………」

 彼女は、人前でろくに話をしない。

 原因はよく知らないが、キキが誰かと会話してるところを見たことがない。

 唯一キキが話すのは、秘密メンバーの前だけで、それも彼女の気分が良い時だけで、単語をポツリポツリ言うだけだ。その時以外は、秘密メンバーの前でもパルコだけにしか話をしたがらない。

 だからほとんど、いつも内緒話のようにパルコに耳打ちして内容を伝える。パルコはそれが恥ずかしかった。そっけなくなるのはそのためだ。

「は?」

 パルコは本当に? という顔で声を上げた。キキはいつも突拍子なことを話す。

「何だよ?」

 閣下が間髪入れずに聞き返した。

「鳩の声マネが出来るようになったって……」

「マジで⁈」

「やってやって!」

 閣下もアンテナも、わざとらしく盛り上げる。

「クルックー」

 キキが本当にポツリと鳩の声マネをして見せた。そのリアルなこと。今日は気分が良いらしい。いや、それよりも鳩の声マネが上手すぎた。

「激似じゃん!」

「すごっ!」

「ものまね士かよっ!」

 皆んな爆笑した。メンバーの中で一番よく分からないのがキキなのだ。人と会話したがらないくせに、ときに大胆だ。その時、白い校舎の丸時計が目に入って、パルコはハッとした。

「そうそう! 忘れるとこだった。集まってもらったのは、とんでもないことが起きたからなんだ! キキの鳩マネで昼放課が終わるとこだったよ」

 アンテナも閣下もキキも、急に静かにしてパルコに注目した。三人とも、いつもパルコが面白いことを閃いたり、変なことを思いつくのを知っているからだ。

 この時も、皆んなパルコが何を言い出すかワクワクしだした。

 そして、またもや彼の発言は期待を裏切らなかった。

「昨日、死んだお父さんから手紙が来たんだ」



 パルコの父親が交通事故で他界して、すでに二年が経とうとしていた。パルコが躊躇せずに父親のことを話せるのは、目の前の三人だけだ。クライミングネットの頂上にいる四人は、お互いに秘密を共有できる仲間だからだ。彼らには、四人の内だけしかわからない秘密のアダ名がある。秘密の時は、秘密の名前で呼び合うことを義務にしている。たった四人だけど、秘密組織を結成しているのだ。

 アンテナも閣下もキキも、三人とも真剣な表情でパルコを見つめていた。

「死んだ父親から手紙が届いた?」

 まず手始めに閣下が問い正した。それからアンテナが言った。

「そんなことあるわけないじゃん!」

 二人とも顔を見合わせて、パルコがまた作り話を展開しようとしているのでは、と勘ぐりだした。キキはパルコの目をじっと見ている。いつになく真剣な表情だったからだ。

「本当なんだって! 昨日、お母さんが帰ってくる前にポストの中を覗いたんだ。毎月購読してる月刊ヴェルヌの懸賞が、今度こそ当たってると思ったんだ! そしたらコレが……」

 パルコは赤いダウンベストのポケットから黒い手紙を出して、中身を手の平に出した。

「手紙の中には銀貨が、ほら」

 三人ともパルコの手の平に注目した。

「銀貨っ⁈」

 閣下とアンテナは口をそろえて言った。キキは口元を両手でおおっている。

 パルコは三人の表情を見てニヤリと笑った。

「マケドニア王国の銀貨だよ」

「マケドニア王国って⁈ どこの国⁈」

 今度はアンテナが、本当に知りたそうな顔をして言った。

「今から二八〇〇年くらい前に、ヨーロッパにあった国なんだ!」

「何でその王国の銀貨って分かるんだ?」

 閣下が言った。またしても、パルコはニヤリと笑った。

「お父さんの書斎にアンティークコインの図鑑があるんだ。それで調べてみたんだ」

 閣下が手に取り、裏返しにして、描かれている彫刻を見てからアンテナに渡す。アンテナもじっくり見たあと、キキに渡した。

 銀貨の彫刻は、翼を広げて座るグリフィンと葡萄の房だ。グリフィンというのは、鷲の翼と上半身、ライオンの下半身を持つ伝説上の生物のことだ。天上の神々の車を曳いたり、黄金を守る役目があるという。

 キキが銀貨をパルコに返して、耳打ちした。すかさずパルコは答えた。

「いや、手紙の中は銀貨の他に、一枚のバースデーカードがあった」

「なんていうか、パルコの親父さんは粋だよな。センスがいいっつうか」

 閣下が感服しながら言った。続けてアンテナが口を挟む。

「けど小学生に銀貨を贈る? ま、パルコはこういうの好きだもんね。オレなら断然ゲームソフトなんだけど」

「そこなんだ」

 パルコが神妙に言う。

「フツー、小学生に銀貨を贈らない。アンティークコインはとても高価なんだ」

 どのくらい? とアンテナが聞くより前にパルコが言うのが早かった。

「これは多分、暗号」

 校庭でサッカーボールで遊ぶ生徒たちが、ポツポツと校舎に戻り始めた。

「パルコの親父は作家だもんな」

 閣下が目を細めて言った。

「バースデーカードはなんて書いてあるの?」

 アンテナが時間を気にして、パルコを急かした。

 パルコはもう一方のポケットからバースデーカードを取り出した。縁に青銅色のラインが入っている黒いホログラムカードだった。というのも長い側面を縦にして、銀色で文字が書かれており、それを覆うように鷲の翼の絵が描かれている。絵と文字だけが、見る角度によって色鮮やかに光り輝くのだった。それ以外は漆黒だった。

「カッコいい!」

「スッゲ!」

 アンテナと閣下が興奮して叫んだ。

 カードに書いてある文章はこのようなものだった。

『銀貨は私からの贈り物である。「世界を変えるための不必要の部屋」にいる時は注意せねばならない。なぜなら、使用許可の代わりに貴方の所持する大切なモノを引き換えにしなければならないからだ。それが「シンクの卵」に課せられている秘密だ。』

「………」

「ね? さっぱりでしょ? カードの裏面もさっぱりなんだ」

 バースデーカードの裏面を見ると、マス目が並んだブロック図のようなものが描かれており、いくつかのグループらしきマス目同士で色分けされていた。不自然な図形のようなものが何を表しているのか、皆目、見当もつかなかった。

 また、カードの縦と横の縁の隅っこに、不規則なローマ字が書かれている。大文字と小文字のアルファベット、それに数字を織り交ぜてある。

 縦の縁に〈HRb.0HgCdCr〉

 横の縁に〈Se.AmRaPdH〉とある。

「これが暗号だな。色分けされている図形と関係がありそうだな」

 閣下が得意げに言った。キキもすぐさまパルコに耳打ちして、パルコが代弁する。

「こんな小さく書かれてて、すごい怪しいって」

「一体どういう意味なんだろう?」

 アンテナはパルコの顔を見た。

「僕もわからないんだ。あと、もう一つ疑問に思うことがあって」

 三人とも、またもやパルコに注目する。

「僕の誕生日は三日後なんだ。お父さんは何か意図があってこれを送ってきたんだよ!」

 パルコは三人に話しながらも、自分が興奮しているのがわかった。パルコの話を聞いた三人も興奮していた。

 その矢先、昼放課の終わりのチャイムが青空に響いた。



 翌日、彼らの調査が始まった。図書館に集まって色々な図鑑をあさることにしたのだ。パルコの父親が送ったものが暗号だとしたら、きっと解けない問題じゃないと四人は結論づけた。

 意外にもカードのブロック図が何なのか、すぐにわかった。

 アンテナが授業の手伝い係として、先生に頼まれて理科準備室に入った時だった。部屋の壁にそのポスターが貼ってあったのだ。このポスターに描かれている図形が、パルコのバースデーカードの図形と一致した。

 それは元素周期表と呼ばれる、この世の物質を構成している元素(原子)の一覧表だ。表には元素を表す記号と元素(原子)の種類を表す原子番号が記されている。(原子核を構成する陽子の個数でもある)

 例えば鉱物の水晶だ。水晶が構成されている元素は、ケイ素と酸素だ。これを元素周期表で見てみると、ケイ素はSiという元素記号で原子番号は14、酸素はOという元素記号で原子番号は8となる。

 宇宙も地球も大気も海も山も、草木や動物も、もちろん人間だって、すべては元素からできている。現在、地上で確認されている元素はたったの百十八個だが、この一つでも欠けてしまうと世界がまるで変わってしまうという。


 理科室独特の薬品のにおいに浸りながら、四人は昼放課の時間に理科準備室にいた。マーヤ先生に頼んで特別に室内に入れてもらったのだった。

「あなたたち仲良いのねえ。あなたも理科が好きなのかな? 周期表は中学校で習うからね」

 マーヤ先生は男子三人と一緒にキキがいることが不思議に思ったらしく、やたらキキに話しかけた。キキのスカートがカワイイとかほめそやし、キキは照れながら、はにかんでいる。

 しかし、キキにとっては、これは困っている状況なのだ。パルコとアンテナは目配せして、そこにアンテナが割って入る。

「僕ら特別に理科が好きってわけじゃありません」

 アンテナが言った。アンテナはむしろ理科が苦手な方だ。

「え、そうなの? じゃあ何を調べてるのよ?」

「僕はマーヤ先生のことを自由研究の対象にしようかと考えています」

「夏休みの課題の? 謎めいた女教師をテーマにね。って何でだよ! こわいわソレ!」

 すかさずマーヤ先生からアンテナへとノリツッコミが炸裂する。

「マーヤ先生って彼氏とかいるんですか?」

 こういうことに関しては、アンテナは積極的なんだから、とパルコはあきれた。

 しかし、彼のおかげでキキがホッとしている。

 今のうちにパルコと閣下は、周期表に何か暗号を解く鍵がないかと調査に集中した。暗号の解明はすぐにわかった。周期表にある元素記号とカードのローマ字を照合するだけだった。

「これだな!」

「うん! カードのアルファベットはこの記号を表してたんだ!」

 パルコは後ろポケットから素早くメモ帳とマルステクニコ(先ほど返却された)を取り出して、周期表の記号と番号を写した。閣下は頃合いをみて、アンテナに目配せした。

 マーヤ先生は、度重なるアンテナの質問攻めに苦心していて、早く職員室に戻りたそうだった。パルコと閣下とキキは、マーヤ先生に丁寧にお礼を言って足早に図書室へと向かった。アンテナはまだ理科室でマーヤ先生と話していた。


 図書室の空いているテーブルを見つけて三人は椅子に座った。少し遅れてアンテナがやって来た。彼のおかげで、マーヤ先生からとやかく追求されずに済んだのだった。

「カードと周期表の元素記号を照らし合わせたら、こうなる」

 メモ帳に書いた記号をまとめて、パルコは三人に見せた。

 縦の縁に〈HRb.0HgCdCr〉→〈水素ルビジウム.0水銀カドミウムクロム〉

 横の縁に〈Se.AmRaPdH〉→〈セレン.アメリシウムラジウムパラジウム水素〉

「……うーん、よくわからない」

 パルコがうなった。

 閣下が言った。

「暗号が元素周期表の原子番号を表してることは、まず間違いないな。見てみろよ、縦の暗号はゼロの数字があるだろ? 元素記号の中にゼロだけを表す記号なんてないんだよ」

「なるほど!」

「確かに!」

「……!」

 アンテナもパルコもキキも閣下の意見に納得した。

 今度は元素記号の原子番号をカードに記されている文字に照らし合わせてみた。

 縦の縁に〈HRb.0HgCdCr〉→〈137.0804824〉

 横の縁に〈Se.AmRaPdH〉→〈34.9588461〉

 となる。閣下がため息を吐いて言った。

「この数字何なんだ?」

「余計わけがわからなくなったね」

 アンテナがボヤいた。パルコが負けじと気を取り直す。

「これって……また暗号なのかな?」

「うーむ……」

 昼放課の終わりのチャイムが鳴り響き、四人はそれぞれの教室に戻った。その日は午後からずっと数字の暗号のことを考えていたが、皆んなお手上げ状態だった。

 一体、この数字が表すのは何なのか。暗号を解いたと思ったら、また謎だ。

 でも、もし父親がカードにメッセージを隠したのなら、と思うとパルコは何だか嬉しかった。



 その日の夜、桜井家の電話が鳴った。

 珍しいこともあるもんだと、その目をランランと輝かせて母親が言った。

「お電話でございます」

 父親が亡くなってからというもの、パルコは自宅に友人を連れこまなくなっていたから、息子あてに電話が来ただけでも彼女は嬉しそうだった。

「え? 僕? 誰から?」

「女子からですねえ。春さんいらっしゃいますか? ハキハキして明るそうな子ねえ」

 それ以上言わずに、母親の口元がニヤニヤしている。

「一体誰だ? ハキハキしてる女子って?」と思いながら、それまで寝そべっていたソファから離れて、母親から受話器を受け取った。

「もしもし……」

「黒井です! 春くん? 夜分にごめんね」

「キ……⁉︎」

 正直、混乱してしまった。「キキかよっ⁉︎」と秘密のアダ名を叫びそうだった。

 声の主はキキだった。電話越しならば本来の声で話せるのだろう。

「どっ、どうしたの?」

「わかったの!」

「え?」

「暗号がわかったよ!」

「ほんと? すごいじゃん! なに? 何だったの?」

「場所! 場所を示してたの!」

 そう、あの数字は場所を示していた。

 パルコはピンときて、受話器を持ったまま、母親のニヤついた顔を横目に、二階へと上がった。自室に入ると見せかけて、静かに父親の書斎に入り、ノートパソコンの電源を入れた。それから地図のアプリを立ち上げて、キキに言われるまま、すぐさま検索欄にカーソルを移動させた。

「カードの横の暗号が北緯で、縦の暗号が東経を表してるの。お昼に解いた数字の暗号を入れてみて。先に横の暗号を入れて、カンマで区切って縦の暗号を入れるの」

 パルコは言われたとおりに数字を打ち込んで検索した。すると、地図は一つの場所を示したのだった。

「数字の暗号は、地図の座標だったんだ!」

「そうなの! 北緯と東経の座標だったの! お昼に、こういう数字の並び、どこかで見たことあるなって思ったんだよ。パソコンで地図見てると、こういう数字のら列が出てくることに気づいたんだ」

「すごいよキキ!」

 そう言ってパルコの目は画面に釘づけだった。エヘヘとキキの照れる声が聞こえる。

 その座標を指し示すピンは、山寄りの白い建物らしき場所に置かれていた。



「ここに行けってことなんだと思う」

 干からびた丸池の縁に座りながら、パルコは皆んなに計画のことを話した。

 学校の裏庭にある丸池には、もともと金色の鯉がいたが、ある日鯉が死んでしまってから、どういうわけか池の水が干上がってしまった逸話がある。以来、生徒はこの水のない丸池に寄りつかなくなったという。

 今朝からパルコは大忙しだった。自分がやろうとしていることが、とても大それたことで「誰にもバレないことマスト(必須)」だからだ。

「オレ、この場所知ってる。市境の廃工場だよ。サイクリングロードを通れば、そんなに遠くない」

 パルコの計画を後押しするように閣下が言った。

 そう、パルコは暗号が指し示す廃工場に忍び込む計画を立てたのだ。

 次にアンテナが念を押した。

「ほんとに今夜なの?」

「うん、今夜しかないよ。アンテナの塾も遅い時間に終わるし、閣下の親も夜勤でいないし、キキのとこは義両親が旅行でいないし、僕んところも母さんが気持ちよくお酒におぼれる日だから都合が良いんだ」

「パルコが言うんだ、潔くあきらめろアンテナ。交換日記でパルコが皆んなの予定を調整した結果なんだ。四人が集まれるのは今夜しかない。お前がオレんちの外泊を許されてるのは、塾の帰りが遅くなる日しかないんだし」

「そりゃそうだけど……昨日の今日でしょ? 心の準備ってのが必要でしょ? 懐中電灯の電池あったかなあ」

「オレのをやるから。これでこの前みたいに寝過ごすことはないだろ」

「じゃあ、この前買ったゲーム持ってくね」

「緊張感のないやつだなあ。まずは教育ママから今夜の外泊許可をとってくれよ」

 アンテナの母親は教育ママだ。それゆえ、全国小学生模試トップレベルの成績を誇る閣下の家なら、塾の帰りが遅くなる日だけ外泊を許されている。閣下の親が夜勤だろうと、そこらへんは閣下がうまくやってくれるとパルコは確信している。

 四人は交換日記をいつも回している。それはイラストや謎なぞが書いてあったり、放課後の遊ぶ約束だったり、とりとめのない内容ばかりであるが、実は大切なことはブラックライトでしか見えない文字で書かれている。その文字が書ける小さなペンと小さなブラックライトがキーホルダーとして売られているが、それが「スパイペン」なのだ。(去年神社の祭りの屋台で四人とも買った)

 授業の合間にスパイペンでメッセージを書き、放課の間に次に回すメンバーの下駄箱に交換日記を入れておく。万が一、先生や生徒に見つかっても、その内容はくだらないことや落書きだ。今朝の授業中にパルコは今夜の計画を書いて、メンバーの予定を聞いていたのだった。

「よし、じゃあ今夜十時半にタコ公園に集合だ。キキはオレらが窓を叩くまで、自宅でちゃんと待ってろよ。それから四人そろってサイクリングロードで向かおう」

「了解!」

 パルコとアンテナは声をそろえ、キキは額に手を構えて敬礼の姿勢をとった。

 そして、数字の暗号を解読したキキの功績を称えて、皆んなでお金を出しあって、キキに特製バッジを贈ることが決まった。



 ベッドに潜っていたパルコは、腕時計のバックライトを点けて決行時刻が来たのを確認した。いつものように赤いダウンベストを着て、用意しておいた青色のナップサックを背負った。そして、黒いゴムバンドのヘッドライトを頭に装着した。

 パルコはゆっくりと部屋のドアを開けて、ほの暗い廊下から階下の様子をうかがった。居間では、湯上がりの母親がテレビ番組を観ている。ダイエットがどうのこうのと言っているわりには、この時間帯にはワインとクセのあるチーズを美味しそうに食べている。明日は仕事が休みだから、彼女はこのままソファで寝落ちするにちがいない、とパルコは推測した。

 パルコは、忍び足で階段を下りた。暗い玄関で目を凝らし、スニーカーを手探りで発見して、それを抱えながら静かに玄関ドアのサムターンを回した。音を立てないようにドアを開いて、外側から鍵をかけ直した。

 大きな息を吐いた後、パルコは軒先きで待つクロスバイクにまたがり、慎重に辺りを見回してからペダルを踏み込んだ。


 夜空には星が瞬き、月の光が白い雲に反射して、田舎町がアッシュブルーに照らし出されていた。だから、夜でも明るかった。こんな綺麗な夜は、いつもよりワクワクするとパルコは思った。

 これから「ホチホチ灯」の真下で、閣下と落ち合うことになっていた。それからタコ公園に向かい、塾帰りのアンテナと合流することになっている。街中から少し離れた農道で、閣下が自転車をこいでいるのが見えた。パルコは小躍りしたくなるくらい嬉しくなった。ヘッドライトを点滅させて、閣下にサインを送ってから合流する。

 近くの高架まで来た時、橋の上をうなる轟音とともに高速で新幹線が通り過ぎていく。その無数の窓の明かりで細長い眼光が作り出される。それが閣下とパルコの顔をはっきりと照らし出していた。猛烈に長い架空のイモムシのようだ、とパルコは思った。

 農道沿い、用水路をはさんで薔薇を栽培する温室が並んでいた。その用水路手前に「ホチホチ灯」があった。いつも、電灯がホチホチと点滅しており、光が切れそうで切れなかった。ホチホチ灯を横目でスルーして、二人はそのままタコ公園に向かった。途中、自販機で飲み物を買って(アンテナとキキの炭酸飲料も買った)また濃くなる夜の中、自転車を走らせたのだった。


 公園の中心に巨大なピンク色のタコのモニュメントがあり、タコの口から横幅な滑り台が延びている。ピンクのタコは、昼間のタコと打って変わってくすんでいて、さらに照明に照らされて不気味な軟体生物になっていた。うねっている八本足も暗闇に浮かび、まるで夜の海に現れたようだった。ちなみにタコの頭の中と何本かの足には、複数人が入れるドーム状の空間がある。

 タコから一番近い照明の下にパルコと閣下がいた。近くに自転車が二台並んでいる。

「アンテナはどこかな?」

「駐輪場に自転車があったからな。似たような自転車がもう一台あったけど……」

 周りを見回す二人に、タコの口から声がした。

「おーい、ここだよ」

 アンテナがタコの口(滑り台)から登場した。もう一人の人影がいた。

「遊んでる時間はない、早く降りてこいって」

 閣下がムッとして言った。

 こんな夜遅い時間に騒いで、警察に補導されるのが面倒なのだ。この時間帯に出歩いていること自体、バレたら大問題だった。

 軽やかに滑り台で降りてきたアンテナがすぐさま言った。

「実はさ、早く着いちゃって怖かったんだ。タコのドームの中で待ってようとしたらさ、先客がいたんだよ! あの人!」

 そう言ってタコの滑り台を指さした先に少年がいた。彼も滑り台をさっそうと滑って現れた。

「え?」

 閣下とパルコが口をそろえた。

「誰だよ?」

 また二人は口をそろえた。

 目の前に初めて見る少年が立っていた。少年は白いジャンパーを着ていた。一回り大きいサイズで少しブカブカだったが、こなれていて似合っている。

「一人でいるのが怖いから一緒にいてもらったんだ。彼も塾の帰りなんだってさ。別の塾だけど。僕とパルコと同じ五年だよ」

「あっ」

 パルコは声を出したが、それ以上は言わなかった。

「アンテナのやつ、僕の秘密のアダ名を他人の前で、しかも初対面の人に言うなんて!」そうアンテナに注意したかったが喉元でそれを抑えた。

「パルコ? パルコって?」

「あっ! 秘密のアダ名なんだ! しまった! ごめんよパルコ!」

「プッ……何だよそれ?」

 少年が吹き出した。パルコは赤面した。

「……ふーん。こんな遅い時間にタコの中で何してたの?」

 閣下がつっけんどんな口調で聞いた。

「……ウスバカゲロウの幼虫がいないかなって思って。ベンチの下とか、木の根元とか」

「幼虫だって?」

 閣下が不審に思った。

「アリジゴクでしょ?」

 パルコが言った。前に父親と探しにきたことがあった。

「知ってるの? この公園にいるかな?」

「運が良ければ発見できるよ。でも、いることはいるよ」

「そうなんだ! ……オレ、緑木」

 少年が自分の名前を言おうとした時のことだ。

「あ」

 アンテナが指をさしてあぜんとした。全員がタコの口に注目した。

「……」

 キキが「あたしです」って感じでひかえめに手をあげている。

 これから探検に出るため、スカートではなくジーンズ姿だ。小さなナップサックを背負う姿が可愛かった。

「自宅で待ってろって言ったのによ……アイツもか」

 閣下が言い放った。

 それから彼女も大胆に滑って登場した。

「どいつもこいつも予定通りにいかないやつだなあ」

 閣下がブツブツ言っている。



 手入れされた木立が並び、木製のベンチが等間隔で配置されている。彼らが並走する緑道の下は、古い用水路が通っている。

 パルコはこの緑道を通るたびに、父親との記憶を思い出す。少し肌寒い春の季節に、小さな自転車に乗ってサイクリングに来たのだ。そして、水分補給のために緑道のベンチに腰掛けて、父親が語るウンチクに耳を傾けていた。緑道の下には、暗きょと呼ばれる地下水路が走っているという。それはパルコにとってワクワクする源泉のようなものかもしれない。目に見えないところにも、「何か」が存在していると感じた瞬間だった。


 たった五分前、秘密メンバー全員で決議をとっていた。

 その議題は、緑木少年を廃工場に同行させるか否かという臨時の対応だった。というのも、彼と別れようとしたら一緒に行きたいというのだ。

「皆んなおそろいでどこに行こうっての? こんな夜遅くにさ」

「どこだっていいだろ? お前だって学区が違うのに、こんなところで何で油を売ってるんだ? 家族は知ってんのかよ? 心配してるから早く帰りな」

 閣下が強い口調で言った。

「家族なんかいない。引っ越してきたばかりだし、友達もいないんだ」

 辺りがしんと静まり返った。

「ハハッ本気にした? でも、引っ越して来たのは本当なんだ。だから……友達はいない。君ら面白そーだから、オレも付いていっていいかい?」

 急に四人とも、緑木に対して同情心が湧いてきてしまった。確かにこんな遅くまでほっつき歩いてるのは、どこか変で本当に寂しそうだった。

「ちょっと四人で話しをさせてくれ」

 閣下が困っていた。閣下は彼のことをほっとけないのだろう、とパルコは思った。

「どうする? アイツを連れていくか? オレとしては秘密メンバーじゃないやつを急に仲間に入れるのは反対だ。それに、この秘密はパルコの親父さんのことだろ? どこぞの知らんやつが入ってきてもパルコも困るだろ? けれどアイツを放っておいてみろ、うちの学校に今夜のことを通報されてもオレらも困るじゃないか」

「そりゃ僕だって反対だよ。でも緑木くん、ちょっと面白いやつじゃない?」

 アンテナが少年を擁護した。

「だからって友達でもないやつを急に秘密メンバーにする理由はないだろ? 大体、何でお前は仲良くなってんだよ」

「こんなことになるなんて思わなかったもん……秘密のアダ名を言っちゃったことは謝るけどさ……彼、優しいんだよ?」

 そう言って、アンテナは申し訳なさそうにパルコに顔を向けた。

「確かに面白そうな人ではあるよね。こんな夜に変なやつ」

 ウスバカゲロウをコソコソ探してるとこを想像して、パルコは吹き出した。

「僕は一緒に来てもらってもいいけど? ただ、お父さんの手紙のことは、秘密メンバーになるんだったら言ってもいいかな」

 パルコの父親もアリジゴクに心ときめかせる人間だった。初対面なのに緑木に親近感が湧いたのはそのためだった。

「なるほどな。仮のメンバーってことだな、よし。キキは?」

 こういう時は、キキの気分しだいでもあると、閣下もパルコもアンテナも思った。

 キキがパルコに耳打ちする。

「…………」

「秘密のアダ名をつけてあげれば? だって」

 というわけで、緑木少年の秘密のアダ名はファーブル昆虫記より「ファーブル」に決まった。時間もなかったし、仮メンバーだし、パルコの提案がそのまま通ったのだった。

 こうして五人はサイクリングロードを自転車で走り、廃工場へと向かった。


 各自、家を抜け出した四人は、ある日パルコが思いつきで設立した秘密組織に属している。しかし、秘密組織の名前はまだない。正式名称は、例え小学生といえど、ふさわしくない名称はつけたくないのだ。つまり、しっくりくる組織名がさっぱり思い浮かばないのだった。

 この秘密組織の活動は、メンバーがそれぞれ持ち寄った「秘密」でその活動が成り立っている。

 例えば、今までおこなった活動といえば、

 ・マーヤ先生がいつも自慢げに話す彼氏の存在確認(これについては、先生の脳内だけに存在していることで調査完了済み)

 ・街の郊外で噂されている四つ目の信号調査(未解決)

 ・幸運のグリーンフラッシュを見た生徒の捜索(未解決)

 ・夜中の国道バイパスに出現する巨大な貨物車(未解決)

 ・謎の地鳴り音の調査(未解決)

 などである。そして、新たに加わった秘密が「王国銀貨と父親の暗号」である。これについては、パルコはじめメンバー全員が報告結果を出せると信じている。


 市境にある山寄りの廃工場、そこがパルコの父親が暗号化した座標の示した場所だった。

 順調にサイクリングロードを走り抜けた五人は、街灯が少なくなった町に入り、やがて段々になっている人家を抜けて、なだらかな山の坂道に突入していった。

 暗い森林の緑道を五人は走っていた。下級生のキキは弱音を吐かなかったが、必死になっているのがわかった。やがて、アスファルト道が砂利の道に変わり、それからまたボロボロになっているアスファルト道になった。白い建物が、林をはさんで見えていた。

 そこでY字になっている分かれ道にさしかかった。坂道なので、もうこれ以上自転車で向かうのは、ひどく疲れてしまうだけだった。

 分かれ道の中央に、ほとんど鉄骨だけになった古看板があった。閣下の提案で、その裏に自転車を停めて歩くことにした。鉄骨だけの古看板の根元は茂みがあって、手頃に自転車が隠せた。閣下は皆んなに向けて話した。

「準備はいいか? ライトを持てよ。パルコが持ち寄った秘密だから、ここから先はパルコが指示するんだ」

 待ってました! と言わんばかりに、パルコがヘッドライトを点滅させて応えた。

「了解! 皆んな集合! 役割分担します!」

「役割分担?」

 ファーブルが何が何だかわからずにアンテナに尋ねる。

「しっ!」

 アンテナは、ファーブルに静かにするよう促した。

「非常口確認、避難誘導、危険察知その他もろもろ係……閣下!」

「うす。いつも同じ係だけどな」

「マッピング、報告書作成、心配係……アンテナ!」

「任されました!」

「ムードメーカー……キキ!」

 キキが勇んで敬礼している。

「タイムキーパー……ファーブル!」

「はっ……はい!」

「ファーブルは初めてだから、今夜の時計合わせは僕がやる。今日は五〇分後には帰路につこう。何があっても時間厳守だから。二〇秒後にストップウォッチスタートだ。ファーブルは随時、残り時間を皆んなに伝える役だからね」

「わ、わかった……! 意外としっかりしてんだな……」

 ファーブルはあわてて、自前の腕時計からストップウォッチ機能の設定を表示した。あせるファーブルに構わずパルコは話す。

「この廃工場には、僕らが知らない秘密があるはずなんだ。それを何としても、今夜確かめるんだ!」

 閣下、アンテナ、キキはうなずいた。ファーブルはキョトンとしている。

 五人はパルコの音頭で時計合わせをして、足早に廃工場に向かった。

 パルコはライトを持っていないファーブルに、予備の携帯ライトを貸した。

「助かるよ!……こんな冒険、オレ初めてだから!」

 その言葉を聞いてパルコは嬉しくなった。

 これは僕たちだけの冒険なんだ。



 Y字路の右手は急カーブになっており、カーブを抜けるとすぐに廃工場が出現した。

 白い外壁に等間隔にある窓は、真っ黒な固まりに見えた。人の気配は無い。

 錆びた鉄柵で囲ってあるが、出入り口となる門は開いている。その向こうに巨大な箱型の物体がある。廃工場の左手前には、どうやら事務所と思われる建物が工場と連結していた。

「門が開いてるけど、出入りがあるのかな?」

 ファーブルが言った。

「普通は閉まってるよね」

 アンテナが言った。

「事務所から中に入れるか調べよう」

 閣下が落ち着いて言った。

 パルコは、さっきから胸の高鳴りがおさまらず、アンテナ共々とても緊張していた。キキはパルコに引っ付いて離れない。パルコの左腕を両手で抱きしめている。

 事務所の玄関のドアノブは、ひねれば開くようだった。閣下を先頭に、五人は音を立てないように侵入していく。ドアを開くと、上部のドアクローザが悲鳴のようにきしんだ音を立てた。

 中に入ると、事務机が四台ほどあり、床に書類が散乱していた。荒らされた形跡があり、もともと棚に入れられていたと思われるファイルが、空のまま捨てられている。

 外気に触れられていなかったせいか、室内は暑かった。皆んな汗がにじんできている。この汗がいっそうの緊張感を高めて不安な気持ちにさせた。その時だった。

「デューデュー フォッフォー」

 アンテナがビクッとなり、束の間に静寂が走り、ファーブルが声に出した。

「ハトがいるぞ?」

 おそろしく本物の鳴き声に近い声マネだから、ファーブルが勘違いしても仕方がない。キキがキジバトの声マネをしていた。閣下もパルコもアンテナも、笑いをこらえるのに必死だった。こういうことをするのがキキなんだ。

「クッ クッ クッ」

「何だ君は? 君が鳴いているのか?」

 ファーブルがようやく気づき、小声でキキに尋ねた。

「クッ クッ クッ」

 一気に緊張感がほぐれてしまった。吹き出しそうな閣下が、懸命にこらえて注意した。

「やめてくれよ」

 肩を揺らしながらヒソヒソ声で話す姿も笑えるのだった。


 事務所の中にあるドアを抜けると、長い廊下に出た。

 ヘッドライトを廊下の先へと傾けると、延々と続くような渡り廊下が映し出された。アンテナの唾を飲み込むゴクリという音が聞こえた。そもそも、この廃工場は元々何を作っている工場なのか。

 パルコは閣下と並んで先頭を歩いていた。一寸先は深い闇だった。五人が集まってできた人工的な光は、まるで深海を探索する潜水艇のようだった。

 T字路が現れ、パルコの判断で一行は左に曲がり、廃墟となった広大な作業場に出た。たくさんの作業用の機械が立ち並んでいた。ここは機械たちの墓場だった。

 彼らの目の前にうねるようにベルトコンベアが設置されている。いくつかのベルトコンベアを越えて、奥に続く両扉の前に立った。

 ファーブルが一五分過ぎたことを知らせた。

 静かに両扉を開くと、また長い通路が続いていた。通路の左右はガラス窓になっており、別の作業室が見えるようになっていた。

 五人の緊張は高まっていた。今まで訪れたこともない、しかも廃墟の工場内の奥地まで進み、さらに奥まで進もうとしているのだ。そして、かなり蒸し暑かった。

「もしこんなところでライトの光が消えて迷い込んだら、ボク発狂しちゃうな」

 アンテナが沈黙していた一行に独り言を言った。アンテナが独り言を言えば、必ずパルコがかけ合う。

「失神しちゃうって」

 皆んなクスリと笑った。

 目の前に階段が現れた。二階へと続く踊り場の窓から、夜空からこぼれた斜光が落ちていた。それは神秘的な絵画を見るように美しかった。

 五人に安心感が広がった。こぼれ落ちた光の下で休息をとり水分を補給した。パルコが自販機で買った炭酸飲料もパルコのブラックコーヒーも、皆んなで回し飲みした。

「苦っ、ブラックコーヒーじゃん!」

 ファーブルが一口飲んで不味そうな顔をして言った。すかさずパルコが返す。

「我々は大人ですから」

「いつも無理矢理飲んでんだよ。儀式みたいなもんだ」

 笑いながら閣下が言った。


 四階と五階の間に踊り場があった。そこに赤い絨毯で敷かれた廊下が懐中電灯で照らし出された。絨毯が敷かれた廊下の奥を注視して、閣下は背後にいるメンバーに指示した。

「ライト消せ。むこうに妙な明かりがある」

 一同に緊張が走った。パルコも踊り場から廊下の先を見渡した。確かに、奥の方に部屋からこもれ出る明かりが見える。

「誰かいるの⁈」

 アンテナが不安げに言った。

「わからないな……どうする団長?」

 閣下がパルコに聞いた。

「……とりあえず確認してみようよ。異議はあるか?」

「異議なし」

 遅れてアンテナが言ったが、いつものことだ。

 胸の高鳴りが聞こえる。パルコは、自分の心音がワクワクから来るものなのか、恐れから来るものなのか、わからなかった。

 五人はかたまって、そろそろと進み、長い廊下の突き当たりにある扉を目指した。暗闇の中を、明かり無しで進んでいく。

 奥の部屋に近づくと、部屋の扉が少しだけ開いていて、かすかに赤い光がもれているのが分かった。

 とうとう部屋のそばまでたどり着き、先頭にいるパルコが、ドアの隙間から中をのぞいた。そんなに広くない部屋だ。あるのは、机と椅子と、赤い光を放つランプ……。

 ドアを開くと「キィ」ときしんだ。ドアの感触も木だ。パルコは中に入った。

 赤いランプから、ジジッとかすかに煤が立ち昇る時に出る音が聞こえた。綺麗なオレンジ色のシェードを通して炎のゆらめきが見える。本物の火なのか、このランプの電源はどこにも見当たらない。閣下が、皆んなの声を代弁するかのように言った。

「この部屋は……何だ?」



 古い机の上にはアール・ヌーヴォー調のランプが置かれ、そのシェードを通して赤と紫とオレンジの光が混ざり、怪しくも綺麗で、ドキドキするような空間が生まれていた。

 ランプシェードは、いかにも古めかしい色ガラスで出来ており、表面には葡萄の房とツル、ススキや枯れたホオズキなどの植物、イトトンボ、スズムシなどの小さな虫の彫刻が施されていた。

「誰もいないな」

 閣下と目が合って、パルコはうなずいた。

「何でこの部屋だけ明かりが点いてるんだろう?」

 パルコは不思議に思った。

 それに、この部屋だけ床が木製だった。歩くとギシギシときしむ。

「机も椅子もランプも相当古いな。ホコリも乗ってる……」

 閣下が落ちついた声で言った。

「てことは、ここに来てる人はランプの明かりを点けに来てるだけ?」

「そんなことあるわけないだろ? 一体何のために?」

 ファーブルが言った。

「じゃあ、このランプは僕たちが来るまでずっと灯ってたっていうの?」

 パルコは言った。

「まさか」

 ファーブルは、そんなわけあるかって顔してるけれど、口には出さなかった。

「机に何かあるよ」

 ファーブルがそう言って、五人は古い机を取り囲むように近寄った。

 キキは、またパルコの腕にびっちりくっついた。


 大きな古い本が、机に開かれたまま置かれている。まるで、ついさっきまで誰かがこの椅子に座っていて、何かの用事でたまたま席を外しているかのようだった。

 その本を守るように覆っている装庁は、すすけた銀細工で細かい装飾が施されていた。四辺の角はすり減っていて、布地の繊維が見えていた。

 そして、大きな本の横にちょこんと、くすんだ真鍮色の卵のような置物がある。父親がくれた銀貨のように酸化していて、少し黒ずんでいるようだった。

 アンテナが言った。

「卵みたいな……文鎮?」

「さわってみろよ」

 閣下がニヤってしてアンテナに言った。

「何で僕が⁈ ヤダよ!」

 この明らかに異質な空間は何なのか。本当につい先ほどまで、ここに誰かがいたのではないだろうか。そう思わせる暖かみが、ここに残っている。

「本当に誰も来ないよね?」

 アンテナが不安な気持ちで言った。

 パルコは自分の好奇心を抑えきれなくなって、銀の卵を手に取った。

「さわってみなきゃ、わからない」

「さすが団長、手が早い」

「失敬な」

 パルコは冗談混じりに閣下に言って、銀の卵を手に取った。

「ズッシリして重い……!」

 パルコは、卵の側面に小さな金属の取っ手があることに気がついた。それをひねると、まるで車の天井が開閉するコンバーチブルカーのように卵の天井がスライドして開いた。パルコは声を上げた。

「駆動する! 中に……何か入ってるよ! 液体っぽい!」

「液体⁈」

 三人は声をそろえた。

 かすかに、ランプの光が黒い水面に反射するようだった。

 パルコは、この卵が何なのか(十分予想できていたが)、念のため匂いをかいで確かめることにした。鼻を直接近づけてかぐのではなく、手であおいでかぐようにすること。もしこれが危険な薬品だったとしたら、鼻で直接かぐことは危険なことだ。

 かすかに、なじみの匂いが鼻の奥の方であいさつしてくるようだった。

 パルコはニヤリとして、確信したかのように小指を卵の中に入れて、すぐさま出した。小指の先端に黒いインクが付いている。正確には、黒っぽくて青いインク……ブルーブラックのインクだ。

「やっぱり。これインクだ。硫酸第一鉄とタンニンが化合された匂いがする」

「へぇ〜……」

 ファーブルが感心している。続けて得意ざまにパルコは話す。

「主に……万年筆に使われるインクだよ。色はブルーブラック。昔から使われてるインクの色だ」

「さすが! 自他ともに認める文房具好き!」

 アンテナが感嘆の声を上げる。

「なるほどな。この机で、この本に何か書くんだな」

 そう言って、閣下がどっしりと置かれている大きな本をめくり始めた。

 羊皮紙みたいな古い紙のページもあればグラシン紙という薄い滑らかな紙も挟まれている。この本は色々な紙が継ぎ足されているようだった。

「見てみろよこれ……何語だ? フランス語?」

 本の中の言語は英語もあれば、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、もちろん日本語だって……とにかく知らない言語も多かった。

「読めねえし」

「アーネスト……ヘミングウェイ? まさかな」

 ファーブルが小声で言った。パルコが続ける。

「これコナン・ドイルのサインに似てる……こっちはゴッホ」

 閣下とアンテナは顔を見合わせてまったく理解できないという顔で呆れている。

「何だこれ? 偉大な作家や芸術家の名前……? 署名簿?」

 パルコは興奮を抑えられない。同じように、ファーブルの眼も生き生きしている。

 キキがパルコの耳元で話す。

「………」

「ワクワクしてるの? だって? ワクワクせずにはいられないって! そうだろ?」

 そう言って、パルコは木製の椅子をガタガタッと引いて、背負っていたナップサックを机に置きながら、どかっと座った。

「おいっパルコ!」

 急に音を出したパルコに、閣下が注意した。

 それでもパルコは動じていない。耳に入っていないって感じだ。

 急なパルコの変化に、三人ともあきれている。ワクワクすると強気になる癖は、彼は大人になっても直らないだろう。そして続けざまに口を開いた。

「絶対おかしいよ、この部屋! 何で廃工場の奥の部屋で、机とランプと卵なのさ?」

「同感だな」

 ファーブルが続いた。パルコとファーブルは、目を合わせてニヤッとした。

「誰かがここで、何かを、していた……!」

 パルコの目が、いつにもまして輝いた。


 廃工場の奥の奥の部屋、ランプが灯る一室が存在していた。

 あたかも、つい先ほどまで誰かがここに居たような空間だった。

 パルコはナップサックのジッパーを開けてペンケースを取り出した。

 いつものように閣下がパルコに聞いた。。

「今度は何する気だよ?」

「モンブランの146」

 さっそうとペンケースから取り出したそれは、モンブラン社が製造している万年筆だった。黒光りする黒いボディに、まるで最高の夕日が映り込んでいるかのようにランプの明かりを反射している。

「小学生の分際で、高級万年筆を常備するなよ」

 ファーブルが鋭い突っ込みを入れた。パルコは構わず語ろうとする。

「去る一九六三年、西ドイツのアデナウアー首相がゴールデンブックに署名の際に……」

「ウンチクはいいって!」

 閣下とアンテナが声をそろえて制止した。これが、彼らのお決まりパターンなのだ。

 パルコが自慢げに父親から譲り受けた万年筆を取り出す時、決まってやるコントなのだ。

 そして、それを温かく見守るのがキキの役目だ。

「僕たちは秘密組織を結成したじゃん? せっかくだからさ、この本に一人ずつ署名して、正式に組織を結成しようよ!」

「これにか……⁈」

 閣下もワクワクしている。

「僕らの調印式! エポックメイキングさ! 皆んなで重要な事実を作るんだ。そういう時は必ず万年筆で署名するんだ!」

 パルコは、自分で言って興奮しているのがわかった。

「どう?」

 四人は顔を見合わせた。まず、閣下が口火を切った。

「……いいな! それいいな!」

「うん! なんか……カッコいい!」

 アンテナも賛同した。キキもニコニコしてうなずいている。

「あのさ、オレも署名していい? 秘密メンバーに……入りたいんだけど?」

 ファーブルが皆んなに聞いた。

「ここまで来といて、今さら言うなよ」

 閣下が笑いながら言った。つられてパルコもアンテナもキキも笑った。

 ファーブルは、皆んなの反応を見てホッとしているようだった。そして一言。

「高尚な行為って感じがする!」

「でしょ」

 パルコがフフンて顔をする。

「いいね! 廃工場、謎の一室で秘密組織の結成!」

 アンテナも興奮してきた。

 キキがパルコの耳元でささやく。

「………」

「伝説に残るな、だって」

 パルコが笑って代弁する。

「組織の名前はどうする? 名前がなきゃ、しまらないだろ? いい加減、正式名を決めようぜ」

 閣下の言うことはもっともだ。秘密組織を結成したのに、名前もないのだから。

「うーん……」

 皆んな考え始めたが、すぐにパルコはピーンと閃いた。

「夜に……ランプの明かり……でもってインクはブルーブラック………」

 四人は、パルコが導き出そうとしている名前を見守った。

 赤いランプから、また、ジジッとかすかに音が聞こえた。

「ブルーブラックの明かり」

「!」

「……ってのはどう?」

「……いいと思う。組織名っぽくないところがいいよ!」

 ファーブルが文句なしって感じで褒め称えた。

「決まりだな」

 続いて閣下が口をそろえた。

「どんな明かりなんだろう⁈ って思ったよ。それが秘密めいててカッコいいよ!」

 アンテナが興奮して太鼓判を押した。

「ではでは……」

 パルコは照れながら、モンブランのキャップを外してから、尻軸を軽やかに回し始めた。すると、内部のピストンが下がり始めた。ピストンが下がり切ったら、先端を銀の卵の中に浸けて、再び尻軸を今度は逆回しする。今度はピストンが上がり始め、インクが吸い上げられていった。

 父親から貰ったモンブラン146は、ボトルに入ったインクからペン先を通して直接吸いあげるピストン吸入式だ。インクカートリッジを交換するタイプもあるが、パルコはこの型がお気に入りだった。

「にしても、いつも変なこと思いつきよるな、パルコは」

 アンテナが腕を組んで改めて言った。

「失敬な……気高い行為と言ってくれたまえ」

 アンテナにならってパルコが面白おかしく返答する。四人は顔を見合わせて、クスクスと笑った。

 パルコは、モンブランを羊皮紙に滑らせた。

 そして、一気に秘密の組織名を書いていった。それから自分の秘密の名前を書き、次に椅子から立ってモンブランを閣下に渡した。

「万年筆で名前を書くって緊張するなあ」

 閣下は椅子に座り、たどたどしく自分の秘密名を書いて、アンテナにモンブランを渡した。それからキキ、ファーブルへと順番に署名していった。


 秘密組織

『ブルーブラックの明かり』を

 ここに創設する。

 その秘密構成員は……

 ・パルコ

 ・閣下

 ・アンテナ

 ・キキ

 ・ファーブル

 ……から成る。


 ファーブルの署名を見守ってから、万年筆は再びパルコの手に戻った。木製椅子に座りなおした時、コツンとパルコの靴に何かが当たった。

 椅子を引いて机の下をのぞいてみたが、暗くてよくわからない。パルコはヘッドライトの小ライトを点灯した。

「手帳……? がある」

 ためらいなく、それをつかんで起き上がり、ランプの明かりに近付けた。

「誰の手帳だろう?」

 アンテナが恐る恐る言った。

 手帳は開かないようにゴムバンドで留められ、ひも状のしおりが挟まれている。

「よく使い込まれた手帳だね。そんなに古そうではないみたいだけど……」

 そう言ってファーブルの顔がくもった。

「ここに来てる人の落とし物かもな……」

 閣下が話すと、皆んなさっきまでの高揚感が急に冷めて、次第に誰かが来るのではと、思い始めた。

 パルコは急いでゴムバンドを外して、しおりの箇所を開いた。

「卵が現れたとき、そこに秘密がある。秘密が存在することを示しているのだ……。秘密が付与される場所はテーブルである。そう、旅人はテーブルにつかなければならない」

 パルコの好奇心は抑え切れず、書かれていた文章を口に出していた。

「何それ……?」

「テーブル? ……どこの? ここ?」

「待って、まだ何か書いてある」

 ゴクンッと誰かが唾を飲み込む音がした。

「……本が開いていれば、物語の続きを書く著者に。本が閉じていれば、新しい物語を書く著者になる、だって」

「どういうこと?」

 アンテナがいぶかしげに首をかしげている。

「このデカい本のことを言ってるのか?」

「僕たちが部屋に入った時は、本は開いてた……」

 急に、閣下がパルコを制止した。

「静かにしろっ」

 閣下のその一言で、水を打ったようにランプの部屋が静かになった。

 かすかに階下の扉が閉まる音がした。誰かが屋内に入って来たのだ。

「誰か来た……」

 声にならない声で、アンテナがうろたえた。

「やば……」

 ファーブルがポツリとこぼす。

 全員一斉にうろたえ始めたが、やはりこういう時に頼りがいがあるのが閣下だ。

「戻るのは危険だ! 出て左側に非常階段があったろう⁈ 行くぞ!」

 皆んな、閣下に続いて部屋を出る。

「待って……」

 パルコはナップサックにペンケースを慌てて入れた。口が開いたままだから、走ってる途中に中で全部飛び出してしまうかもしれない。考えてるヒマはない。手に持っていた『誰かの手帳』も一緒に突っ込んだ。

 出遅れたパルコは、部屋の前で待つキキの手を握って、急いで非常階段に向かった。なるべく忍び足で。パルコのヘッドライトが閣下の靴をとらえた。屋外の非常階段へとつながる、銀色のドアの前に三人が待っていた。

 声を潜めて、足音に耳を澄ませた。中階段をゆっくりと、おそらく革靴で上がってくる足音が聞こえる。閣下がゆっくりとドアノブを回し、四人に静かにあわてずに、錆びた鉄階段を降りるよう促した。



 外の夜風に吹かれて、パルコ、キキ、アンテナ、ファーブル、閣下の順にそろそろと非常階段を降りていった。五人分の光が列をなして地上に到着した。工場の裏側に位置するそこは、アスファルトの駐車場のようだった。

 五人は急いで最初に侵入した事務所の方へ走った。すぐそばの鉄柵を越えられないこともないが、深い森へと続いていた。パルコはキキの手をしっかり握ったまま走った。

 事務所の裏側に回り、様子を見ながら鉄柵の門へと向かった。やはり人気はない。あの部屋の足音は一体誰だったのか。パルコは不思議に思った。悠長に考えている暇はない。とにかくこの場から無事に逃げ出すことが大事だった。

 五人は古看板にたどり着き、すぐさま自転車に飛び乗った。出発するとともに、先頭のパルコが言った。

「誰にも見つからずに帰ることマストだ!」


 タコ公園に戻ってきた時、初めて皆んなホッと胸をなでおろした。

 それも束の間、今夜のことは翌日の昼放課に話し合うことに決めていた。今日は即刻解散してそれぞれの自宅の寝室に無事に、しかも何事もなかったようにベッドの中に戻らなければならない。これも「マスト」なのだ。キキを近くの自宅まで見送った後、三人はファーブルと次に会う日を決めて別れたのだった。

 パルコは夜中の農道を通り、ホチホチ灯で自転車をとめた。

 ホチホチ灯の光源の下で、パルコはナップサックを下ろしてガサゴソと中身を確認した。それからナップサックを逆さまにして、中身をアスファルト上に全部ぶちまけた。深刻な顔で探し始めた。ただ一心に、ソレがあることを願って……!

 また、ホチホチ灯が瞬きした。パルコは呆然とうなだれて、つぶやいた。

「万年筆がない……」


 パルコの父親はSF作家だった。大ヒットした作品とまではいかないが、今まで数本の小説を書いてヒット作を世に出している。知る人ぞ知る作家に当てはまるだろう。

 夜、寝る前は必ず物語を聞かせてくれた。絵本の読み聞かせもしてくれたが、一番の楽しみは即興で作って聞かせてくれる物語だった。『透明人間こうじくん』、『コロッケステッキ男爵』、『普通ノリオさん』、『シビ子ちゃん』、『何でも食べるモグゥ』、『頭の中にいるもう一人の君』など数々のキャラクターをパルコの父親が生み出した。これらどこか頭のおかしい面白キャラクターたちは、もうこの世ではパルコの頭の中にしか存在していない。

 次第に自分でも、ちょっとした空想の話を父親に聞かせるようになっていた。となりで寝ながら聞いている父の横顔をみながら、よく、くだらない話をした。仰向けに目をつむり、耳をこちらに向けてパルコの話を聞いている。夜遅いときも小声でヒソヒソ話す。階下から母の足音が聞こえてくると、「静かにするんだ、巡回の時間だ」と言って二人して眠ったフリをするのだ。そんな父親がある日、何気なく言った。

「ハルは将来何をしてるのかなあ」

 彼はそう独り言を言ったので、すぐに返した。

「作家になりたいな。ぼくも寝る前に、アドリブで上手いこと話をつくれたらなあ」

「別に作家にならなくとも、アドリブで寝る前に話をすればいい」

 そう言って、彼は笑った。

 その翌日だ。寝る前に書斎に呼ばれて、万年筆『モンブラン146 』をもらったのは。特に何かの記念日ってわけじゃない。何でもない日に最高のギアをもらえたことが、最高だった。お父さんは最強だって思った。


 気がついたら、パルコは全速力で自転車をこいでいた。

 また廃工場に戻るつもりなのだ。一人きりで向かうのが、パルコは怖くてたまらなかった。「もしかしたら、足音の人が万年筆をとってしまうかもしれない!」そう思ったら、いてもたってもいられなかった。

 明日また、廃工場に取りに行けたとしても、万年筆はもうないのかもしれなかった。

 であれば、今からあの部屋に戻って探すしかない。「誰か」と鉢合わせすることになっても、理由を説明して万年筆を探せばいい。その代わり、夜遅くに家を抜け出したことも、廃工場に無断で入ったことも、部屋の本に勝手に署名したことも、全部、家や学校にバレてしまうだろう。

 けれど、秘密メンバーのことだけは、何を聞かれてもパルコは黙っておこうと決めていた。万一、本に署名したことがバレたとしても、秘密の名前だから誰と一緒にいたかなんて特定されないはずだとタカをくくった。

 こんなことになるのなら、万年筆を持ってくるんじゃなかった。一番大切な物を置き忘れたことをパルコは後悔していた。


 夜空よりも黒い森のシルエットが、少年の周りにそびえていた。

 暗い森の林道を、パルコは立ちこぎで自転車を走らせていた。ゼーゼーいいながら、ひらかれた砂利道に出た。ここからは街の夜景が見える。ビルやマンション、家々の灯の光を見ると、少しだけパルコはホッとした。遠くの森の黒いシルエットが動いている。風が出てきたのだとパルコは感じた。休むのもなしに、急いで廃工場に向かった。

 砂利道がボロボロのアスファルト道に変わる分岐路にさしかかり、手前のほぼ鉄骨だけ古看板の裏に自転車を停めた。

 今夜だけで二回もここに来るなんて信じられない。そうブツブツ言いながら、パルコは暗闇の恐さから気をまぎらわせようとした。幸い、夜空が明るくて、デコボコのアスファルト道がよく見えた。アスファルトの細かな粒子が月明かりを反射してキラキラしていた。


 恐る恐る、静かに、足音を立てずに事務所の様子をうかがった。誰かがいる気配はない。

 慎重にドアノブを回して、パルコは中に入った。

 月明かりに照らされた屋外よりもこちらの方が暗い。これからまたあの部屋まで行かないといけないと思うと、パルコは気が滅入った。

 だが、考えている暇はない。早くしないと足音の人が来るかもしれなかった。パルコはヘッドライトのスイッチをつけて、雑然とした書類群を踏みつけて長い廊下へと出た。

 一人きりの探索はとても心細かった。真っ暗な渡り廊下を一人分のライトだけで照らして進んだ。もしも、照らした先に誰かの足が見えたらどうしよう? いや恐ろしいのは真っ暗の中、立っているその人が何者かということだ。真夜中の廃工場で一体どうして誰がすき好んで突っ立っているのだろうか。

 そんな恐ろしい想像がパルコの頭の中をしだいに埋めていく。T字に差し掛かり左折した。作業用機械たちの墓場を走り抜ける。機械が勝手に動き出さないだろうか? パルコの足音だけが作業内で反響している。ベルトコンベアを何度も越えて、したたる汗も気にも止めず駆け抜けた。

 続いて両扉を開き、二階へとつながる階段に向かった。

 踊り場の窓から、まだ月明かりが差し込んでいた。その柔らかい光に身体を当てて、パルコは呼吸を整えた。誰かが追ってきてはいないかと耳を澄ませた。アンテナと失神しそうだと話していたことが思い出される。ほんとに失神しそうだった……でも、ここまで来れたんだ。

「よくやったよ、自分」

 パルコは心の中で自分に向かって言った。

 暗闇をにらみながら、恐る恐る静かに、パルコは音を立てないように階段を上がった。 赤い絨毯が敷かれた廊下につながる踊り場に出た。

 やはり廊下の奥には、ドアの隙間からこぼれる灯火の光を確認できた。

 パルコはゆっくりとドアに近づき、耳をそばだてた。何の音も聞こえなかった。人の息づかいも、衣のすれる音も、足音も。誰もいないようだった。パルコはドアの隙間から部屋の中をのぞいた。

 古びた木製の机と椅子、よく見ると、椅子の背もたれの縁取りには葡萄の蔦のような彫刻が施されている。この隙間からでは部屋全体を見渡せなかったが、人影もなさそうだった。パルコはホッとして、静かにドアを開けた。

 古びた机のはす向かいに、ヴァーミリオンのランプに照らされた男が一人立っていた。



 パルコに気づくと、彼は静かに振り向いた。

「やあ」

 若い青年だった。帽子をかぶっていた。帽子の正面にはユニコーンの横顔が描かれたアップリケがついていた。

 ユニコーンの帽子の青年は、深夜の来客を怖がらせないよう優しく話しかけた。

「これはこれは、小さな冒険者だな。君はいつも深夜に探検しているのかい?」

 パルコは誰もいないと思ったので、とてもびっくりして、まごついた。

「僕……万年筆を探していて……」

「なるほど、さきほど部屋に入ったのは君だったのか」

「勝手に入ってごめんなさい」

「気にするなよ。ボクも勝手に使っているんだ。内緒にしておいてくれたまえ」

 そう言って青年は笑った。パルコもそれを聞いて笑った。

「あぁ……万年筆だったね、机の下に落ちているかもね。探してごらんよ」

 パルコはかがんで机の下をヘッドライトで照らした。

「あった!」

 確かに万年筆だった。父親からもらった、今では大切な形見だ。なぜ、青年は机の下に落ちていることを知っていたのだろう? パルコはいぶかしげに思った。

 教えてくれた青年に、パルコは笑って万年筆を掲げてみせた。青年もホッとした様子だった。彼は優しい心の持ち主なのだろう、そう思ってパルコも内心ホッとした。

「良かったね」

「でも、落とした覚えがなかったから、おかしいな。部屋からあわてて出たから、その時に落としたのかな……?」

 そう言ってから、すぐにパルコの顔が曇った。

「この本に、勝手に書いてしまいました。ごめんなさい」

「正直だね。残念だけど、ボクは本の持ち主じゃないんだ。だから、ボクに謝られても困るな。それに気にしなくていい、なぜならこの本は勝手に書かれたっていいし、秘密のことを書くためにある秘密の本だからね」

「……え?」

「この本は特別な本なんだ。書いたことが現実になってしまうから。その代わりに、書いた人の大切なものが失われてしまう。交換だよ」

 パルコは彼の言っていることが、よく理解できなかった。

「でも、君はラッキーだよ。勇気を出して引き返しに来れたのだから。来れたとしても、普段は開いてないからね。その点、ボクがいるときに来たのだから、大したものだ。だから、万年筆は君の手に戻る。ボクは万年筆を拾う必要はないからね」

 なお、パルコは彼が言うことを、よく理解できなかった。

「ここは……何なんですか? 夜中だけ開いてる部屋なんですか?」

 帽子の影の中で光る青年の目と、パルコの目が合った。

 吸い込まれそうな青年の眼には、地球が映っていた。

 特別な眼だ、とパルコは思った。アースアイと呼ばれる目があると、いつかテレビでやっていたのを思い出した。海のような青色の輪から、だんだんと陸のような黄色とオレンジ色が混ざり合って中心に向かっている。真ん中の漆黒の丸が、パルコを見つめていた。

「世界を変えるための不必要の部屋なんだ」

 そう言って、青年はパルコに笑いかけた。

「世界を変える……?」

「書いたことが本当になるんだよ」

「この本に書いたことが?」

「そうだよ。『シンクの卵』の物語さ。その大きな本に書いたことが現実になるんだ」

「シンクの卵?」

「うん」

 彼の眼はとても澄んでいた。そして、マンガやアニメに出てくる主人公のように瞳がキラキラしている。うそ偽りのない、信じたいと思わせる目だった。それは、パルコの父親の眼に似ていた。

「君が……君の友達と『ブルーブラックの明かり』っていう秘密組織を作ったのかい?」

「……うん」

「そうなんだ。良い名前だね。なんだかワクワクする秘密の組織だよ」

 パルコは、それを聞いて嬉しくなった。

「書いてしまったことは仕方がない。幸い、書いた内容についてはそれほど問題ないと思うけど、君も君の友達も、この部屋のことを誰にも話してはいけない。そして、二度と皆んなと来てはいけない」

 ユニコーンの帽子の青年は真剣な表情で、何かを訴えかけるようにパルコに言った。それほど問題ないってことは、少しは問題あるってことなのかなとパルコは疑問に思った。

「わかりました。その大きな本って……一体何なんですか?」

「知りたいかい?」

 パルコはうなずいた。

 ユニコーンの帽子の青年は、その吸い込まれそうな地球が入っている眼でパルコを見つめ、やがて語り出した。


「……とある古き偉大な作家が、ある日一つの物語を書くことを思いついたんだ。それは地球の滅亡を事細かに書き記した話だ。全てはそれが始まりなんだ」

 まるで何かが始まるような冒頭の語りに、パルコはドキドキした。

「そして、その物語は、最初の作家が書き終えることのできないほど、大きな物語になってしまった。作家は神から閃きという形で与えられた物語を手にした時、その可能性にすでに気付いていた。作家は病を患い命を落としたが、未完に終わった物語は、後続を担う新進気鋭の作家に受け継がれていた」

「…………」

「そして、その作家が偉大になり命を落とした時も、また新たに偉大なる作家がその物語を手にしていった。そうやって、その物語は、才気煥発な作家や芸術家、あるいは音楽家や詩人、時には政治家や彫刻家などの手によって書き加えられていった。もはや、その物語は巨大だった」

「…………」

 パルコはもはやワクワクしていた。

「いつしかその物語は、世界で最重要の現象となった。世界の隠された秘密の中で、最も高位な機密事項となったのだ。なぜだかわかるかい?」

 パルコは、頭を横に振った。この時点で、たくさん聞きたいことがあったが、青年の見事な口上を止めたくなかった。

「それによって、世界は進展しているからだ。その物語によって、地球は滅ぶことが約束されている。そこに書かれた秘密に従って、現実が起こっているんだ」

「地球は……滅ぶんですか?」

「そうだよ。いつかはね。でも、それはずっとずっと先の話だよ。地球が滅ぶ時は、また始まる日なんだ。だから心配しなくていいよ」

 パルコは青年の言うことがよくわからなかったが、彼が心配しなくていいと言うと、本当に心配しなくてもいいことなんだとわかった。

「書いてみるかい? 試してみるといい。この部屋に二度も来れたんだ。君にはその資格がある。さっきの続きとみなすから、今日はもう大切な物は失われない」

「…………」

 この青年が言っていることは本当なのだろうか? とパルコは思った。

 本に書いたことが現実になるなんて、そんなのありえないことだ。そんな本が存在してしまったら、皆んな書きたいことだけ書いてしまい世の中は滅茶苦茶になっているのではないだろうか?

 ユニコーンの帽子の青年は、パルコの心を読んだかのように言った。

「皆んなが皆んな、この部屋にたどり着けるわけじゃないんだよ。誰も傷つかないことを書いてみたらいいよ。皆んながワクワクしてウキウキするような、そんなことが書けたらなって、たまに思うんだ。けれど、ボクには何も思いつかないな。君はどう?」

 パルコはそんなこと簡単なことだと思った。なぜなら、いつも考えているからだ。

「皆んなが皆んな、ワクワクするかどうかわからないけれど、自分だったらこうなれば面白いのになあ、なんて思うことはあるよ」

「じゃあ、書いてみればいい」

 ユニコーンの帽子の青年は優しくほほえんだ。そして、また言った。

「さあ、書いてみればいい」




 朝、いつもの通学路は、その日もいつもの変わらない風景だ。

 しかし、住宅街の歩道を歩くパルコにとっては、ありえない風景だった。

 いや、自分の頭の中にだけ存在すると思っていた風景だから、それが現実の日常風景に溶け込んでいることが信じられなかったのだ。

「こんなことって、あるわけがない」

 そうパルコは思いたかった。

 一人の会社員が慌ただしく腕時計を見ながら駆けていく。パルコが歩く通学団を通り越して、少し先の横断歩道を渡りながら、目の前のアパートの上層階をチラチラ見ている。 アパートのベランダには、いくつかの開かれた雨傘がぶら下がっていた。天気は晴れだ。

 会社員は腕時計をチラチラみながら、ぶら下がる雨傘の部屋を確認するかのように何度も眺めた。しばらくウロウロして、意を決してアパートの玄関に入っていった。

 あの会社員は、どうしたのだろう? 雨傘がぶら下がる部屋を訪問しに行くのだろうか? いつもは誰もが素通りするアパートではないか。

 パルコには、彼が何をしようとしているのか分かっていた。だって、それを思いついたのは、パルコ自身なのだから。

 彼は、パッと開いた雨傘をぶら下げている部屋を訪問するのだ。そして、アパートの住人からオススメの本を借りる。そういうルールなのだ。

 パルコ自身が、そんな社会があれば良いなあと思っていた。

 『ベランダに開いた傘をぶら下げた人は、誰かに読んでほしいオススメの本を貸したいと思っている』

 昨日の真夜中、パルコは秘密のルールを書いていたのだった。試しに書いたのだ。青年が勧めるように、パルコは面白半分で自分の願望を書いてみた。

 そしたら今日、それは本当になり、新しいルールが誕生していたってわけだ。

 ユニコーンの帽子の青年の言っていたことは本当だったのだ。

『世界を変えるための不必要の部屋! ……部屋にある本に書いたことは、本当になってしまうんだ!』

 信じられない! ……けれどパルコが面白半分で書いたことが、すでに現実になっていた。世界を変えてしまった。信じないわけにはいかなかった。


 その日の昼放課、四人はクライミングネットの頂上にいた。

 パルコが持ってきてしまった手帳について話し合う前に、アンテナが笑いながら言った。

「今朝さあ、やたらベランダに傘を干してるのを見なかった? なんか笑っちゃうよ」

 アンテナのリアクションを見て、閣下がホッとしながら言った。

「オレも見たぞ。アレ変だよな? クラスメイトに聞いたら本を借りれるって言うじゃん? 知ってたか? オレ初耳だったんだけど……」

「そうなの⁈ 今まで傘をベランダに干す習慣なんてあったかなあ?」

 パルコは必死で笑うのをこらえている。キキが構わずパルコに耳打ちする。

「…………」

「アタシ雨傘図書、利用してみたいだって? ……ヒーヒヒヒヒッ」

 急にパルコが腹を抱えて笑い出すもんだから、三人は目をパチクリさせた。

「いいね雨傘図書! ナイスネーミング! ククククク……」

 閣下もアンテナもキキも不思議そうにパルコを見ている。パルコは、昨夜タコ公園で解散してから起こった出来事を洗いざらい三人に説明した。

「すごいなお前」

 閣下が感心して言った。

 アンテナもキキも何度もうなずいてる。

「ボクだったら、万年筆はあきらめてそのまま帰ってたよ」

「オレだって一人きりで廃工場には行きたくないな。またあの昨日の行程を行くって……お前ほんとによく行ったな!」

 パルコはまるで英雄のように褒め称えられた。

 キキが耳元でささやいた。

「次は一人で行っちゃダメ」

 キキはパルコの行動を心配していた。

「僕も一人きりで行きたくなかったよ……でも気づいたら向かっていたんだ。廃工場はほんとにほんとに怖かったんだ」

「そのユニコーンの帽子の人って何者なの?」

 アンテナが聞いた。

「僕もわからないんだ」

「本に書いたことが本当になるってかなり嘘くさいな。けど書いたんだろ? それで本当になった」

「うん。本当に本当に書いたことが現実になったんだ! 『世界を変えるための不必要の部屋』……文字通り、世界を変えてしまったんだ!」

「マジでか……でも本当かも。だって僕らだけ雨傘図書のことを知らないんだよ⁈ それって秘密を作った側だからじゃないの⁈」

 アンテナが鋭く言った。

「なるほどな……本に書いた当事者だからか。あの本にオレらの名前を書いたから、パルコが書いた秘密はオレらの秘密でもあるってことだ。ファーブルもベランダ見て、不思議に思ってるんじゃね?」

 続けて閣下が話す。

「でも……誰にも知られていないあんな奥の奥の部屋にだ、夜な夜な通ってるのは何か特別の理由があるに違いない。じゃなきゃ頭がイカれてる」

 閣下の言う通りだった。あの青年は何か特別な理由が他にあって、あの部屋にいたんだ。そうパルコも思った。

「お前の親父さんと関係があるんじゃないか?」

 閣下が核心めいたことを突いた。

「僕、お父さんのこと何も聞けなかった」

 三人はうつむいた。

「ていうか、聞くの忘れてた」

 閣下とキキはアンテナに目線を配り、サインを受け取ったアンテナは一つ咳をしてから言った。

「ズコ〜ッ」


「一体これは誰のだろう?」

 アンテナが手帳の中を隅々まで調べている。

 手帳には色々な言語でメモ書きや図形、挿し絵などが書かれている。メモ書きのほとんどは汚い走り書きで、ミミズがはったような字だった。これなら不意に手帳を落としたって、内容が何なのか誰にもわからないだろう。図形や絵もなんだかよくわからない。

「なんか昨日のことが夢みたいだよね……」

 アンテナが言った。

 閣下が抑えきれず口を開いた。

「パルコ、お父さんの手帳なんだろ?」

「……多分。手紙の筆跡とよく似てるし」

 パルコは昨日の一件で疲れていた。もう、すぐにでも家に帰って眠りたかった。

「だろうな。パルコの親父さんは、パルコにカードの暗号を解読させて、廃工場に行かせたかったんだ。昨日の、奥の奥のあの部屋に……」

「何でだろうね……僕、絶対に一人で行けやしないよ」

 アンテナが言った。

 パルコは自分もそうだと思った。父親の万年筆さえ置き忘れなければ、昨日一人きりで廃工場に戻らなかっただろう。そして、あのユニコーンの帽子の青年にも会わなかったはずだ。

「ファーブルもここにいたら良かったのになあ。彼の意見は貴重だよね」

 唐突にアンテナがポツリとこぼした。

「だな。週末の塾帰りにアンテナは会えるだろ? 昨日約束したんだから」

「パルコの出来事も含めて伝えとくね」

 四人は改めて彼を正式な秘密メンバーに迎えたことを喜んだ。

 昼放課の終了を告げるチャイムが鳴った。校庭の生徒は一斉に昇降口に向かっている。

「そういえば、あの部屋、お父さんの匂いがした……」

 ふとパルコは思い出した。確かにそうだった。口に出さなかったけれど、かすかに本当にかすかに、パルコはそう感じたのだった。


 学校の帰り道、昨日から時間が過ぎれば過ぎるほど昨夜の探索は本当にあったことなのだろうかとパルコは思ってしまう。今思い返しても、あの青年は実在したのか? と疑問に思うくらいだ。

 パルコは手帳を取り出した。一体これには何が書いてあるのだろう? 大方全てのページは文や絵などで埋まっていたが、最後のページの下半分は余白がある。上半分の読めない文章の中にカタカナらしきものが記されている。かろうじて「シャイン」と読めるだろうか?

 昼間は気づかなかったが、裏表紙の内側にピッタリ閉じたポケットがあった。パルコはハッとして中を探った。

 一枚のレシートが入っていた。レシートには『純喫茶ナウシャイン』の印字がされていた。ナウシャイン? 先ほどのシャインはこれか。改めて、手帳の最後の文章をまじまじと見ると「純喫茶ナウシャイン」と走り書きがしてあった。それを見た瞬間、パルコは「ナウシャイン!」と心の中で叫び、とある夏の日を思い出した。 


 昔、といっても小学生に上がる前だろうか、それとも低学年の時だろうか。

 一度だけ、父の行きつけの喫茶店に連れていってもらったことがある。車で連れて行ってもらったので、地理感がさっぱりわからなかったが、覚えているのは隣り町だということ。その喫茶店がここなのではないのだろうか? 

 あの日、クリームソーダを入れたグラスは結露して水滴がついていた。店内には古い柱時計がある。レジカウンターの小箱には黄色いマッチ箱がある。箱に書かれたカリグラフィーの文字「ナウシャイン」。それがやけに鮮烈だったのを覚えている。


 歩行者用の信号が青に変わった瞬間に、パルコは走り出していた。 

「きっとあるはずだ! お父さんからもらった物は、いつも引き出しに入れてたから!」

 勢いよく玄関のドアを開けて、二階へとつながる階段を一つ飛ばしで駆け上がっていった。後ろから、遅れて母親の声が聞こえてくる。

「ハル? 帰ったのー?」

「ただいま!」

 まっすぐ自分の部屋に入って、ドアを閉めた。

 それから、机の一番上の引き出しを抜いて、そのままカーペットの上にひっくり返した。それはパルコの予想に反して、すぐに発見された。

「黄色いマッチだ!」

 パルコは、それをダウンベストのポケットに入れて、自転車にまたがり家を飛び出した。


 パルコは自分の気持ちを抑えきれなかった。

 この喫茶店に何があるのだろうと考えると、いてもたってもいられなかった。こんなにワクワクするのは、お父さんが自分に向けて「何か」を残しているからだ。

 黒いクロスバイクは風を切って、ぐんぐんスピードを上げた。坂道を越えて大きな県道に出たところで、二段階分ギアチェンジして速度を上げた。そして隣り町へと渡るため、一級河川を横断する真っ直ぐの橋を力強く駆けた。

 マッチ箱に書かれていた住所は、隣り町の『戸ヶ崎町五丁目』だ。近くの橋を越えればすぐだから、行けば何とかなるだろうとパルコは思った。

 市境を越えた隣り町に行き着いた時、すでに夕方近くになっていた。

 やがて見覚えのある交差点が目に入り、自転車を止めた。近くの電信柱に住所が書いてある。「戸ヶ崎町四丁目」とある。この近くに喫茶店があるはずだ。店が潰れてなければの話だけど……。

 近くに保育園があり、同じ通り沿いに教会風の建物で喫茶店らしきお店が見えた。お店の周りは急に田んぼが開けていて、見る角度によっては、田園風景の中にぽつんと喫茶店があるという感じだった。あそこかもしれない、とパルコは期待した。

 喫茶店は営業していた。小さい黄色い看板に『純喫茶ナウシャイン』と書かれている。

「ここだ!」

 何年か前に父親と来た喫茶店は、ここで間違いなさそうだ。自転車を建物沿いに停めてから、身なりを整えた。パルコは入店するのをためらった。

 よくよく考えてみると、小学生一人が喫茶店に入って受け入れてくれるものだろうか? ナップサックを背負い、隣り町から来たと話したら、家出少年に間違われないだろうか。で、警察に連絡されて母親を呼び出されて、ここに来た理由を問われでもしたら、かなりややこしくなるのは目に見えている。

 しかし、ここまで来て手ぶらで帰るのもパルコは嫌だった。案外、父親の名前を出せば見逃してくれるかもしれない。そうだ、前向きに考えよう。パルコはダウンベストのポケットに手を突っ込んで小銭を取り出した。五百円玉が一枚と百円玉が三枚入っている。たまにお母さんの家事を代行して稼いだお金を、ベストのポケットに入れている。こんな時のために使うのだ。(カードゲームに使わなくて良かった)

「コーヒー一杯なら余裕だよね? ダメならお父さんのことだけでも聞いて帰ろう」

 パルコは勇気を出して、店内に入っていった。


「いらっしゃいませ」

 ポニーテールの若い女性がレジカウンターの奥のキッチンから声をかけた。

 少年を見るなり一瞬驚いたようだったが、ニッコリして声を弾ませた。

「ようこそ、お好きな席へどうぞ」

 パルコは、カウンター近くのテーブル席に座った。店内に客はいなかった。

 カウンターテーブルに沿った通路の一番奥には、重厚な機械式の柱時計が鎮座していた。以前にも見たやつだ。父親と来た時はもっと大きかった。この喫茶店のシンボルみたいな物なんだろうな、とパルコは思った。

 洋風の店内は思ったより広かった。高い天井には、空気を循環させるサーキュレーターのファンが回っている。

「ご注文はお決まりですか?」

 ポニーテールの若い女性が、水を入れたグラスと黄色いおしぼりをテーブルに置いた。

 こういう時は、確かこうだ。

「ブレンド、ホットで」

「大人か!」

 そう言ってポニーテールの女性はクスクスと笑った。パルコは恥ずかしくなった。

「君、桜井さんの息子くんでしょ? 大きくなったね」

「えっ、お父さんを知ってるの⁉︎」

「もちろん、だって友達だもん。私はあなたのことも知ってるし、あなたのことも友達だと思ってるよ。ここに来たことあるの覚えてる? 私、あなたが来るのを待っていたわ」

「僕が来るのを待ってたの?」

「あなたのお父さんが言ってた。いつかブレンドを頼む少年が来るから、家出少年だと思って追い払わずに、うんと歓迎してやってほしいって。桜井さんの息子くんを拒むわけないでしょって、私答えたわ。そしたら、ほんとにブレンドを頼むんだから笑っちゃうよ」

「お父さんは僕が来ることを予想してたんだ……」

「……桜井さんがお亡くなりになる少し前のことよ。桜井さん、この喫茶店の常連でねえ。ねえ……ハルって呼んでいい?」

「僕の名前を知ってるの? もちろんいいよ」

「ありがとう。ハル、本当につらかったね。大変だったね。よく来てくれたね」

 ポニーテールの女性は、パルコの髪をそっとなでた。そしてレジカウンターの裏に戻っていった。彼女は目に涙を浮かべていた。

 父親の友人だという女性の優しさに、パルコはドキドキした。でも、パルコの心の中は「お父さんは一体何者なんだろう?」という疑問でいっぱいだった。

「僕の行動を予想できるものだろうか? この喫茶店に入ったのも、一つ間違えればここに来れなかったはずだ……」

 テーブル席から見える田園風景はピンク色だった。日没が近づき、積雲が広がる空は、とても美しい光景だった。


「お待たせしました」

 ポニーテールの女性は、カップをパルコの目の前に差し出した。

「コピルアク。当店の最高級コーヒーになります」

「え⁈ いや、ぼくは……」

「いいの。ブレンドを注文する少年が一人で来たら、それを出すことになってるの。もちろんお代はいらないからね。あとね、お父さんから伝言を頼まれてるの」

「え?」

「ハル、お誕生日おめでとう!」

 ポニーテールの女性はにっこり笑ってから、カウンター裏に戻っていった。

「…………」

 こんなことって……ある⁈

「コピルアク……知ってる。マレージャコウネコのフンから採れる世界で最も高価なコーヒーだ!」

 それは、かつて彼の父親が教えてくれた、いまだ飲んだことのないコーヒーだった。

 パルコは、白い陶磁器に金色で縁取りされているカップをとり、静かに口元に持っていった。ゆっくりと、熱いカップを唇に近づけて、少しだけなめてみた。

 カップをソーサーに戻すとほぼ同時に、彼の頬を涙が伝った。ポロポロと雫がこぼれ、いくつかカップの中に入っていった。今日はパルコの誕生日だった。

「うまい……!」

 コーヒーの味なんて、正直まだわからない。酸味や苦味はわかるけれど、でもコレはこういうしかないのだ。決まっている。パルコは、死んだ父親が誕生日を祝ってくれる算段を整えていたことが、この上なく嬉しかった。彼の友人の言葉を借りれば、「伝説に残るな」と父親に目の前で言ってやりたい思いだった。パルコは、涙を服の袖でふいて、テーブルの上にあるミルクと砂糖をカップに目一杯入れた。

「どうしてお父さんは、僕が今日ここに来ることをお見通しだったのだろう?」

 偶然が何度も重なって、ここにたどり着いたのは明白だった。だけど、とにかく結果的に、誕生日にパルコはここに来たのだった。 



 カウンターの一番奥の席に、ダークブルーのスーツを着た大男が、いつの間にか座っていた。

 パルコの視線に気づいたらしい大男は、横目でパルコにウインクした。映画に出てくる俳優と思わせる仕草だ。きれ長の目は、本当に海外の大物俳優にそっくりだった。

 ポニーテールの女性が来て、テーブルにモンブランケーキとクリームソーダを置いた。

「うちの特製モンブランよ。良かったら召し上がれ」

「ありがとうございます。あの……今度また、友達とここに来てもいいですか?」

「もちろんよ! ハルの友達なら、私も友達になれると思うな。いつでも来てね」

「ありがとうございます」

「それとね、あそこに座ってる男の人がハルと話がしたいんだって。お父さんの知り合いらしいけど、私よく知らないの。知ってる人?」

「いえ、全然……。でも、話してみます」

「ほんと? じゃあ呼んでくるよ? 変な人だったら、すぐに私を呼ぶのよ? 奥にいるからね」

「わかりました」

 こういう展開になるとは思ってなかった。でも、父親のことが何かわかるかもしれないとパルコは思った。とりあえず目の前のケーキにすぐに手を出すことにした。

 ポニーテールの女性はカウンター席に座る大男と何やら話している。大男は女性にお礼を言ってから、パルコに向かって会釈した。パルコも少し頭を下げた。

 それからパルコがケーキを完食し、クリームソーダを一口二口飲んだくらいに、大男が席を立ってパルコのテーブル席に歩み寄ってきた。

「どうも、ヨハンセンです。ここ、座っても良いですか?」

「こんにちは。あ、ハイ、どうぞ」

 やはり、この人はハリウッド映画でよく見る、世界的に有名な俳優だとパルコは思った。

 ポニーテールの女性が大男のカップとソーサーを運んできた。パルコと目が合うと彼女はウインクして、おしぼりを新しくしてからレジカウンターの奥に入っていった。


 大男は、小指を立ててカップをもち、うまそうにホットコーヒーを一口飲んだ。パルコと目が合い、彼はニコッと笑ってウインクした。急に恥ずかしくなったパルコは、あわてて聞いた。

「おじさんは何者なの? お父さんを知ってるの?」

「知ってるといえば知ってるし、知らないといえば知らないな。というのも、私は会ったことがないんだよ」

「変なの」とパルコは思った。正直言って、この人かなり怪しい。

「正直言って、かなり怪しくて変な人だと思ってないかい?」

「お、思ってます」

 変な感じだった。大人の人とこうやって話すことは滅多にないから。でもこの人と話すのは緊張しなかった。海外の人だからなのだろうか?

「フム。でも桜井くん、一体何者か? というセリフはボクよりも君のお父さんへのセリフの方が正しくないかい?」

「どういうこと?」

 そう言いながらも、パルコは「そうかもしれない」と思った。

「君はお父さんのことをどれだけ知っているのかい?」

 見透かされているようで、いや、心を読まれているようで、パルコは慌てふためいた。

「ボクは海外で俳優業をやっているんだけどテレビとかで見たことないかな? かなり有名な方だと思ってるけど」

「やっぱり」

「知ってるんだね? だろ?」

「正直言って、あなたのことはかなり好きな役者です」

 言ってることが自分でもおかしく感じた。目の前にスーパースターがいることが信じられなかった。

「そうかい? そうは見えないけどなあ。まあいいよ。信じないかもしれないけど、君のお父さんが私に役をくれたんだ。君に試験を受けさせる大役をね」

「はあっ? 試験⁉︎」

「君が『シンクの卵』を扱えるかどうか見極める試験のことだよ。試験に合格すれば、真夜中に『不必要の部屋』を訪問することは目をつむるし、君にお父さんの物語を引き継いでもらうことに決めてるんだよ。そうするように、君のお父さんに頼まれているんだ」

「……シンクの卵って、あの本のこと?」

 ヨハンセンは、歯は見せずに、口の中で笑っているようだった。

「どうするんだい? 試験を受けるかい? 私はカワヤに席を立つから、戻ってくるまでに考えておいてくれないかな」

 そう言って彼は席を外した。

 はあ? って感じだった。何一つ理解できるものがなかった。お父さんの物語だって? 途中かけの原稿のことだろうか? にもかかわらず、パルコはますますワクワクしてきた。『ブルーブラックの明かり』のメンバーがいれば、皆んなで相談できるのに、とパルコは思った。

 あの人は、僕が喫茶店に来ることを、なぜ今日だって知ってたのだろう? とにかく試験を「受ける」しかない。じゃなきゃ、何もわからないのだ。だってこれは普通の誕生日じゃない。ずっと前から、お父さんが企んでたことは確かだ。

 店内の奥にあるドアが開いて、ヨハンセンが出てきた。パルコは心に決めた。

 ヨハンセンは、ゆったりとソファに腰掛けた。

「返答を聞こうか、どうだい? 試験を受けるかい?」

「もちろん試験を受けます」

 大男は小さく喜び、前のめりになって、その手に小さすぎる自分のコーヒーカップをつかんだ。パルコもコピルアクを手に取り、のどを潤すために一口飲んだ。


 ヨハンセンが滑らかに喋り出した。

「この世には物語を伝える選ばれた人間がいて、その物語は『彼ら』が創る。覚えておいた方がいい。しかし、世界を変えている人間は常にいるのだ。それは確かなことだ」

「……物語を作っている『彼ら』っていうのは誰ですか?」

「いい質問だ。『彼ら』とは物語を伝える人間ではない、ということだ」

「はあ? ……僕のお父さんは何者なんですか?」

「それは君が答えを出せばいい。私が答えることじゃない」

「……お父さんがそう言ったの?」

「そうとってもらって構わないよ。私に与えられた役目は限度があるんだ」

「あなたはお父さんと会ったことがないけど、お父さんと知り合い?」

「その通りだ。ペンパルなのだ。文通友達なのさ。ハハハ」

「すごく……素敵なことだと思う! 僕のお父さんがあなたと文通友達だなんて」

「私はずっと今日を待っていた。なぜなら、私のこの役目はいかなるものよりも優先されるべき仕事なのだよ」

「映画の仕事よりも?」

「もちろんだとも。全部投げ出してここに来てるんだ」

 パルコは、半ば信じがたかった。あのハリウッド映画にバンバン出演している名優がここにいて、その仕事を放り出してここにいるなんて。

「試験って? 僕、どうすればいいんですか?」

「では話そう。最初に言っておくが、たとえ試験に合格して君が物語を受け継いだとしても、やめたければ、その物語から逃れられるということだ。よく聞くんだ、その本を閉じればいいんだ。そう、閉じるだけでいいんだ」

「……」

「……まず最初に」

 大男は話を切り出した。 

「条件を提示しよう。お互いのね。私から申し上げておくと、君が試験に合格できなかった時は、ずばり君が持っている手帳をいただきたい。代わりといってはだが、単純な話、手帳を買おう。五億円までは出せる。私の気持ちも含めてそれが精一杯だ。それは私にとって、とても価値のあるものだから」

 パルコには、まるでピンと来なかった。五億円がどんなものか正直よくわからないのだ。流行りのゲームソフトなら、お小遣いを貯めて約六千円〜八千円ほどで買える。だが、五億円はどうだ? いや、それよりも、なぜこの大男は急に手帳の売買の話を持ち出したのか。なぜ父親の手帳を所持しているとわかった? パルコは怪しんだ。

「嫌だと言ったらどうなるの?」

「試験については教えない」

「試験のことを教えるのが、あなたの役目じゃないんですか?」

「もちろんだとも。それが私の役目だ。しかし、君が私の話に乗らないなら話は別になるんじゃないかな? 私は教えないなんて言ってないし、君にとって良い話をしている。だって、試験に不合格になれば君の持つ手帳は無意味なものになるのだよ。その無用の長物になったとしても、私には価値ある物だから金と交換しようと言っているんだぜ?」

「でもこれは、僕のお父さんの大事な物で……」

「そんな話はどうでもいいのだよ。君のお父さんが死んだ。だから形見としてそばに置いておきたい。そんな低次元な話ではないのだよ? 土地や物や金は流転するものだ。我々人間にとって、形ある物はそんなに大事ではない。大事なことは、その道具を使ってどうするかなのだ。わかるかい? 余命一日の君が世界を救える剣を持っていたとしたら、残りの一日をどう使うんだい? 私なら、剣を譲るに値する適正な人間を探すがね」

「だって僕……お金の価値はよくわからないもの……」

「困ったな……。ああ、本当に困ったぞ。君を桜井の息子だと見込んで、大人の話をしているのだ。まさか、金額の話で折り合わないなんて! お金の価値を知らないなんて! 君のお父さんは、そんなこと知らないなんてないはずだ! たとえ、君のお父さんが小学五年生だとしてもね!」

 パルコは、急に落ち込んでしまった。同時に、強い憤りを感じた。「この人に、父の何がわかるというのだろう?」と。

 確かにお金の価値はよくわかってないのかもしれないが、父がくれた万年筆のように、同じように彼が残した手帳はパルコにとって大切な物なのだ。(この手帳に何が書いてあるかは、わからないのだけれど……)

「君は何が必要で何が不必要なのか、取捨選択ができなければいけない。でなければ、君は君の好奇心に勝てない」

「……」

「あと二週間はここにいるつもりだ。その間はいつでも来たまえ」

 パルコは席を立ち、レジカウンターの奥にいるポニーテールの女性にお礼を言って喫茶店を出た。

「君は君の好奇心に勝てない」

 大男が言い放ったその一言が、パルコの耳にこびりついていた。



 翌日、四人はクライミングネットの頂上にいた。

 パルコは、昨日の純喫茶ナウシャインのこと、ポニーテールの女性のこと、スーツの大男のことの一部始終を三人に伝えた。

「どれから突っ込めば良いんだよ」

 閣下が困惑して口火を切った。

「本当にハリウッドスターだったの?」

 アンテナが、うずうずして言った。

「うん、自分でヨハンセンって言ってたし間違いないと思う」

 父親から指南された映画好きのパルコは、彼が出演する作品が好きだった。順風満帆の人生に見えて、実は努力家で悲哀な人生を経験している。運命の厳しさと苦痛を知らないと体現できない悲壮感、憂いと優しさを帯びたまなざしは、彼独特の演技だ。

 ヨハンセンは父親の友達なのだ。それもあって昨日彼が言ったことは、パルコにとってショックだった。

「大男が言ったことを気にすんなよ? この手帳はパルコが手に入れたんだ。お前がしたいようにするのが正しい選択なんだ。そんな大金を積んでると見せかけて、だますつもりかもしれないだろ?」

 閣下の言うことは一理あった。パルコは話をした相手のことを画面越しでしか知らないのだ。それは彼の本性ではない。

「でも、本当にその手帳が役に立たない物だったら、五億円で売れるのはすごいことだよね? そのスターは『もし試験に不合格だったら』っていう条件付きじゃん? 親切ともとれると思うけど」

 アンテナが素直に言った。

「こういうのは金じゃねえんだよ。とにかくオレらが口出しできることじゃないのさ。パルコがどうしたいかだろ?」

 キキがパルコに耳打ちした。それをパルコが声に出す。

「今日、学校が終わったら雨傘図書で本を借りに行こう、だって……」

「マイペースなやつだな」

 閣下が呆れて言った。


 四人はタコ公園に集合して、近くに建つ手頃なマンションをみつくろうことにした。

「ファーブルはどこらへんの塾に通っているのかな? アンテナ知ってる?」

「知らないよ。近くの塾って言ってたけど……」

「アイツ、毎日遅くまで塾に通ってるのかな? オレらと別れた時、来週の夜ならいつでもタコ公園にいけるって言ってたよな?」

「今夜会う予定だから、ナウシャインのことも伝えておくね!」

 アンテナが情報屋らしく胸を張って応えた。

 キキが赤レンガ造り風の一五階建てマンションを発見して、近くに行くことにした。四人とも雨傘があるかどうかマンションを見上げた。パルコがすぐに発見した。

「見て! 十階のベランダに透明の傘が広げてある! 左端の部屋だ」

「ほんとだ。透明のビニル傘はわかりづらいな。パルコくん、発見者の君がインターホンを押したまえ」

「げげーっ……承知いたしました閣下! わたくしめが先頭を引き受けますが、皆んなで行きましょう!」

「しょうがねえなあ」

 クスクス笑いながら、パルコを先頭に四人はマンションに入った。ポストを見ると一階が一〇一〜一〇四号室と付番されている。同様に十階は一〇〇一〜一〇〇四号室と表記されていた。

「とりあえず一番端だから一〇〇四号室のチャイムを鳴らしてみるからね」

 パルコは玄関のインターホンに部屋番号を入力してチャイムを鳴らした。電話口に出たのは年配の女性だった。

「どちらさんで?」

「あのっ、西部小学校五年三組の桜井と言います。ベランダの雨傘を見て来ました」

「あらまっ、これはこれは。ドアを開けるから上まで来てもらえるかしら?」

 そう言って年配の女性は電話を切り、まもなくドアロックが解除された。パルコたちはエントランスホールになだれ込み、エレベーターで十階まで上がった。

「ほんとに本を借りれちゃうの? いつそんな世の中になったの?」

 アンテナがドキドキしながら話す。

「昨日からだわ」

 閣下がツッコんだ。


 ドアが開いて、背の低い顔立ちの整った顔が現れた。ミフネという年配の女性で、きれいな白銀の髪に銀縁メガネが似合っている。

「嬉しいわ! 本好きの子どもたちに出会えるなんて!」

 はしゃいでいる銀髪の女性は、四人を部屋に招き、大量のお菓子と自家製のジンジャーケーキ、それにフルーツの香りのする紅茶を目の前のテーブルに差し出した。

 四人は面食らい、吸い付くようなソファに座り、彼女の雑談にたっぷり付き合わされることになった。

 アンテナが塾があるからと言わなければ、夕食を一緒に食べて、これでもかというほど胃袋に詰められて、動けなくされて、そのまま泊まっていけと言われたに違いない。

 帰りの玄関でようやく一冊ずつ本を手渡され、銀髪の女性にお礼を言って解放されたのだった。

 貸し出された本は四人とも違っていた。いずれも海外の作家で、冒険小説の文庫本だったが、読みやすそうで皆んな喜んだ。

 パルコが一番嬉しかったのは、キキがミフネと仲良くなれたことだった。キキはミフネに何度も耳打ちしていた。彼女の笑顔を間近で見れたことは、それだけで秘密を作った甲斐があったのだとパルコは胸を張った。


 その日の夜、ベッドに入ったパルコは、新しいルールを付け加えたいと考えていた。それはこうだ。

 ベランダに吊るされた雨傘の色によって、貸し出し図書のジャンルがわかるというものだ。たとえば赤系の傘ならバラエティ、青系の傘ならストーリーもの、黄色系なら実用書、緑系なら料理もの……などというふうに。透明や黒色の傘は、それは借りてからのお楽しみ、だろうか?


 夜中、目が覚めたパルコはトイレに立った。二階にある父親の書斎のドアがほんの少しだけ開いていた。その隙間から部屋の明かりがこもれ出ていた。

「もしかして、お父さんがいるんじゃないのかな? 本当は死んでなくて、本当はどこかで生きていて……」

 そんな気がして、まるで「あの部屋」のようだと思い、パルコはのぞいた。

 誰もいない。そりゃそうだ、とパルコは思った。

「…………」

 まただ、かすかに父親の匂いがした。これは夢ではなかった。

 つい先ほどまで、ここに父親がいた気がした……。

 パルコは胸の高鳴りを覚えた。かすかな期待が、そんなことありえない希望が、パルコの全身を埋めていった。さっきまで父親がいたのなら、彼はどこに行ったのか? 

 決まっている……! 「あの部屋」だ! パルコは震えた。



 パルコは今度もまた、無我夢中で自転車を走らせていた。

「お父さんがいるかもしれない! きっとそうだ! あの部屋にいるんだ!」

 ゼエゼエ言いながらY字路になった山道に到着した。ほとんど鉄骨だけの古看板の裏手に自転車を停めて、砂利道を歩き出す。今夜もまた一人きりで、パルコは廃工場に忍び込んだ。三度目の不法侵入はそんなに怖くなかった。

 それは、パルコの胸にあふれている希望がそうしていたのかもしれなかった。


 事務所の静寂を確認してから、ドアノブを回して中に入り、ヘッドライトのスイッチをつけてズンズン歩いて廊下へと出た。T字を左折して、作業用機械を横目にベルトコンベアを軽々と越えていった。パルコは、二階へとつながる階段を一個飛ばしで駆け上がり、赤い絨毯が敷かれている踊り場まで一気に来た。

 今夜も、やはり暗闇の中に浮かぶドアからこぼれた光を見つけた。ゆっくりとドアに近づき、耳をそばだてた。何の音も聞こえなかった。人の息づかいも、衣のすれる音も、足音も。誰もいないようだった。パルコはドアの隙間から部屋の中をのぞき、誰もいないことを確認すると、静かにドアを開けた。


 ユニコーンの帽子の青年が立っていた。

 パルコは「しまった」と思った。その姿を見て、約束を破ってしまったことに気づいたのだった。この前、彼は二度と来てはいけないと、パルコをたしなめた。

 しかし、今夜は父親がいるはずだと思い込んでいたのだ。いや待てよ、この前彼が言っていたことは「皆んなで来てはいけない」だったはずだ。一人で来たならセーフだろうか? 

 ユニコーンの帽子の青年はパルコを責めなかった。前と同じ地球の眼で、パルコに笑いかけた。

「やあ。そんなに急いで来て、君はよっぽど真夜中に行動するのが好きなんだな」

「ごめんなさい。僕……」

 お父さんがいると思って……そう言おうとしたけれど、パルコはその言葉を飲み込んだ。

「この部屋に来てしまったのは仕方がない。君、うつむくなよ。人は好奇心に忠実なものだよ。ボクも君が来てくれて嬉しいんだ」

 パルコはそれを聞いて嬉しくなった。

「この前書いたことに付け加えたいことがあります」

「閃いたのかい? それはいいね。ボクには書くことができないから」

「なぜ書くことができないんですか?」

「ボクは君に伝えるだけだ。君が一人きりでここに現れた時にだけ、ボクは存在し、君と会えるのだ」

「あなたは何者なの? 僕がここに来た時にだけ、あなたがいるって?」

 ユニコーンの帽子の青年は、いつものように微笑んでいるだけだ。

「……あなたは、この部屋から出ることができないの?」

「そうだよ。出たくても出れないのさ」

「僕が本に書いたら、出れますか?」

「え? そんなこと考えたこともなかった。……もしかしたら、出れるかもしれない」

「僕が出してあげます」

 パルコは椅子に座り、ナップサックからペンケースを出して万年筆を取り出した。そして思いつくまま、青年が部屋から出て自由になれるという文章を書いた。

 オレンジ色のシェードに映る灯りが、ジジジッと音を立てた。


「ありがとうパルコ!」

 そう言って、ユニコーンの帽子の青年はとても喜び、部屋から飛び出した。それきり彼は戻らなかった。

 パルコはぽかんとして、また椅子に座り直した。そしてもう一行、たった今閃いたことをパルコは付け加えることにした。

『お父さんは実はこの世界のどこかで生きていて、ベランダにレインボウに輝く傘がぶら下がっている部屋で待っている。』

 今度こそ、パルコはペンケースに万年筆を大事に入れた。これで置き忘れることはない。

 しかし、他の大切な物が失われなければ良いが……。

 でも、そんなことより父親と会えるかもしれないのだ。パルコの胸はこの上なく、ドキドキワクワクと胸が高鳴った。

 翌日から、パルコはあらゆる建物のベランダを眺めるようになった。そして、七色に輝く幸運の傘を探し始めた。



 白いソファに寝転びながらテレビを観ていたら、例のハリウッドスターがニュース番組で取り上げられていた。パルコは仰天した。

 映画関係者のエージェント(代理人)が彼と連絡が取れていないという。また、欧米での仕事を、いくつかキャンセルしているという。早く彼が仕事に戻らなければ契約違反となり、違約金を払わないといけないし、次々と仕事が減るだろう、とのことだった。

 その違約金の総額は、およそ五億円の試算になると、ニュースキャスターが言っている。

 パルコは、純喫茶ナウシャインで彼と話したことを思い出していた。

 彼は、どんな仕事よりもパルコの父親の依頼を優先して来日しているのだった。それは、すでに決まっていた仕事より優先してまで、パルコに会いに来ていたのだった。

 パルコは困惑した。ヨハンセンは、すでに何かを犠牲にしてまでナウシャインに来ていたのだ。

「嘘じゃなかったんだ」

 ヨハンセンは自分のために二週間待つと言った。パルコが早く物事を決めなければ、彼の仕事を次々に不意にしてしまうのだ。今、こうしている間にも。


 夜に浮かぶピンク色のタコの足……七本目の隠れドームに集まった秘密メンバーは、様々な議論を交わした末、アンテナが声を荒げた。

「ナウシャインに行って大男と話をするだって⁉︎ 本気なの⁉︎」

「うん。だって、ヨハンセンは僕のために日本にまで来たんだよ? 大切な仕事をほっぽり出してまで」

「これは慎重に判断した方がいいと思うんだ」

 閣下が切り出した。

「だってそうだろ? 父親の手帳を五億円で買うやつがどこにいる? しかも会ったことがないと言っているんだ。そんなあからさまに怪しいやつと取り引きするなんて馬鹿げてないか?」

「でも行かなきゃ話しが進まない」

 ファーブルが言った。彼は今日も白いジャンパーを着こなしている。

「話を進めるためには、手帳を手放す勇気が必要なんだろ? 読めない手帳を持ってたって役に立たないじゃん。それなら、いっそのこと渡してさ、そのミミズのはった字を解読してもらえばいいんじゃない?」

 隠れドームがしんっと静まり返った。

 ファーブルの言うことはもっともだったのだ。結局のところ、手帳を渡すことを許さなければ物事が進まなかった。閣下が静まり返った空気を動かした。

「どうするパルコ? お前しだいだよ」

「ヨハンセンと話がしたいんだ……皆んなにナウシャインに一緒についてきてほしい」

「何だよ、もちろんさ!」

「僕たち秘密メンバーじゃん!」

 アンテナが、大げさに胸を叩いた。


 日曜日の店内は年配の客でにぎわっていた。

 ポニーテールの女性が、珍しいこの四人を見て感激の声を上げた。

 カウンター席で新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる老人も、テーブル席でぺちゃくちゃとしゃべっている婦人連中も、政治のことで議論してる二人の男性客も、声が上がった方に注目した。

「僕たち奥の席に行きます」

 パルコがそう言うと、ポニーテールの女性はにっこりしてうなずいた。

 四人は流れるように奥の席へと向かった。

 一番奥の席は、コの字型に木製の壁があり、半個室のソファ席になっていた。閣下が最初になだれ込んで、それに習うように次々と同じソファに全員なだれ込んだ。

「なんで同じ側のソファに全員で座るんだよっ」

 閣下がそう言って、ぎゅうぎゅう詰めで座る四人は笑いこけた。

 キャッキャッしている四人のところにポニーテールの女性が来て、冷たい水の入ったグラスを持ってきた。

「ようこそいらっしゃいました。意外と早く来てくれたのねハル。私、とても嬉しいわ」

「ヨハンセンと話がしたいのですが……」

 パルコがおずおずと聞いた。

「知ってる、待ってて。皆んなハルの友達ね? よろしく。注文が決まったら教えてね」

 ポニーテールの女性の後ろ姿を見送りながら、アンテナが言った。

「ファーブルも来れたら良かったのになあ……」

 ファーブルは、休日は家の用事があるといって来れなかった。

 四人はオーダーメニューとにらめっこして、アンテナがようやく決めたその時に、ヨハンセンが敷居から顔をひょっこり出して現れた。四人を眺めるなり嬉しそうに笑った。

「レディがいるね。座っても?」

「はい」

 パルコが落ち着いて言った。

 三人は(特にアンテナは)驚いて声も出さなかった。

 世界的に有名な俳優が、いま目の前にいるのだ。ヨハンセンは、ソファにかけて大きくため息をついた。

「よく来てくれたな。正直なところ、もう来ないんじゃないかとヒヤヒヤしていたよ」

「僕、あなたに謝らなければいけない」

「なぜだい?」

「あなたは仕事を手放して僕に会いにきた。僕、それはウソだと思ってた。なのに……」

「君が謝ることじゃない。私は約束を守ろうとしただけさ。私が自分の意思で決めたことだから。君もそうだろう?」

「……あれから友達に相談したりして、話をしたくて来ました」

「フム。よほど信頼のおける仲間がいるんだな。さて、どうする?」

「試験を受けます」

 パルコが言った。

「では、君が不合格になった時には手帳を譲ってくれるのだろうか? 五億円でね」

「僕も条件があります。この前、あなたはお互いの条件を提示しようと言った。でも、僕は何も言わなかった」

「エクセレント! それで良いのだ。秘密の話し合い……つまり交渉の仕方はお互いの条件を提示した方が賢明だ。言ってごらん、君の条件を」

「僕が不合格になった時は手帳を譲ります。ただし、お金はいりません。その代わり手帳に何が書いてあるか教えてください」

 ヨハンセンは腕を組んで、しばし考えていたが、やがて口を開いた。

「フム……いいでしょう。よく考えてくれた。交渉というものは、お互いが満足いく内容にすり合わせることができること、それが良き交渉なのだ」

 パルコはホッとした。秘密メンバーはお互いに顔を見合わせて安堵した。

「試験の内容のことだが……」

 ヨハンセンは前回の続きの話を切り出した。

「私を感動させてほしい。試験はそれだけだ。それをクリアできれば『不必要の部屋』を訪問することは自由だし、君はお父さんの物語を引き継ぐことができる。いいね?」

「もう訪問しまくってるのにな」

 閣下が小声でアンテナに耳打ちした。

「あなたを感動させる……」

 四人は顔を見合わせた。そんなこと……一体どうやって⁉︎

「期限は一週間だ。一週間後の今日までに合格できなければ、君の手帳をいただこう」

「僕、できます」

「ほう……驚いたな。できるのかい? 四人で? ……それは、あー……いつかな?」

 大男は本当に驚いていた。大げさに身振り手振りもしていない。人が本当に驚くと固まるものだ。メンバー三人も固まっていた。パルコの言葉に彼らも驚いたのだ。そして、さらに続く言葉で冷凍ミカンのように固まるのだった。

「今すぐに」



 純喫茶ナウシャインを出た四人と大男は、パルコを先頭に歩道を歩いていた。

 パルコは自信を持って堂々と歩いていた。そして、ランランと輝くその眼には希望が宿り、視線は一直線の先を見すえていた。

 パルコの父親は目が良かった。だから眼鏡は必要としなかった。その息子のパルコもまた、目が良かった。視力検査ではいつも二.〇だ。だから、ナウシャインの大きな丸窓から見えたモノは間違いなかった。

「お前がどこに向かっているのかわかったぞ!」

 閣下がパルコと横並びになり、そっと言った。アンテナもキキもわかったようだった。 一番後ろで歩くヨハンセンは、彼らが何をしようとしているのか、何も理解できていないようだった。白いアパートが見えてきた。晴れているのに、一ヶ所だけベランダに雨傘がたれていた。

「雨傘図書に向かってどうするんだ? 本を借りてヨハンセンが感動できると思っているのか?」

「いいからいいから」

 閣下の心配はごもっともだ、とパルコはわかっていた。

 でも、その心配は無駄なことだ。なぜなら、これから起こることは誰もがびっくりすることだ。

 そう、パルコは希望に満ちあふれていた。


 五人は四階建ての白いアパートの前に立った。

 四階の右端のベランダに、西日に当たって七色に輝くビニル傘がぶら下がっていた。パルコは指をさして言った。

「あの部屋に行きます」

 ミフネが住むマンションのようなオートロックのある建物ではない。四階までそのまま階段を上がったら、パステルグリーンの玄関ドアが三部屋分あって、一番端の部屋だとすぐにわかった。ベルを鳴らし住人が出るのを待たずに、パルコはあいさつした。

「こんにちは! 桜井と言います! ベランダの雨傘を見て本を借りたいと思ってお邪魔しました!」

「おぉ……! 本好きだな! ちょっと待ってくれ……すぐ出るから」

 聞き覚えのない声はしわがれてるようだった。

 でも、その日の体調によって声の調子も変わることもあるのだろう。

 パルコは気にしない。

 ドアノブが回り、重そうなドアが開いた。

「いらっしゃい」

「…………」

 パルコの父親が出るはずだった。

 そのマンションの一室のドアの向こう側には、パルコがまったく知らない老年の男性が立っていただけだった。

 老年の男性は驚いた様子だった。滅多に子どもと触れ合う機会すらない日常を送っていたからだ。たまたま呼び鈴に出たら、思ってもいない人が出た、そんな感じだ。

「あ……」

 パルコは絶句した。それは閣下たちも同じだった。

 目の前に現れたのは、大きな体格の初老の外国人男性だった。流ちょうな言葉からして日本人だと思い込んでいた。パルコはショックだった。

 『シンクの卵』に書いても「本当に」ならないことがあるのだ。

 しかし、最も想定外の表情をしていたのは、スーツの大男のほうだった。

「そんな……まさか……? いや、そんなはずはない⁉︎」

 ヨハンセンはうろたえながらも、なんとか男に問いかけた。

「マ……マイ、ダディ……?」

 初老の大男は一番奥にいる大男に気づき、じっと見つめた。

 しばらく沈黙していた。

 パルコも閣下もアンテナもキキも、一体何が起こっているのかわからなかった。初老の大男の両手が震えていることに気がついたパルコは、彼の目に視線を移した。涙を浮かべているようだった。

「おおおおおっ! ……息子よっ!」

 四人をかき分けるように、(というか四人が突き飛ばされる前によけたのだが)初老の大男はヨハンセンに抱きついた。ヨハンセンも彼をがっちりと抱きしめている。

 そして、二人の膝は崩れ落ち、子どものように泣いた。

 アンテナがその光景を見て言った。

「こんなこと、ある?」

 閣下がポツリと返した。

「あるわけねえだろ」


 ヨハンセンは、彼が八歳の時に父親を亡くしていた。

 しかし、ヨハンセンの父親は本当は生きていた。

 アメリカ西海岸で漁師として漁業を営んでいた彼の父親は、ヨハンセンが幼い頃に多額の借金を抱えたまま嵐の海の中に消えた。翌日、船の残骸が離れた沖で発見され、遺体が上がらないまま死亡認定された。しかし、彼の父親は本当は生き延びていたのだ。生き別れた父と息子は、今日再会した。


 パルコが書いた『シンクの卵』通りになった。違うのは、それが自分じゃなかっただけだ。当事者はヨハンセンだった、それだけだ。

「違うんだ……こんなはずじゃなかったんだ……!」

「パルコ、一体どういうことなんだ? こんなはずじゃなかったって、じゃあどんなふうになるはずだったんだ?」

 閣下が言った。続けてアンテナも。

「パルコ、何か隠してない?」

 二人の抱き合う姿を見て、パルコは急に走り出した。

 こんなはずじゃなかった。逃げるように階段を降りて、田園沿いのナウシャインに向かってパルコは駆けた。

 予期しなかった親子の再会を横目に、他の三人もパルコを追いかけた。「再会できて良かったですね」という閣下の台詞を残して、その場を後にしたのだ。

 三人がナウシャインに戻った時、パルコは一人きりで自転車をこぎ始めていた。閣下もアンテナも、パルコの背中に向かって名前を呼んだ。パルコはペダルを強く踏みながら、その胸に覚悟を決めていた。

「もう一度……もう一度だけ、『世界を変えるための不必要の部屋』を訪れてみよう!」

 農水の入った田んぼが、西日に反射してウユニ湖のように光っていたが、もう夕闇がそこまで迫ってきていた。



 その日の夜、パルコはホチホチ灯の下にたたずんでいた。

 別に怖くない。ただ、大男とその父親が再会した光景を思い出すたび、悔しかった。

 『ブルーブラックの明かり』は来ない。だって、今夜廃工場に向かうだなんて、一言も言ってないのだから。

 パルコはすぐに自転車にまたがり、廃工場に向けて出発した。

 夜風が生温くてジメジメしていた。廃工場の近くの山道に着く頃には、汗でTシャツがグッショリしていた。ほとんど鉄骨だけ古看板の裏に自転車を停めて、パルコは歩き出した。砂利道の石と石が擦れ合う音だけが、静かな夜の小道に響いていた。

 ユニコーンの帽子の青年は、あの部屋にいるのだろうか? 彼が部屋から出られるよう促したのはパルコだった。部屋から出れるように本に書いたのだ。部屋を出たきり戻らないのだろうか? パルコは、彼が部屋にいることを祈った。


 仄暗い事務所の中の様子を見て、パルコは一気に気持ちが落ち込んでしまった。

「そうだった……」

 また長い廊下を越えて、作業用機械の墓場を乗り越えて、赤い絨毯の踊り場まで階段を駆け上がらなければならないと思い、パルコは気が滅入った。

「そうだ……そうだよ! 別にここから入らなくてもいいじゃないか!」

 パルコは、どうして今まで思いつかなかったのか不思議に思った。長い廊下を越えなくても、工場の裏手に回り、非常階段を登ってから入室すれば良かったのだ。

 急いで裏手に回り、ところどころ草が生えたアスファルトを駆け出した。すぐに廃工場の非常用階段がヘッドライトに照らされて、闇に浮かび上がった。恐る恐る静かに音を立てないように金属製の階段を上がっていく。金属製の階段を上がるたび、乾いた足音が廃工場の敷地に響いた。

 パルコは、ヌメッとした夜風にあてられて、宵闇に紛れている階段を見下ろした。ゴクリと生つばを飲み込んだ。足早に階段を登り、金属製のドアが開いている踊り場に到着した。

 以前も、この金属製のドアから出て、一目散に自転車が待つ古看板まで走って帰ったのだった。キィキィと、微風に揺れたドアから、かすかに擦れた音が鳴いている。

 忍び足で廊下に侵入し、すぐ近くの曲がり角で呼吸を整えた。

 そして、肩越しに例の部屋の様子を見る。

「…………」

 おかしい、とパルコは思った。

 いつもなら、暗闇にドアの隙間から灯火の光がこぼれているはずだった。

 ゆっくりとドアに近づいた。ドアの隙間は開いておらず、しっかりと閉められていた。それでも、パルコは耳をそばだてた。何の音も聞こえなかった。人の息づかいも、衣のすれる音も、足音も。誰もいないようだった。パルコはドアを開けようと取っ手をつかもうとして異変に気づいた。

「いつものドアノブじゃない……」

 それどころか、木製のドアでもなかった。

 金属製のドアノブを回して、そっとドアを開けた。

 ヘッドライトが照らし出したものは、タイルの床、破れた白いシーツ、散らばった木片、スプリングが飛び出ているベッド、壁際に割れたガラスケースとワインの空き瓶……。

 ここは、別の部屋だ。しかし、非常用階段の方を見ると、あの部屋があったのは確かにこのフロアだった。

 『世界を変えるための不必要の部屋』は消えていた……。

 パルコは急に怖くなって、後ずさりしてから逃げ出した。

 カンカンカンカンッと、乾いた金属音が廃工場の敷地いっぱいに広がった。

「ない……!」

 ユニコーンの帽子の青年はおろか、古い机も椅子もランプも、あの大きな本『シンクの卵』も。パルコは確信した。「もう二度と、あの部屋に出会うことはできない」そう思ったのだった。

「不平等だっ!」

 驚いたことにパルコは叫んでいた。自分でも驚いたくらいだ。

 それくらい、彼の心の底からの叫びだった。

「不平等じゃないか! どうして⁈ どうしてお父さんは死んでしまったんだっ!」


 パルコは、ギッギッと力の限りペダルを踏んでいた。全速力で風を切りながら、暗きょがある緑道を駆け抜けていた。思い出したくないのに、満面の笑顔で息子に話しかける父親の幻影が、パルコの脳裏に何度も現れて消えていく。父親と並んで座ったベンチが見えてきた。

 もっと速く、一瞬よりも短く走り抜けるために、パルコは強くペダルをこいだ。


 夜中のタコ公園に、少年の呼吸音が荒く浮かんでいた。

 肩を揺らして息急き切ったパルコは、公園内の一角にひっそりと立つ自販機を認めた。

 自販機の電光に照らされて、パルコはポケットから小銭を取り出した。いくらかの小銭と一緒に、古い銀貨がまぎれていた。死んだ父親から届いた手紙の中に、バースデーカードとともに入れられていたものだ。あれ以来、この古いマケドニア銀貨はパルコのお守りのようなものだった。

 震えた指で小銭を投入口に入れて、缶コーヒーの購入ボタンを押した。

 パルコは近くのベンチに座り、怒りに震えていた。

 缶コーヒーを一口飲んだ。涙が止まらなかった。一生懸命、大人になろうとした。それも出来なかった。ブラックコーヒーは相変わらず苦いし、つらいことや悲しいことも、いつまで経っても忘れることができやしない。いつまで経っても、お父さんに会いたくて会いたくてたまらない。夜中一人でトイレに行くのも怖いし、算数も苦手なままだ。

 パルコは、早く大人になりたかった。つらいことも悲しいことも、多分、大人になれば全然大丈夫のはずだから。そう、パルコは自分に言い聞かせていた。


 どうしてっ⁈ 

 どうして僕の見える世界は、こんなにも不平等なんだろう⁈

 

 声に出ない叫びが、パルコの胸の内を暴れていた。

 歯を食いしばりながらも、とめどなく溢れる涙を、パルコにはどうすることもできなかった。強く握った手の中にある一枚の古い銀貨、その質感がパルコの現実を守っていた。 遠くの方でカラスの声が聞こえる。パルコはハッとした。

 すぐ近くにキキが立っていた。


 

 まるで亡霊かと思うほど、彼女は暗闇にとけて現れた。

 申し訳なさそうに、キキは泣いている男子を見つめていた。

 びっくりしたパルコは直ぐに立ち上がり、手の甲で涙をぬぐい、その恥ずかしさから全力で彼女から逃げ出した。タコ公園はきらめいていた。

 公園内のあらゆる照明が乱反射して、瞳に映るすべての事象はキラキラ光っていた。ボヤけて潤んで、あらゆるものは濁って見えた。

 そう思った瞬間、パルコは盛大に地面にこけた。左足裏の感触から、石ころを踏んでバランスを崩したのがわかった。転倒して、もう何もかもやる気が失せてしまった。


 パルコはキキに身体を支えられて、ゆっくりと膝を折り曲げて立ち上がった。手の平の擦り傷がひどく痛んだ。二人は、公園の照明に照らされたベンチに座った。

「……ありがとう」

 パルコは情けないまま、ひねりだすように、感謝の言葉を彼女に述べた。

 それを受けた女の子は、パルコの耳元でささやこうとしたが、辺りに誰もいないことに気がついて、蚊の鳴くような声で、か細く言った。

「大丈夫? 痛い?」

「……うん。でも、大したことないよ」

 精一杯の強がりだった。パルコは、それが自分でもわかって、すぐに恥ずかしくなってうつむいた。涙の跡を、あわてて袖でふいた。

 キキはポケットからハンカチを取り出して、擦り傷がひどい方の手の平に、パルコが痛まないようにゆっくりと巻いた。

 パルコは、もう何も言えなかった。これ以上、何かを口に出してしまえば、自分で涙を我慢することができないからだ。歯を食いしばり、少年は泣くのをこらえていた。必死に、足元の敷き詰められたブロックとブロックの間にある隙間をにらんでいた。

 キキは黙ってパルコの隣りに座って、パルコの背中を優しくさすっている。

 パルコは下級生であるキキのことを妹のように思っていない。キキは本当は強くて優しくて、心の芯の強い女の子だって知っているからだ。

「銀貨、落ちてた」

 キキが拾った銀貨をパルコに渡した。

 パルコは、ハンカチが巻かれた手で、黙って受け取った。  

「あの部屋に入ったの?」

「うん。でも、なかったんだ。机もランプも本もなくて、まるで違う部屋だったんだ。本当なんだ」

「うん」

「僕……お父さんに会いたくて、だからまた『不必要の部屋』に行ったんだ……」

「うん」

「あそこでヨハンセンのお父さんが出ると思ってなかったんだ……。僕は自分のお父さんが出るはずだって思い込んでた」

「うん」

「だから、今度は僕のお父さんが出るように本に記そうと思ったんだ……!」

「……パルコのお父さんは死んじゃったよ?」

「……わかってるよ」

「ヨハンセンのお父さんは生きてたから現れたのよ」

「そんなこと……わからないじゃないか! 雨傘図書は現実になったんだ! 今回はたまたまヨハンセンのお父さんが出ただけかもしれない。別の場所ではお父さんが現れるかもしれない! もう一度『シンクの卵』に詳しく書けば、今度は必ず現実になるよ!」

「パルコ……」

「何でそんな顔するんだよ。お父さんに会っちゃいけないって言うのか? 僕は……」

「ううん、そうじゃないの。パルコ、お父さんに会いたいよね。ずっと会いたかったよね。でも、大事な人を失った人はパルコだけじゃないよ?」

「…………」

 それはそうだ。そんなこと、とっくの昔にわかってる。

 閣下だって同じように大事な人を失っている。キキだって。僕らだけじゃない、僕の知らないたくさんの誰かにだって、きっと同じような境遇にある人はいるはずだ。

「あの本が、昔から色んな人によって書かれてきたなら、死んだ人を生き返らせたり、誰も死なない世界をつくることもできたはずだよ?」

「…………」

「今がそういう世界じゃないってことは、きっと……誰かが死ぬことは大切なことってことなんだわ」

 キキは凛として言った。

 頭を殴られたようだった。それは衝撃的なことだった。

 こいつ大人なんだって、パルコは思った。キキがハンカチで巻いてくれた手が、熱くジンジンと痛んでいた。



「僕、みんなに黙ってたことがあるんだ」

 クライミングネットの屋上で、四人は端の丸太に立って、手すりの代わりのサイドロープにつかまりバランスを取っていた。

「虹色の傘のことだろ?」

 閣下が言った。

「うん……。雨傘図書を利用した日の夜、僕……また廃工場に行ったんだ。で、また本に書いたんだ。お父さんは実は生きていて……虹色に輝く傘がぶら下がる部屋にいるって」

「フタを開けりゃヨハンセンの親父だったってオチか」

「ごめん……」

「何で謝るんだ。誰だって、大切な人が死んでしまったら会いたくなるもんだろ?」

 閣下は優しく言った。

「それより、ちゃんと秘密は忘れずに共有してよね」

 アンテナが付け足した。

「ほんとう、ごめん」

 キキがすかさず耳打ちして、パルコが代弁する。

「勝手に突っ走らないで……」

 パルコは苦笑して皆んなと目を合わした。

 閣下もアンテナもキキも笑った。 

 パルコは、ユニコーンの帽子の青年を解放したこと、昨日の廃工場で起きたことをすべて話した。

 アンテナが目をキョトンとさせて言った。

「……ってことは、そのユニコーンの帽子の人は、パルコが一人であの部屋に来るのを待ってたってこと?」

「うん。僕が部屋に来る時だけ、その人は存在するって、確かに言ったんだ」

「これではっきりした! そいつはパルコの親父さんが『シンクの卵』に書いた登場人物だったんだ!」

 閣下が思いついた顔で、前のめりにロープにつかまりながら言った

「え⁈」

 アンテナがすっとんきょうの声で驚いた。

「だって考えてもみろよ? お前一人だけで工場に侵入して部屋に入らなきゃ帽子の男が現れないなんてさ、まるでゲームの条件じゃん。帽子の男は、書かれて出来上がった架空の人物なんだ。親父さんがあらかじめ本の中に記してたんだ……お前と帽子の男を出会わせるために!」

 アンテナはそれを聞いて何か考えている。構わずパルコが話す。

「僕、ずっと考えてたんだ……。もしそうだとしたら、お父さんはどうして『不必要の部屋』のありかを僕に教えたのかを。あの部屋で、世界を変えなきゃいけないことが、きっとあるんだと思う」

 アンテナが口を開いた。

「ちょっと待ってよ。パルコが一人で行かなきゃ帽子の人が現れないでしょ? でも昨日行ったら部屋にたどり着けなかった。それはパルコが帽子の人を解放しちゃったわけで……でさ、つまり帽子の人が部屋にいなきゃ、あの部屋はパルコが一人きりで訪れても現れないってことだよね?」

「……」(一同沈黙)

 キキがパルコに耳打ちした。

「アタシもわかっちゃった……何が?」

 キキが構わず耳元で話し続け、それを代弁するパルコ。

「大切なものが無くなるルール……虹色傘を書いた時、何も無くなってないじゃんて思ってたら、ユニコーンが無くなったわけね。それってパルコにとって大切だったんだね」

「……」(一同沈黙)



 今日の授業は午前中で終わりだった。それは夏休みが近いことを意味していた。

 その日の午後、『ブルーブラックの明かり』は純喫茶ナウシャインに集合することになっていた。

 店内の一番奥のテーブルには、冷たいバナナミルクジュースの入ったグラスが置かれている。アンテナがとろけそうな顔をして味わっている。

 ヨハンセンがパルコに告げた。

「試験は合格だ。君に会いにきて正解だった。君は私に感動を与えてくれた」

 パルコは赤くなった。そして、正直に言った。

「いいえ、本当は僕……自分のお父さんに会えるんだと思ってました。『シンクの卵』の本に書いたんだ。虹色の雨傘をベランダにぶら下げている部屋にお父さんがいるって。

 あの日、喫茶店から偶然アパートの雨傘を見たんだ。あれは虹色だって……お父さんと会えるんだって。お父さんと会ったことがないあなたを驚かせることができると思って」

「君の気持ちはよくわかる。家族を失うことは、時に人生を変えてしまうほどの喪失感を生む。君の心の中には他人には計り知れないものがある。それが例え、誰かが同じ境遇を背負っていたとしても、その人の絶望はその人自身にしかわからないのだよ。その人の絶望は、その人自身のものとも言える」

 ヨハンセンは続けた。

「それでも、私は希望を見れた。日本に来て、一体誰が死んだはずの父親に会えると思うのか、こんな結末は誰も思わなかっただろう。君は間違いなく私を感動させた。『世界を変えるための不必要の部屋』を扱う者は、この行為が必要なのだ。わかるかね? 大団円だよ」

 その時、ベルが鳴って、純喫茶ナウシャインのドアが開いた。入り口から現れたのはファーブルだった。

 ポニーテールの女性に先導されてファーブルがテーブルについた。

「遅いぞファーブル」

 閣下が言った。

 ヨハンセンの前では、秘密のアダ名は言っても良いことになっている。それは、彼が自分自身の秘密を少年たちと分かち合っているためだ。

 同じように、パルコたち五人は『ブルーブラックの明かり』という秘密組織が、あの日結成されたことをヨハンセンに明かした。それはファーブルの提案だった。パルコの父親と唯一の友達であるヨハンセンには、情報を共有しておいた方が都合が良いと思ったからだった。それにヨハンセンは、彼らの良き友人だった。

「仕方ないじゃん、オレだけここの場所を知らないんだから」

 ファーブルが口を尖らせて言った。

 ヨハンセンが冷たい飲み物をファーブルのために注文してくれた。二人は初対面なのだ。

 ファーブルは緊張して、どもりながらも、流ちょうな英語で自己紹介を始めた。四人とも驚いて顔を見合わせた。ファーブルはヨハンセンに自ら握手を求め、ヨハンセンが出演する映画のファンであることを公言した。

 キキがパルコに耳打ちして「すごいね!」と言っている。パルコは少しムッとしたが、同時にファーブルがその目にカッコ良く映った。

「これで間違いなく『ブルーブラックの明かり』のフルメンバーがそろったということだな。なんて素晴らしいのだ!」

「おじさん、ちゃんと秘密にしといてよね」

 アンテナが念を押した。

「もちろんだとも! 安心したまえ。本に書いたことが事実になると、誰が本気に思うのだ? しかし注意しなければいけないことはある。それを今から君たちに話そう」

 ヨハンセンはパルコの目を見つめて言った。

「パルコ、君のお父さんが書いた物語は君に引き継がれた。いや、君だけではない……『ブルーブラックの明かり』に引き継がれたのだ。正確に言うと、著者だった者の次に書いた者が引き継ぐことになっている。幸か不幸か……あの夜『不必要の部屋』に入って本に記したのは君たち五人だ。その時から、著者の権利は君たちに委ねられているのだ!」

 一同に緊張が走った。

「君たちは『不必要の部屋』に入室することが許される。そしてパルコの父親である桜井秋が書いた物語の続きを書かなければならないのだ」

「物語の続きを……書く? 僕らが? どうして?」

 パルコは、今度こそ父親の秘密を暴こうと決めていた。

「それは『シンクの卵』を引き継いだからだ。誰でもいいってわけじゃない」

「父は……一体何をしようとしていたんですか?」



 店内は一番奥のテーブル以外、もう誰もいなかった。

 ポニーテールの女性が、冷たいバナナミルクを持ってきた。ビールのように泡立っている冷たく甘いバナナミルクだ。それをファーブルの目の前に置いて、さっさと立ち去った。

「『シンクの卵』は大昔からあったとされている本だ。そこに書かれている一つの物語は、時代に選ばれた時の作家たちによって書き連ねられた。それが現実になっているのだ」

 ユニコーンの帽子の青年も同じことを言っていた。彼は、『シンクの卵』は地球が滅ぶ物語なんだと言っていた……パルコは黙っていた。

「私は話の内容は知らないが、親交ある秘密の作家たちの噂話しによれば、桜井秋という一人の偉大な作家が、その一つの物語に終止符をつけようとしている、ということだ」

「お父さんが偉大な作家だって⁈ 自分のことを三流作家だって言ってたけど……」

 パルコがびっくりして言った。

「ま、売れてねえしな」

 と閣下が付け足して、それを聞いたパルコがムッとした。

「フフフ……すべての偉大なる作家が有名人で売れているわけではない。わかるかい? 立派な人間すべてが人生の成功者になるわけではない、それと同じことだよ。私の俳優業だって、たった少しの運があったおかげで、他の俳優と大きな違いはないのだよ」

「僕らが……父の話の続きを書いて物語を終わらせる?」

「そうだ。どんな物語なのか私にはわからないがね。けれど大丈夫、私や君たちの味方がいつも見守っているから」

「味方……? 秘密のことなのに?」

 ファーブルが言った。

「ファーブル、君は察しがいいな。その通りだ。私が言う味方というのは、桜井が引き継ぐ者のために用意した人たちのことを言っている」

 パルコの頭の中に一人の顔が浮かんだ。

「お父さんは僕に、本の物語を終わらせようとしていたの? 小学生なのに?」

「物語を書くに値する者であれば、小学生だろうが大人だろうが関係ないさ。桜井は、例え君が物語を継がなかったとしても、次の人間に渡せるような仕組みを作っていたはずだ。あるいは、元々そういう仕組みなのかもしれないが」

「…………」

「しかしパルコ、君は見事に試験を突破した。私を感動させるには、シンクの卵を使用する以外に方法はなかったはずだからね。本のそばには君の味方がいたはずだ。そう、本のガイドがいたはずだ。これからやることは彼に聞くといい」

 『ブルーブラックの明かり』はそれを聞いて固まった。

 そして、メンバー全員が気まずそうにパルコに目線を送った。五人の雰囲気が妙なことに、ヨハンセンは不思議がった。

「んん?」

 四人は苦笑いをするしかなく、パルコの発言を待っていた。

 パルコは、あの夜に彼を逃してしまったことをひどく後悔した。「どっか行っちゃったよ」と言うより前に、キキがパルコに耳打ちした。

「ワロタ……」

 パルコが代弁し、テーブルに静寂が流れた。



 今日も「純喫茶ナウシャイン」の一番奥のテーブル席に『ブルーブラックの明かり』のメンバーが集まっていた。土曜日の朝、開店時間と同時に店に入ったのだった。常連客がチラホラいる。ポニーテールの女性はにこやかに注文を取っている。

 アンテナがあくびをして、つられてパルコとキキもあくびをした。

 ヨハンセンは黄色地でヤシの木をモチーフにしたアロハシャツを着て現れた。

 キキがパルコに耳打ちする。

「急にラフな格好だな」

 パルコが気だるそうに代弁した。

「やあ、朝早くから集まってもらって悪いね。君らはもうすぐ夏休みだろう? 休みに入る前に伝えておこうと思ってね」

「僕ら基本的に暇だなあ」

 アンテナが言う。誰も否定はしない。

「僕らは一体誰と交渉しなきゃいけないんですか?」

 パルコはすぐに本題を聞いた。好奇心を抑えきれなかった。

「『シンクの卵』に書き連ねられている住人たちさ。君が解放した青年も、本の住人だろう。君は本当にたまげたことをやるんだね、まったく笑っちゃうよ」

「……」

 パルコは下を向いた。

「まあ、頑張って探してみるといい。いずれ彼と交渉しなければならないだろう。良き交渉をね」

「え? 交渉……?」

 今まで何度かヨハンセンから「交渉」が大切だということを教わってきた。それによると、話し合いに参加している全員が満足いくように歩み寄ること、これが良き交渉らしい。

 それを自分たちだけでできるのかパルコは不安だった。これまでどこか他人事の気がしていた。交渉というものが、大人がやる面倒くさいことの一つだと思い込んでいたからだ。

 ヨハンセンは、そんなパルコを見通してか、話し出した。

「本のガイドといえど、本の住人として役目を果たさなければ物語はちっとも進まない。会って説得して本の中に戻ってもらうべきさ」

「はい……」

「それに、本のガイドは決して嘘はつけないと言われている。連綿と続く本を引き継ぐ著者を導く存在だからね。だから、話し合いのテーブルについてもらわなきゃならない。交渉を難しいことだと思っているようだが、話すべきことを話すのが肝心だ」

「そんなこと言われてもなあ……」

 パルコは口ごもった。

「そんな簡単に話し合いのテーブルにつくかなあ」

 アンテナがつぶやいた。

「本の住人はテーブルにつかなければならないのだよ。そして、それは逃れられない行為なのだ。これは……君たちが知らない時代から始まり、その古くから続いているルールなのだよ」

 メンバー一同は、キョトンとしてヨハンセンを見つめた。

「やり方があるんだ、こうだ」

 ヨハンセンはそう言って、真向かいに座るアンテナを交渉相手に見立てた。

「目と目を合わせてから、こう言うのだ。『テーブルにつけ』と」

 アンテナは一瞬ビクッとしてたじろいだ。

「はあっ? それで相手がテーブルに座るっての?」

 閣下が早口で質問した。

「そうだ。本の住人は、それでテーブルにつくのを拒めないのだ。ただし、その場にテーブルと椅子があればの話だ。なければ成功率は半減する。交渉する当事者間でゆっくり話し合う環境が重要で、必要なのだ」

「ほんとかよ?」

 閣下はまだ反論したそうだったが、ヨハンセンの真剣なまなざしにひるんだようで、それ以上何も言わなかった。秘密メンバーはお互いの顔を見合わせた。

 ファーブルが口を開いた。

「何にしろ、まず、ユニコーンの帽子の青年を見つけなきゃな」

 パルコはため息をついた。




 異変に気づいたのは朝だった。

 眠たい目をこすりながら、パルコは朝食をとるために階下に降りた。キッチンから、溶いた卵をフライパンに流す音が聞こえてくる。それをBGMにして、パルコは居間の白い布張りのソファに、パジャマ着のまま寝転んだ。

 続いて、寝っ転がりながら壁掛けカレンダーを確認する。なぜかというと、国内の記念日という記念日がすべて載っているからだ。特に意味はないが、今日は何の日が制定されているか、確認するのをパルコは日課にしていた。

 ところが、今見ているカレンダーは、いつも見ているカレンダーとは違っていた。「いつの間に新しいものと変えたのだろう?」と思ったが、いつもと同じ記念日カレンダーには違いなかった。

「何かが違う……」

 パルコは一気に眠気が吹き飛んだ。そして、キッチンにいる母親に大声で言った。

「お母さんっ、このカレンダーおかしいよ! いつものカレンダーじゃない!」

 ソファに張りついてカレンダーを凝視するパルコに、キッチンから声だけが返ってきた。

「それはそれは不思議なことですわね。さきほど私が見たところ、いつもと変わりはない様子でござんしたが」

 母親がいつものように茶化して言ってきた。

「そうかなあ……どこかが違うんだけどな。どこだ?」

「カレンダー氏が変わったのではなくて、あなた様がお変わりになったのではなくて? 申し訳ないのですが、二人分のコップを用意してもらい、冷蔵庫から、牛のお乳から絞った白い液体を入れた紙パックを出してコップに注いでもらってもよろしいでしょうか?」

「んもう……しょうがないなあ……」

 パルコが面倒くさそうに言った時だった。

「わかったぞ! このカレンダー一週間が一日多いんだ! 一週間が七日間から八日間になってるよ! ねえっ聞いてる?」

 パルコは再びカレンダーに目をやった。

 

 月曜日

 火曜日

 水曜日

 木曜日

 典曜日

 金曜日

 土曜日

 日曜日


「…………」

 典曜日? 木曜日と金曜日の間に見なれない曜日が入ってる。

 ……典曜日? 辞典のテン? テン曜日と読むのだろうか? こんなことってあるのだろうか? 一週間が一日多くなっている。

 パルコは大声で母親に向かって言った。

「いつの間にこんなイタズラしたのさ? どこで同じようなカレンダーを買ったの? 木曜日と金曜日の間に、変な曜日が入ってるよ。テン曜日って読むの?」

 キッチンから聞こえたジューシーな音は鳴り止み、今度は母親が現れた。

「ハル、本当に頭がすげ変わっちゃったの?」



 放課後、『ブルーブラックの明かり』はファーブルが出没するタコ公園にいた。

 タコの七本目と八本目の脚の間には、ドーム状の空間が設けられており、子どもならギリギリ五人入れるだろう。その中の斜め穴から、するりと抜けてファーブルが現れた。

 議題はもちろん、典曜日に関してだ。

「オレら以外、典曜日があることは当たり前って認識だな。昨日まで一週間は七日間だったんだぜ? なのに、朝になってみれば一週間が八日間になってる!」

 閣下が、少し怒り口調で言った。ついでファーブルが言った。

「世界が変わったんだ」

 ファーブルは、肩をすくめてパルコに目配せした。

「僕じゃないよ! 廃工場には、もうあの部屋は存在してないって言ったろ⁈」

 パルコが焦りながら話した。

「ほんとなんだ。この前、パルコとアンテナで夜に行って確かめてきたんだ」

 閣下が言った。

「誰かが改ざんしてる」

 ファーブルが早口で続けて話す。

「いきなり一週間が八日間になったんだぜ? 面白いを通り越して怒れてくるよ! 面白半分で今まであった世界を変えるんじゃないよ!」

「改ざんって?」

 アンテナが言った。

「改ざんっていうのは、本来のそうあるべきものが、変更されてしまうことなんだ」

 アンテナのためにファーブルが丁寧に説明する。こういうことは親切だ。

「一体誰がそんなことできるんだよ?」

 アンテナが返す。

「ユニコーンの帽子の人」

 ファーブルが決まってるね、という顔で断言した。さらに付け加える。

「きっと……『シンクの卵』を持ち出したんだ」

 パルコは黙っていた。

 ユニコーンの帽子の青年がそんなことをするとは思えなかった。

 『不必要の部屋』でランプに照らされた彼の顔がフラッシュバックする。彼は優しく微笑んで、優しく語りかける存在だった。同時に、彼はパルコにとって父親の秘密をつなぐ人物でもあるのだ。

 キキがパルコに耳打ちした。

「僕も賛成だ」

 そうキキに言ってから、今度はみんなに向けてパルコが言う。

「ユニコーンの帽子の青年を捜そう」

 みんな、力強くうなずいた。

 東の空に大きな入道雲がそびえていた。来週から夏休みに入る。パルコは、今までの夏休みとは違い、何か特別でワクワクするようなことが起きるに違いないと確信していた。


 夏休みが始まって四日目のことだった。

 『ブルーブラックの明かり』はユニコーンの帽子の青年を追って、市内をしらみつぶしに捜していた。今日も炎天下の午後を耐えきれずに、メンバーは店内で涼んでいた。

 いまや「純喫茶ナウシャイン」は彼らのたまり場でもあり、重大な会議が開かれる場所でもあった。

 夏休み日誌の問題を解きながらアンテナが言った。

「ユニコーンの帽子の青年は、どうして一週間を八日間にしたのかな?」

 まだ彼が犯人って決まったわけじゃないのになあ、と思いながらパルコも日誌を開いた。

「まだそいつが世界を書き換えたって決まったわけじゃないぜ? 物事を最初から決めつけるのは視野が狭いぞ」

 閣下がたしなめた。さすが閣下だ、とパルコは思った。

「確かにそうだ。一体なぜだろう?」

 ファーブルが言った。

「僕だったら週休三日にして、三日間ゲーム三昧になっちゃうかもね」

 アンテナが笑って言う。

 その時、シュワシュワと小気味よい音を立てて、テーブルに氷入りのグラスが差し出された。レモンスカッシュにコーラにメロンソーダ、アップルタイザーにゆずソーダ水が炭酸の音でオーケストラしている。全員の歓声が沸いた。

 ポニーテールの女性は「今日はおごりよ」といってウインクした。「今日は」と言いながら、ほぼ毎日おごってもらっている。さすがに悪いと思ったのか、閣下が言った。

「お姉さん、オレらだってこれくらい払えるよ? いつもごちそうしてもらったら、こっちも来づらくなっちゃうって」

「あら、一丁前の男子がいるのねえ、フフフ。内緒にしといてって言われてるんだけど、本当は私のおごりじゃないの。あなたたちが夏休み中、毎日ここに来て過ごしてもいいくらいのコーヒー代をもう頂いてるのよ。あっ、ちょうど来たわよ! 私が言ったこと内緒にしといてね」

 ポニーテールの女性が去ると、決まってヨハンセンが顔を出しに来る。

「おっさんが立て替えてくれてたんだな……」

 閣下はみんなの顔をにらんで、内緒にしとくよう合図を送った。おっさんの顔を立てようってわけだ。

「私は明日にでも自国に戻るつもりだ」

「えっ」

 みんなの声がそろった。

「だが心配するなよ、仕事が落ち着いたらダディを迎えにまた来る予定なのだ。大丈夫さ、帽子の青年の探索を続けるんだ。きっとうまくいくさ」

 急にメンバー全員が落胆してしまった。秘密を話せる唯一の大人の友人は、ヨハンセンだけだったからだ。

「スポンサーが……」

 アンテナが小声でポツリと言い、閣下が肘で小突いた。

「そんな顔をするなよ。私は本当に嬉しかった。この国に来て心から良かったと思っている。私は、君たちと友達になれたことを誇りに思う」

 ヨハンセンはニッコリと笑い、ウインクした。

 爽やかな笑顔を残して、ヨハンセンは行ってしまった。

 もう、助言を求めることができる大人はいない。彼の帰り際、パルコはこんなことを言われた。

「もし君が著者を降りるような時が来るならば、真っ先に私に知らせてくれ」

 物語を引き継ぐ気なのだろう。

 肩を落としてがっかりしているところを閣下が提案した。

「今日から会議名を『ユニコーンの審議会』と呼ぶよう決定してよいか。そして必ず帽子の男を捜し出そう!」

 満場一致で決まり、この日は解散した。

 ……と思われた。



 ユニコーンの帽子の青年は、「あすなろ書店」で立ち読みしていた。

 純喫茶ナウシャインの帰り道にある本屋を通りがかった時だった。パルコがヴァーミリオンの帽子をウインドウ越しに発見したのだった。

 五人は相談して、まずパルコが声をかけて様子を見ることにした。で、ヨハンセンが言っていた「本のルール」を試してみる。それで逃げられたら、外で待ちぶせているメンバーが追跡して、青年のアジトを突き止める作戦だ。

 パルコは五人にアイコンタクトを送り、書店の自動ドアをくぐった。

 青年は地理学や環境学、歴史文化などをテーマとする海外の雑誌を熟読していた。黄色の表紙が特徴的で、綺麗な写真や絵を多用しているので、パルコもたまに読むことがあった。

 パルコは、今まで必死に彼を捜索していたのがバカみたいに思えてきて、メンバーに申し訳ないようなホッとしたような、なんとも言えない気持ちのまま声をかけた。

「あのう……僕のこと覚えてますか?」

「……ああっ君か! ずいぶんと優しく声をかけるんだね」

 ユニコーンの帽子の青年は雑誌を閉じて本棚に戻し、まるでこの日を待っていたかのように少年へと向き合った。

「僕、あなたを捜してました」

 二人の視線が合った。言うなら今だ、とパルコは思った。

「テーブルにつけ」

 青年が想定外の驚きの顔を見せたと同時に、不思議なことに周りの風景が無くなった。

 二人は闇の中にいた。

 二人きり……二人ぼっちと言った方がいいだろう。青年とパルコは別次元の中にいると思われた。それはたった一瞬のことだった。

 周りは元の場所、あすなろ書店だ。一瞬何が起きたかわからないが、先に口を開いたのは青年のほうだった。

「驚いたよ。まさか君に教えてないのに『本のルール』の先手を打たれるなんて。君には助言者がいるんだね? それとも、手帳に書いてあるのかな?」

 そうなのか? 本来ならば『本のルール』を教えてくれる役を持つ者は、本のガイドなのか! パルコはヨハンセンに感謝した。

「『シンクの卵』のことだろう? わかるよ。でも残念だ、ボクは本のガイドをやめたんだ。君が『シンクの卵』から解放してくれたじゃないか」

「それはそうなんだけど……僕は父のやろうとしていたことを知りたいんだ。あなたに本の役目があるなら、僕に教えてほしいんだけど」

「うん、君は優しいしボクと似ているし、きっと仲良くできると思うんだ。けれど、ボクはそれに対して抗いたいと思ってしまっているんだ。どういうことかわかる?」

「……わかりません」

「うん。ボクは『シンクの卵』を引き継ぐ著者のために、今まで本の中に留まっていたんだ。それはわかるだろう? 後衛の者のためにボクは役目を与えられ、それを遂行するよう生命を吹き込まれたと言っても良い。わかるかな?」

「うん。だから、あなたは僕に『シンクの卵』を説明する義務がある」

「その通り。しかし君は、その義務からボクを解放するルートを創り出してくれたんだ! とても僕じゃ思いつかない発想でね!」

「そんなつもりであなたを本の中から出したんじゃないよ。ただ……」

「ただ? ……ボクに同情したのかな? ボクが哀しい存在だと思っていたのかな?」

「ちっ違うよ! 違うと思うけど……僕、そんなに深く考えてなかったんだ。あの時、ちょっと思いついただけなんだ……」

 パルコは不安になってきた。ヨハンセンが言っていた、テーブルと椅子があり、ゆっくり話す環境が重要だと言うことが頭をもたげてきた。それもそのはず、書店にいるのは僕らだけじゃなく、他のお客さんもいるのだ。僕らの話はつつぬけだ。

 少し離れた場所で、ファーブルが心配そうにチラチラ見ている。読むつもりもない「ゲーム通信」を盾にして。

 青年はパルコの目線先を急に振りかぶり、ファーブルに目を合わせた。慌ててファーブルが雑誌で顔を隠した。

「ふふ……」

 ユニコーンの帽子の青年は、帽子を深くかぶり直した。そしてツバの影から地球の眼を覗かせて、パルコの眼をじっと見た。

 パルコはゾッとした。それでも、パルコは青年の顔を背けようとしなかった。

 眼は「魂の窓」と呼ばれる。魂と魂が炎の揺らめきのように二人の間をそば立てた。

「ボクも思いついただけさ。もし本のガイドがその役目を果たさずに『シンクの卵』を使うことができたのなら……コレに振り回される連中はどんな顔するんだろう、ってね」

「あなたは本に書くことが出来ないって言っていたけど……?」

「君のおかげなんだよ。ボクは、もっともっとこの世界で勉強したいんだ。君が解放してくれたおかげでね、こんなにも可能性があることを知ったんだよ! パルコ、そう……パルコのおかげだ。だからボクも、パルコのためにこんな可能性もあるってことを君に示してあげたいんだ」

「そっ、そんなのはいいよ! 僕は、僕のお父さんのことを知りたいんだ!」

 声を荒げたパルコに気付いて、書店員がこちらを見にきた。パルコは書店員に目を取られ、青年から目を離してしまった。再び青年の顔に注目した時は、帽子のツバが視線をさえぎった。

「つまんないな」

 ユニコーンの帽子の青年は、冷淡にパルコに言い放ち、パルコの横を通り過ぎた。

「まっ、待ってよ!」

 青年はあすなろ書店の入り口をするりと抜けて、流れるように階段のポーチを降りた。それをパルコが急いで追った。

「典曜日を作ったのは……君なの⁈」

 パルコはなかば叫んだように、青年の背中に向けてその疑問を投げ打った。

 青年はくるりと向き直り、パルコに言った。

「ボクじゃない。君の言う通り、ボクは本に書くことができないんだ」

 それからまた向き直り、青年はかっ歩し始めた。

 あすなろ書店の出入り口で青年を見送ったパルコは、彼の歩く先にある十字路の交差点で、閣下が自転車にまたいで待ち伏せしているのを確認した。さらに、その先の歩道橋の上にはアンテナが控えていた。キキは青年の進行方向とは逆の交差点にいた。今、赤信号から青信号になったので、パルコと合流するため横断歩道を渡り始めている。

 パルコは彼が言った言葉を反すうした。

「もし本のガイドがその役目を果たさずに『シンクの卵』を使うことができたのなら……コレに振り回される連中はどんな顔するんだろう……」

 まるで楽しむかのような物言いだとパルコは思った。父親から送られてきた手紙から、確かに変な物語が始まったが……。

「でも振り回されてばっかりだ……」

 そこに駆けつけたファーブルが来て言った。

「プランBだな」

 パルコは、また一つため息をはいて自転車にまたがった。

「うん、阻止しなきゃ」



 歩道橋の欄干にほお杖をついて、歩く青年を見ていたアンテナはハッとした。

 ユニコーンの帽子の青年と目が合った気がしたのだ。

 アンテナはあわてて目をそらした。そして、『ブルーブラックの明かり』の一員だと知られてしまったかもしれない、そう思った。

 まもなく帽子を被った青年が、閣下のいる交差点に差し掛かり、赤信号で止まっているフリをしている閣下の横に並んだ。閣下は一〇〇メートルほど離れた歩道橋の上に立っているアンテナを見つめていた。アンテナは慌てて移動しようとしている。

「あの子もパルコの友達かい?」

 一瞬、閣下は何が起こったのか理解出来なかった。

 会ったことのない人に(隣にいる人がユニコーンの帽子の青年だと知っているが)、いきなり信号待ちで声をかけられたのだ。閣下は横目で青年を見た。

「すると、『ブルーブラックの明かり』なわけだ」

 しまったと思った。ユニコーンの帽子の青年が言ったことを真に受けて、自分の顔に驚きの表情を出してしまった。閣下の表情を読み取った青年は、それで確信したのかもしれなかった。「歩道橋の小学生も信号待ちの小学生もメンバー」だということを。

「パルコに追われてるんでね、失敬させてもらうよ」

「本の中に戻ってくれないとパルコが困るんだ」

 声がうわずっていたがメンバーの年長者として止めなければならないと、閣下は思っていた。信号が青になる。

「ボクもワクワクしたいんだ。捕まえてごらん」

 そう言って、途端に青年は笑みを浮かべて走り出した。

「あっ!」

 閣下も、背後から自転車で走るパルコとファーブルも声を上げた。

「待てっ」

 閣下が全力で追いかける。

 青年は近くのショッピングモールの自動ドアを抜けて、館内のエスカレーターに乗って階上へと駆け抜けた。後に続いて閣下が人並みをすりぬけながら追う。

 二階の『ファンシー・おもちゃ・婦人服』の電光版を確認し、婦人服売り場へ駆け込む青年の人影が閣下の目に映った。

「真介くん!」

 コホンと咳をして閣下に近づく姿があった。マーヤ先生だった。

「ああ……こんな時に」

 閣下は落胆したが、ユニコーンの帽子の青年はとうに消えていた。

 真介くん、こと閣下は観念して、ニコニコしている女性教員に向き直った。

「そんなに急いでどちらへお買い物?」

「あーと……」


 立体駐車場につながる連絡通路の手前に、ショッピングの喧騒から離れた自販機がある。

 隅のベンチに四人が腰かけて炭酸飲料を飲んでいる。

「あと少しだったのになあ」

 閣下が飲み干して、またその文句をこぼした。

「このモールに住んでたりして」

 アンテナが笑いながら言った。

「夜まで館内のどっかに隠れて確かめようか?」

 パルコも笑いながら返す。

「さっきの女の先生、きれいな先生だったな」

 ファーブルが言う。

「でしょ。パルコの担任の先生。でも彼女、きれい系というより、かわいい系でしょ」

 アンテナが自慢げに応える。

 ショッピングモール中を走り回り、皆んなクタクタだった。

「……さっき言ってた本のルール、ほんとに話を聞いてくれるんだな」

 閣下が言った。

「うん、でも、やっぱりテーブルがないと……。本屋で、あの人に聞いたんだ。典曜日を作ったのは自分じゃないって言ってた……」

「マジか……」

「それに前も部屋で言ってたんだ。自分じゃ『シンクの卵』に書くことが出来ないって」

「アイツが書けないとしても、誰かに書かせることは出来るかもしれないだろ?」

 サラッとファーブルは言った。

 キキがトイレから戻ってきた。大人と一緒だった。

「あらあら、皆さん久しぶりねえ! こんにちは、また会えて嬉しいわ」

 キキと一緒にいるのはミフネだった。

 偶然にも、入ったトイレでばったり出会ったという。コサージュの入ったペールブルーのハットと同じ色の洋服といういでたち。上品な婦人といえるだろう。

 ファーブルは彼女に会うのは初めてだった。彼は丁寧におじぎして、あいさつした。ミフネはファーブルを一目で気に入ったようだった。

「皆さん、お氷でもどうかしら? 勝手にごちそうしたら、家の人に怒られてしまうかしらね?」

「お氷だって」

 アンテナがほくそ笑んだ。

 ミフネは、もうごちそうする気マンマンだけど、心配して一応言ってみているだけなのだ。あわよくば、この後も自宅で手料理を振る舞いたい、とも思っちゃっているのだろう。パルコとアンテナは顔を見合わせて吹き出しそうだった。

 『ブルーブラックの明かり』は見知っている婦人だけに断る理由もなく、突然現れたスポンサーに大喜びでついていくことにした。

 ただし、自宅に招かれて、腹がはち切れんばかりにごちそうされることだけは勘弁願いたい、と閣下とパルコは目で合図した。


 フードコートをすり抜けて、老舗の抹茶屋さんに入ったミフネから、抹茶アイスとほうじ茶アイスと柔らかい白玉を乗せたかき氷が振る舞われた。

「なんて美味いんだ!」

 珍しくファーブルがうなっていた。

 素直な反応に、皆んな面白がって真似し出した。

「なんという美味さだ!」

「至上の極みだ!」

「なんて日だ!」

「皆んなオーバーねえ、ふふふふ」

 とミフネが笑って喜び、キキがつられてケタケタ笑っている。

「キキちゃんいいわねえ、いつも面白いお友達と一緒に遊んでて」

 その時だった、濃い緑色の暖簾の向こうに、ヴァーミリオンの帽子を被った人影が通るのをキキが見た。キキは、すぐさまミフネに耳打ちして、それを彼女はおうむ返しした。

「なんて日だ」



 キキが深緑の暖簾を分けて、偵察から戻ってきた。すぐさまパルコに耳打ちする。

「フードコートのテーブル席に座ってるって……!」

「アイツ、まだモール内をうろついてたんだな!」

 閣下がいきり立った。

「僕たちがモール内にいるってことを忘れちゃってるのかな」

 アンテナが不思議に思った。

「裏をかいたんだろ」

 アンテナにファーブルが言った。

「多分……本当に楽しんでるんだよ」

 パルコが言った。

 本から出て面白がっているのだ。僕らがいようがいまいが、彼は今を楽しんでるんだ。そうに違いないと、パルコは思った。

 ミフネがワクワクしながらキキに聞いた。

「一体何が始まるのキキちゃん?」

 キキは、少し考えてからミフネに耳打ちした。

「え? ユニコーンの帽子を被った人と目を合わせるゲームをしてる?」

 うまいこと言うね、とパルコは思った。

「私以外、四人とも顔が割れてる? フンフン……ダメねえ、男子はオホホホ……いいですとも、いいですとも。私もキキちゃんに手伝うわ!」

「…………」

 男子四人は無言で二人のやりとりを聞いていた。アンテナがポツリと言った。

「キキってアグレッシブだね……」

 この作戦は本人が自ら提案した。誰も発想すらしなかった。大人を巻き込むこの盲点を突いた策は見事だが、当人以外のメンバーは多分に乗り気ではない。


「ほんとにやるの?」

 パルコが怪訝な顔をしてキキに聞いている。それを少し離れた円形広場のベンチに座ったファーブルが様子を見ている。

 『ブルーブラックの明かり』のメンバーで顔が割れていないのはキキだけだ。だけど、もしユニコーンの帽子の青年が怒って暴れたりしたら……⁉︎ パルコはじめ男子メンバーは心配した。

 キキは少し不機嫌そうな顔を向けながら、パルコに小声で言った。

「やるったらやるの……!」

 まず青年の目と合わさなければならない。そのためには、彼の帽子が邪魔だった。

 なんとしても帽子を取らないといけなかった。それを遂行するのは、キキとミフネの雨傘連盟が適任だった。

「帽子を取ることマストよ」

 キキが胸を張って言ってのけた。


 雨傘図書の雨傘連盟の二人は仲が良かった。

 キキはミフネの自宅に何度も遊びに行っているようだ。

 だから二人は仲が良い。さっきもお茶屋さんにいる時だって、まるでおばあちゃんと孫みたいな関係だろう。はたから見れば、そのように目に写るだろう。

 ミフネの腕に手を絡ませて仲良く歩くキキは、フードコートの一角にあるクレープ屋さんの前で足を止めた。メニューに向かって指をさし、クレープをミフネにねだっている。

 広いフードコートの中心には大きな円柱がそびえており、そのふもとには円形のベンチが置かれている。それを取り囲むようにテーブル席が並べられて何人かの人が座っていた。

 パルコ、閣下、アンテナ、ファーブルの四人は円柱のふもとベンチに四人で座っている。ファーブルが、おそるおそる窓際のテーブル席の様子を見る。

 窓際の端に、ユニコーンの帽子の青年が一人、街の風景を眺めながら座っていた。文庫本を読んでいるようだった。

「キキ、生クリームチョコバナナシナモンクレープを選んだみたいだ」

 アンテナがボソッと言った。

「どうでもいいわ」

 閣下がすかさず言った。

 キキがミフネと一緒に窓際の席に近づく。

 ユニコーンの帽子の青年は、隣りのテーブル席に座った二人の方を一度だけ見て、すぐにまた読書に戻った。

 キキとミフネは演技じゃない。本当に楽しんでいるようだった。ミフネと青年がちょうど背中合わせになっており、キキはミフネ越しに青年を観察していた。

「今なら背後からアイツの帽子を取ってやることも出来なくもない」

「キキがそんなことするかなあ……」

 パルコは二人がヒソヒソ話をするのを見逃さなかった。

 すると、直後ミフネが振り向き、青年に声をかけたのだった。四人は度肝を抜かれて、その光景を見守った。

「失礼しますよ、楽しそうな表情を浮かべておりまして、お声をかけてしまいましたのよ、私。どんな本をお読みになって?」

 パルコたちは、ミフネの自然な言動に感心した。これが大人か、と四人は思った。

 いや、ただの大人じゃこうも上手く言えないだろう。これはミフネが長く生きてきた中で培ったものなんだろう、とパルコは思った。

「あなたの声も大変楽しく感じられますよ、ご婦人。僕の方までウキウキしてくる。こんなこと初めてだ」

 ユニコーンの帽子の青年は、心のままに話しているようだった。そして、ニコニコと笑みを浮かべている老婦人に、角がよれて何度も読み返されたのが見て取れる文庫本を差し出した。

「僕が敬愛している作家の本です。すでに絶版になっているものだけど」

 彼女は受け取り、眼鏡をかけ直して、本の題名を正確に発音した。

「Oval aus Zink(オーバル オス スィンク)」

「『シンクの卵』という題名です」

 ユニコーンの帽子の青年は言った。


「ドイツ語ね……直訳すると何かしら、亜鉛で作られた楕円? 不思議な名前ねえ」

「僕のお気に入りです。何度読み返しても同じ結末になるのですが、他の人が読むと違う結末なのかもしれない」

 ユニコーンの帽子の青年は、少しだけ憂いを込めて言った。

「まあ、どういうことかしら……? 読む人によって結末の解釈が変わるということかしら?」

 キキはミフネに耳打ちして、その文庫を借りれないか相談した。

「そうね、そうね……。私もだいぶ興味深くてよ? ねえお兄さん、私たち読書家なの。そのお持ちのご本が……その、とても興味があるわ」

 ミフネは続けた。

「でも初めてお会いしたのに、遠慮なしに貸して欲しいだなんて言えないわ。とても失礼に当たると思うもの。でも、あなたが……もし良ければですけど、私の自宅が近くにありますの、良い本がたくさんありますのよ? その『シンクの卵』をお借りする代わりに、とても良質な本を貸しますわ? そうね、どうかしら……貸し合いっこしませんこと?」

「遠慮なく貸して欲しいって言ってるようなもんだよ!」と、キキはミフネの顔をまじまじ見ながら心の中で思った。同時に、回りくどいけれど、とても感じの良い話し方をしてるとキキは感心していた。

「それは面白いですね! もちろん構いませんよ。ぜひあなたのご自宅にお邪魔させていただきたいものです」

 それを聞いて喜んだミフネは、その場に立ち、ペールブルーのハットを取って深々とおじぎした。

「どうもありがとう、お兄さん」

 ユニコーンの帽子の青年も、つられてその場に立って、帽子を取っておじぎした。

「いえ、こちらこそ……」

 そう言いかけた時、ビタッと動きが止まり、彼の視線が一人の女の子に釘づけになった。

「テーブルにつけ」

 キキは静かに、そしてはっきりと言った。 

 二人の間に奇妙な暗闇が零落し、ほんの一瞬、まさに瞬きの間に黒の世界が広がった。そう思った時は、元の彩りある世界に戻っていた。

 手からこぼれ落ちた帽子に気づいた青年は、床からそれを拾い、呆然として今まで座っていた椅子に腰を下ろした。

 ただ、違っていたのは、キキの真正面に向いて座っているのだった。



「やった! 大成功だ!」

 パルコたち四人は、キキとミフネと、ユニコーンの帽子の青年が座るテーブル席に小躍りする気持ちで向かった。

 キキはミフネに耳打ちしている。

「あらまあ! ……これってゲームだったのね! 私たち、優勝したのかしら⁉︎ やったわねキキちゃん! でも私は、本当にあなたの本をお借りしたいのよ?」

「僕もマダムの図書室を拝見したいものです」

「いつでもいらしてくださいな」

「ええ、ぜひ」

 パルコは三人が座るテーブルの残りの一席に座った。

 そして、ユニコーンの帽子の青年の美しい瞳をじっと見つめながら、決してその瞳をそらさずに言った。

「あなたと交渉したい」

 一瞬の沈黙が流れた。それから、青年の鼻から「フゥ」とため息が出たような気がした。

「交渉のルールだね。わかってるよ、仕方ないね」

 青年はあっけらかんとして言った。

「まさかそちらのご婦人も一緒だったとはね。やられたよ」

 それはパルコたちも同感で、キキの積極的な発案とミフネがいなければ成功は成し得なかったことだ。

「君が最後の連名の著者か、ご婦人を味方につけるとは良い度胸だね」

 青年はキキに向かって、そう言って笑った。キキは頬を赤らめた。

 パルコは肩をすくめて、すぐに本題に入った。

「本の中に戻って僕たちのガイドをしてほしいんだ」

 パルコの本音だった。

「まだ『不必要の部屋』には戻れないな。面白いことが起きない限りね。けれど、君たちは交渉のテーブルに僕を座らせた。僕も話さなければならないので、こんなのはどうだろうか?」

 ユニコーンの帽子の青年は、不敵な笑みを口元に浮かべて、その場に居合わせた全員の顔を見ながら言った。

「『シンクの卵』の文庫本はご婦人に渡しておこう。もう一つ、これは桜井秋が書いた」

「えっ⁉︎」

 パルコはすっとんきょうな声をあげた。

「桜井秋……お父さんが書いただって?」

 パルコは父親が書いた作品は全て知っているつもりだった。というか、全て読んだことがある。知らない作品などないはずだった。

「それを読むことで彼が何をしたかったのか、ある程度がわかるだろう。僕がやらなくてはならないこともだ。つまり、ガイドとしての案内本というわけさ。とても大事で希少な本なんだ」

「どうしてそんな大事な本を手放すんだよ」

 テーブル席を見守るように立っている閣下が尋ねた。

「交渉の醍醐味さ。お互いに満足しないと話が進まないだろう?」

 ファーブルが言った。

「『不必要の部屋』にあなたが戻らないと、本の続きを書けないんじゃないんですか? 案内本を読んだって、結局、肝心なとこがそこじゃないのかな?」

 アンテナが隣りでウンウンと頷いている。

「そんなことはないよ。君たちはボクがいなくても書いたじゃないか」

 青年が言った。すかさずパルコが口に出した。

「でも、この前部屋に入った時は全く別の部屋になっていて、『不必要の部屋』はありませんでした」

「入室の仕方が悪かったんじゃないかな? そうでなければ……入室の条件が変わったか。君たち以外の誰かが部屋に入って世界を変えたのかもしれない」

 パルコは、「あ」と言って他のメンバーと目を見合わせた。

 閣下が言った。

「この前は、確かに外の非常用階段から入ったな。最初に入った方法と違う」

 何がなんだか、ちんぷんかんぷんのミフネは、とうとうしびれを切らしてキキに耳打ちした。

「なんだか難しいゲームをしてるのね」




「この世界は卵

 地球は卵

 中身は何だか分からない

 何人いる? 

 気づいている人が何人いる?

 世界は秘密であふれているってこと

 世界が秘密で出来ているってこと

 さあ 自我に目覚めろ

 すぐに旅立て

 お前の脳内にクエッションを打ちつけろ」


 これは、ユニコーンの帽子の青年が持っていた文庫本の冒頭にある一節だ。

 ミフネに冒頭のみ訳してもらい、パルコは手帳の余白にメモしていた。公民館の図書室のテーブルで涼みながら、パルコは昨日の交渉を思い返していた。

 結論から言って、ユニコーンの帽子の青年は、素直に本に戻ることはなかった。その代わり、文庫本を貸してもらうこと、ミフネの自宅に毎週典曜日に来てもらうことを約束させた。(典曜日は青年が希望した)

 館内の掛け時計に目をやると、約束の時間の一時間前になっていた。学習机に置いてあったペンケースと手帳をリュックにしまい、パルコは公民館から出た。

 うだるような日差しに襲われながらも、パルコはすぐさま愛車にまたがった。


 パルコたち五人は、赤レンガマンションの玄関口に集まり、エレベーターでミフネの部屋に向かった。

 初めて訪問するファーブルは、少し緊張した面持ちで言った。

「ミフネさんはドイツに住んでたのかな?」

「どうなんだろ……? でも、翻訳できるってカッコイイね!」

 アンテナが言った。それを聞いて、キキがパルコに耳打ちする。

「え? フネちゃんにドイツ語を教えてもらおうと思ってる? すごいねキキ!」

 得意げに、さらにパルコに耳打ちした。

「フネちゃんは手作りケーキが美味しいのよ、だって」

「腹一杯にならなきゃ帰れないんだよな」

 閣下がうんざりした顔で言った。

「甘すぎないから安心して」

 アンテナが謎のなぐさめをかける。

 閣下が「何だよそれ」と言ったところで、ベルが鳴り、エレベーターのドアが開いた。

 エレベーターから出ると、すぐに眺望の良い回廊が現れた。パルコたちが来たことを推測したかのように、廊下に並んだ赤茶色の扉の一つが開いて、ミフネが顔を出した。

「ヤッホー」

 嬉しそうにミフネが声を投げる。

 一番奥の部屋に向かって一行は歩き出した。ミフネの陽気な声とは裏腹に、パルコは緊張して言った。

「文庫本のこと、検索したんだ」

「僕も」

「オレもだ」

 アンテナと閣下が同じタイミングで言った。キキもファーブルも頷いている。

「あの文庫本は多分……この世界に存在してないものだ」

 全員頷いた。そして閣下が言った。

「でもちゃんと存在している」

「うん! 例の部屋の『シンクの卵』という物語の中にだけ存在している本なんだよ!」

 キキがパルコに耳打ちした。

「…………」

「パルコのお父さんが書いたんだよ」

 パルコは代弁すると同時に、その言葉を噛み締めた。

「アイツ、ちゃんと来るかな?」

 閣下が言った。

 パルコも心配だった。ユニコーンの帽子の青年は、約束を守ってくれるだろうか?

 典曜日の今日、赤レンガマンションの一室で『Oval aus Zink(オーバル オス スィンク)』の読書会が開かれようとしていた。



「いつか地球滅亡の日が来るって言ったら、あなたたちは信じる?」

 唐突に、紅茶の用意をしている後ろ姿のミフネが言った。

「この本は、私が思うより、ずっと恐ろしい物語だったわ」

 ユニコーンの帽子の青年も、地球がいつの日か無くなる時が来る、なんてことを言っていた。

 パルコは恐ろしくなった。昨日から緊張していた理由はこのことだったのだ。

「簡単に言えば、ええと、何て言っていいのかしら……地球滅亡の日に関してちょいと修正しないといけない、それを『彼ら』に知られずに秘密のままやり遂げなければならない、という内容なのよ」

 ミフネは英国製ティーポットのフタを持ち上げて言った。

「『彼ら』というのはフフフ、地底人のことなの……!」

「地下世界に住む地底人のことですか?」

 ファーブルがマホガニーの円形テーブルに身を乗り出して聞き返した。ファーブルはこの手の話は好きそうだ、とパルコは思った。

「そうなのよ。この本は地下世界のことも詳しく書かれてるわ。まるで、本当に見てきたような描写なの! ハル君のお父さんはスゴイわね! ものすごい想像力よ!」

 パルコは嬉しくなった。

 カップに紅茶が注がれて、皆んなの目の前にクッキーやらパウンドケーキ、レモンケーキが分配された。一通りお茶会の用意が整うと、ミフネは窓際の席に座った。

「そうなの、この本の内容の特徴は圧倒的な描写力よ。本来なら全部訳して、それぞれで読んでみるべきでしょうが、なるべく簡潔に話してみせましょう」

 ミフネは、この数日間を使って読んでくれたのだった。

 しかし、さすが本好きだとパルコは思った。読んだものを頭の中で整理して、それを人に説明するのは、なかなか難しいものだ。でもミフネは、そういうことに慣れてるように思えた。ミフネはテーブルに座る全員の顔を見ながら、ニコニコして語り出した。

「先ほども話した『彼ら』のことから話しましょう。地球の歴史を進める人たちがいて、その人たちはとても崇高な思考力を持っている。その人たちが思い描いたように世界が、時代が、人間の歴史ひいては生物の歴史が創られている。それは一つの地球史とも呼べるもので、エンデ(終止符)まで書かれているのよ」

「…………」

 メンバー全員、無言だった。ミフネは一つ咳払いをした。

「エンデ、つまり物語の終わりの証明よ。エンデに向かって物語は進んでいかないといけない、そのように書かれているわ。この話の中では、地底人がその役を負っているの」

「『彼ら』は地底人……」

 最初にヨハンセンと出会った時のことをパルコは思い出した。ヨハンセンは『彼ら』のことを言っていた。ミフネが続けた。

「……そして、この物語の主人公は、『彼ら』のうちの一人ペールブルードットが創り出した架空の青年なの。青年はペールブルードットの痛烈な気持ちを代弁するの」

「架空の青年……ユニコーンの帽子の青年に似てない?」

 アンテナが小声で言い、パルコは頷いた。

「ペールブルードットは人類が必要なものを得るためには、不必要なものを得る必要があると考えていた。やがて彼は、以前書いた『彼ら』が用意した構想に追記しないといけないと考えるようになっていくの。その構想は危険だわ。『彼ら』全員の認可を得ていないから。だけどペールブルードットは、『彼ら』を出し抜くことのできる史上最高の『彼ら』だったの」

「ペールブルードットは主人公じゃないんだよな?」

 今度は閣下が小声で言い、パルコは頷いた。

「悩ましくも賢明なペールブルードットの姿を見ていた青年は、ペールブルードットに憧れた。やがて青年は、大きな役目を与えられる。それは、地球滅亡までのルートが事細かく記載された古い本を管理する仕事」

「それが『シンクの卵』か……」

 ファーブルが自分で納得するかのようにつぶやいた。

 ミフネは、流ちょうに語り、気持ち良さそうに話す。

「青年は喜び、自分の仕事に誇りを持ち、毎日毎日、その本の管理に勤しんだ。装庁が古びたら新しいものに施術し、管理する部屋を清潔にし、ふさわしい机と椅子を用意した。

 ペールブルードットに信頼されている青年は、やがて管理だけではなく、内容のところどころの加筆と修正を任されるようになったの。同時に、本の内容は、人類の著者が書き連ねるようになっていく。時間が経てば経つほど本の中の物語は進行し、内容は増量し、ペールブルードットが大筋をチェックして、さらに青年がチェックする」

「…………」

 キキは紅茶をすすり、ミフネの話に聞き入っている。他のメンバーもまた、ミフネの語り部に引き込まれた。

「青年は、誤字脱字があれば手直しして、文章と文章がつながらないのであれば、接続させる小さなエピソードを書いた。それ以外でも、必要なことがあれば青年自身の判断で書き足すようになっていた。ペールブルードットは、急に書き加えなければならない必要なことがあれば、すべてを青年に任せるようにしたの。けれど、ある日青年は、ペールブルードットに憧れを抱くあまり、物語を書き過ぎてしまう。そのことがあって、ペールブルードットは青年から本に手を加える権利を取り上げてしまったの」

 ペールブルードットが創り出した青年とは、本当にユニコーンの帽子の青年なのだろうか? ユニコーンの帽子の青年は、本に書くことができないと言っていたが、それも合致している。パルコは深く思案しようと思ったが、ミフネが本の中の一節を厳かに語り出した。

 ペールブルードットが青年に語る詩だという。


「地球は卵だ

 地上で生まれた生命が地球を育てている

 温めたものが何であれ孵る

 卵が割れて

 それが産まれるとき

 すべてが泡のように

 無くなる

 少女は黄昏れる

 産まれたのは少女だった」


「…………」

 メンバー全員が無言だった。

「これは物語の中盤に差し掛かった時の詩よ。冒頭の詩とつながっているようにも思えるわ。この詩の中の『黄昏れる少女』なる人物こそが、物語の肝なのよ!」

「黄昏れる少女……」

 ファーブルがつぶやいた。

 その頭の中にどんなことを想像しているのか。案外ロマンティックな少年なのかもしれないな、と隣りに座るパルコは思った。

「黄昏れる少女は、『彼ら』が創り出した地球滅亡の象徴なのよ」

 ミフネが静かに言った。

「ペールブルードットは青年に言うの。黄昏れる少女が地上に姿を現すことで、世界を混沌に巻き込もうとする『灯り』が暗躍する。その少女と『灯り』を引き合わせなさいと。地上にいる『灯り』は、八番目の夜の闇に乗じて、少女を卵に戻すことが出来るのよ」

「『灯り』って……?」

 閣下が不穏な顔をして言った。

「『ブルーブラックの明かり』だったりしてねー! ナハハハ……」

 アンテナが冗談っぽく笑ったが、誰も笑っていない。秘密組織名を口外するなと言ってやりたかったが、パルコはそんな気分になれなかった。

 ミフネがまたコホンと咳をして話し始めた。

「気の遠くなるような時が過ぎて、ペールブルードットはもはやいなかった。青年はペールブルードットが構想した計画を着実に果たしていた。青年の計らいで少女と『灯り』は引き合わされて、少女は再び卵の中に戻る。なぜなら、少女は卵に戻りたかったから」

 ミフネが片目を開けて、今度こそ誰も邪魔しないでねと言わんばかりに皆んなの顔を見ている。

「ペールブルードットは賢く、少女が卵の中に戻りたいことを知っていたのよ。彼女を卵に戻す代わりに『彼ら』が示した地球滅亡までのルートの一部を変更することを要求していたの。ここで初めてわかるの。青年が本を管理し始めたのも、本に書く権利を剥奪されたエピソードも、実は全てペールブルードットが用意した構想だということに。全ては『彼ら』を出し抜くために仕組まれたことだったってことに!」

「なんだか僕、よく分からなくなってきた……」

 アンテナがぼやき、パルコも頷いた。

 ミフネが無視して、話を続ける。

「ペールブルードットが不在になったとしても、青年が代理人となって引き合わす約束がなされていた。青年はペールブルードットの代わりに、不必要なものから新たに必要なものを創り出した。そして『彼ら』の一人となったの。物語はそこでおしまい」

「えっ?」

 パルコが声を出した。

 束の間の沈黙が流れ、それを割ったのはアンテナだった。

「どういうこと?」

 ミフネは皆んなの顔を見て、にんまりしている。

 それからは、皆んなで話し合うことになった。大変なのはミフネだ。メンバーから(主にキキだが)、ここの訳を細かく要求したり、重要そうなエピソードを何度も探してもらったりと、本を開いては紙に書いたりしていた。

「桜井秋って何者なのかしら?」

 議論が飛び交っている空間に、ミフネが放った疑問符が宙に浮いた。

「え?」

「それにあなたたちも不思議よねえ、今まで読んだことのない本に、こんなにも熱中できちゃうなんてね……」

 キキがミフネに耳打ちした。

「私たち、謎の作家『桜井秋』を夏休みの自由研究にしようと思っているの」

 ミフネが代弁して、なるほどねえっていう顔をした。パルコは思った。

「キキって、言い訳の天才」

 ユニコーンの帽子の青年は、約束の時間になっても、とうとう来なかった。



 入道雲が紺碧の青空をバックにして、まるで轟音をとどろかせているかのように迫り上がっている。

「あのまま大気圏を突き抜けたら面白いのになあ」

 なんてこと考えながら、パルコはソーダ味の棒アイスを口にくわえた。パルコは自宅ポストの口に手を入れて、手紙が来てないか確認した。国際郵便で一通の手紙が来ていた。

「ヨハンセンからだ!」


 パルコへ

  きみとみんながげんきでいること

  をいのってる。わたしはげんきだ。

  つきましては、もうすぐ日本へいく。

  けんこうとはってんをねがって

  る。また、かいぎのばしょで会える

  ことをたのしみにしている。きみたちの

  ともだちのヨハンセンより


「ヨハンセン、ひらがなで手紙書いてくれてる! 来日するんだ! やった!」


 パルコは、いてもたってもいられず、急いで出かける準備をして、いつもより早いが純喫茶ナウシャインに向かった。

 ナウシャインに着くと、珍しくファーブルがすでに着席していた。

「ね、ヨハ……」

「オレ、転校する」

「は?」

「今、じいちゃんとばあちゃんの家に居候してるんだけど、もう居られなくなった。親の海外転勤が決まったから、オレもついていくことになったんだ」

「嘘だろ?」

「マジだから。この夏休みまでだ」

「マジか……」

「……」

「でも……良かったね。家族で暮らせるんじゃん」

「……良いことなんかないよ」

「……」

 パルコはうつむいた。ファーブルもだ。やがてファーブルが口を開いて言った。

「生まれて史上、最高に面白い夏休みだった。こんな冒険オレの人生になかったんだ。こんなこと、世界でオレらだけだぜ? 『不必要の部屋』の謎を解明したかったけどね」

「解明しようよ……」

「できないって」

「…………」

「そうだ、このことはまだ皆んなに内緒にしといてよ」

「何でだよ……?」

「予定が変わるかもしれないだろ?」

「え? 変わるの?」

「変えたいんだ……!」

 ファーブルの目に力がこもっていた。それを見たパルコの目も輝いた。

「そうだよ! 『シンクの卵』だ!」

「オレも世界を変える……!」

 席についていたパルコは、勢いでその場に立った。ファーブルも合わせて、テーブルを挟んでその場に立つ。

「『不必要の部屋』を見つけなきゃ!」

 パルコはそう言って、手を差し出した。

「うん!」

 二人の間に固い握手が交わされた。同時にナウシャインの扉のベルが鳴って、秘密のメンバーが入ってきた。今日もユニコーンの審議会が始まった。


「朗報がある! ヨハンセンから手紙が届いたんだ!」

 皆んなから、ワーッという声が上がった。店の奥のポニーテールの女性からキッとにらまれ、あわてて静かになる。パルコは手紙を出して皆んなに見せた。

「きったねえ字だな。ほとんどひらがなじゃん」

 笑いながら閣下が言う。

「気を使って日本語で書いてくれたんだよ」

「健康と発展を願ってるって……笑える! 早く来ないかな!」

 アンテナが嬉しそうに話す。

 キキがパルコに耳打ちした。同時にファーブルも奇妙な顔をしている。

「何かおかしいなあ」

「頭文字だけ横読みすると? だって……?」

 パルコがキキの声を代弁した。

 アンテナが声に出して発音する。

「き・を・つ・け・る・こ・と」

「!」

「気をつけること……⁉︎ え? これって偶然?」

「偶然……じゃなさそうだな。文章の途中で不自然に行替えしてるし」

 閣下が言った。

「何かあったのかな?」

「遊び半分……じゃやらないだろ」

 ファーブルがいぶかしむ。

「警告かもな……だろ?」

 閣下がパルコに同意を求める。

「確かに……あっちの状況はわかんないけど、詳しく手紙に書いたり電話できなかったりするのかも」

「ま、近いうちに来日するって書いてあるしな。でも、よくわからんが気をつけよう」

 これには皆んな同意見だった。誰かが『ブルーブラックの明かり』をつけ狙っているかもしれない。


 話題はユニコーンの帽子の青年のことに移っていた。

「この前、結局アイツ来なかったな。これでまた雲隠れか」

 閣下が憤るように、吐き捨てた。

 彼は確かに言っていた。

「彼は一週間を八日間にしていない。典曜日を作り上げた犯人じゃなかったんだ」

 パルコは言った。

「じゃあ、一体誰が作ったの?」

 アンテナが言った。

 今度はファーブルが、パルコをじっと見つめてから言った。

「考えられることは三つだな。一つはユニコーンが言う通り誰かが書いた。一つはユニコーンが誰かに書かせた。もう一つはパルコの……」

 そう言いかけてファーブルはパルコの方を向いた。だからパルコも気づいた。

「僕の……お父さんがそもそも書いていた……?」

 ファーブルはうなずいた。

「ヨハンセンの言ったことが本当なら、本のガイドは嘘はつかないよな。だとしたら、ユニコーンが誰かに書かせた可能性はなくなるんじゃないか? 誰かに「書かせた」なんて、自分が典曜日にしたと同じ意味だと思うけどな」

 閣下が言った。

「うーむ……」

 アンテナがうなる。

「誰かが書いたんなら、また書くかもしれないな」

 ファーブルがポツリと言った。

 パルコは思った。誰かが書いたことは間違いない。

 その人は、僕らと同じ特別な秘密を持っているはずだ。

 そう……『世界を変えるための不必要の部屋』に入って、世界を変えたはずだ。

 今日もユニコーンの審議会で決議をとった。ローテーションで議長役を務めるアンテナが、どもりながら言った。

「でっ、では来週から八日間、夜中の廃工場を監視することにする……!」



 翌日の典曜日に思わぬ事態が引き起こされた。

 市街地にある家電量販店で、ファーブルがハマりそうなゲームソフトを探してる時だった。

 アンテナが顔面蒼白になって、店内のゲーム機コーナーに飛び込んできた。アンテナはパルコとファーブルの腕をつかむと「大変なんだ」と言って慌てて連れ出した。

 何人かのビジネスマンや親子連れの間をくぐり抜けて、薄型テレビコーナーに並ぶテレビの眼前に立った。テレビ画像の中のニュースキャスターが、声高らかに興奮して報道している。

「繰り返します。つい先ほど、政府から発表された臨時ニュースです。政府は、地下六六〇キロ圏内の上部マントルに生息する地底人との異種族間多様交易計画を発表いたしました」

 ニュースキャスターが続ける。

「日本政府及び地底政府高官による共同公開文書の中で、両陣営は『ブルーブラックの明かり』という当該交易に関わる重要な組織団体の関係を示唆しており、この団体の接触を要望しているということです」

 さらにニュースキャスターは続ける。

「日本国内にあるという、この団体に関する情報をお持ちの方は、すみやかに画面に表示されている連絡先もしくは政府ホームページで公開されているサイトにアクセスしていただくようお願いいたします。繰り返します……」

 三人とも、まるで悪い夢の中にいるみたいだった。

 あまりの出来事に、パルコは半笑いでアンテナに聞いた。

「どゆこと?」

 三人はすぐに閣下とキキの自宅に連絡を入れて、予定を繰り上げてタコ公園で落ち合うことにした。夕方からミフネの部屋で、読書会の続きをすることになっていたのだ。

 今日は典曜日だ。もしかすると、ミフネのマンションにユニコーンの帽子の青年が来るかもしれない。パルコは期待した。


 『ブルーブラックの明かり』は、タコ公園の主である怪物ダコの六本目の足の中にいた。

「もう何度目のユニコーンの審議会なのだろう?」とパルコは心の中で思っていた。

「とりあえず落ち着こうぜ?」

 閣下が切り出した。

「オレらは秘密組織だから、組織名が流出してても顔が割れてる訳じゃない」

 閣下が、およそ落ち着いていない調子で皆んなに言った。

「秘密組織なのに、組織名流出しとるがな」

 とキキがパルコに耳打ちした。パルコは代弁するのをやめておいた。

「地底政府って、マジで真面目にニュースの人が話してたぞ。地底人のことじゃん」

 ファーブルが半分笑いながら言った。パルコも確信的に言った。

「『彼ら』ってことだよね。僕らを探してるみたいだ」

「僕たちどうなっちゃうのかなあ⁉︎」

 アンテナは不安を隠せない。

「わざわざテレビ使って探してるくらいだから、放っておけば何もないでしょ? オレらが秘密組織ってことを知ってるのは、ヨハンセンとユニコーンくらいだよ」

 ファーブルが冷静に言った。

「ヨハンセンはともかく、ユニコーンがバラしたら? ていうか、ヨハンセンが警告したのは、このことかもしれんじゃん⁉︎ むしろヨハンセンが地底人に脅されてたら……」

 アンテナの悪い想像は止まらない。これに対してパルコがなだめる。

「大丈夫、大丈夫。僕ら何も悪いことはしてないじゃん。バレたとしてもどうなのさ」

「僕たちが超重大な秘密を抱えているから探してるんだろ? バレたら何されるかわかったもんじゃないよ! それに廃工場に不法侵入してる!」

「不法に侵入はしてるなあ」

 パルコが笑って認める。

「パルコの親父さんが、めちゃくちゃ重要人物なのはわかってる。でもそれと同じくらいオレらも重要人物になってるのは間違いないな。『シンクの卵』の著者なんだ。ランプの部屋の居場所がわかれば世界を変えれるかもしれないんだ!」

 閣下も、得体の知れない危機感に襲われているようだった。

「組織名がバレてるってのは何でかな?」

 パルコが言った。

「う〜ん……何でだろ? とにかく、どうしよ?」

 絶望的な顔してアンテナが聞く。

「政府のサイトがどんな感じかアクセスしてみようか?」

「バカやろ、アクセスしたら分析されてオレらの居場所丸わかりだろが!」

 閣下がアンテナに怒った。

「とにかくユニコーンに聞いてみるしかない」

 夕方、ミフネのマンションを訪問した『ブルーブラックの明かり』はユニコーンの帽子の青年を待っていた。ミフネは日本政府と地底政府との貿易が発表されたことをまだ知らなかった。来客者のために、一生懸命もてなす準備をしていたのだろう。

 読書会が始まり、ミフネが焼いたクッキーとゼリーが山ほど振る舞われた。刻々と時間が過ぎていく。ミフネが青年の来訪を待っている。

「今日も来ないわねぇ、何かあったのかしらねえ……」



「桜井君おはようございます!」

 学校の正門で、マーヤ先生の明るいよく通る声がパルコに投げかけられた。

「おはよーございまーす」

「こらこらこら、ちゃんと私の目を見て挨拶してくれよ!」

 パルコは、マーヤ先生のテンションに応じるのが億劫だった。パルコは、昨日のことで不機嫌で、そそくさと昇降口に向かおうとしていたのだが、改めて挨拶をした。。

「マーヤ先生おはようございます。先生は今朝もお綺麗ですね。今夜は教員の飲み会ですよね? お酒ってやっぱり美味しいんですか? マーヤ先生はビール派? お酒派?」

 パルコはまくし立てた。

「や、やだなぁ、何でわかるかな? そんなに嬉しそうな顔してる?」

「うん」

 夏休みのたまの出校日、教室に入ると、やはり昨日のニュースで持ちきりだった。地底人だ。ニュースにならないわけがない。

 それよりも、パルコは度肝を抜かれたニュースが飛び込んできた。

「昨日、市境の廃工場に、夜中に勝手に忍び込んだ人がいると通報がありました。もし、心当たりのある方がいるならば、お昼時間に職員室に来てください。大事な話がありますから」

 朝の朝礼でマーヤ先生の口から飛び出した。パルコは心臓が飛び出るくらい胸がバクバクしてしまった。

「いや待て、昨日は忍び込んでないから! 廃工場の監視もまだ始めてないから!」

 などと心の中で自分に突っ込んでいた。


 一時間目が終わり、パルコは急いでアンテナがいる教室に向かった。教室の引き戸に手をかけた時に、背後から声をかけられた。

「桜井ハル君?」

 教室にいるアンテナと一瞬目が合ったが、細身スーツの男性に顔を向けた。

「市の教育委員会事務局の南十字です。こんにちは」 

「こんにちは……」

 南十字? さん……それとも「南」が苗字で「十字」が名前? 目の前に現れた人物は、端正な顔立ちをしていた。にこやかな笑顔だが、その笑顔が崩れない。

「少し話しても良いかな? マーヤ先生からは承諾をもらってるから、安心してほしい」

 見なれない男に、周りの生徒は不思議そうに見つめていた。

 言われるがまま、パルコは男の後をついていった。大丈夫だろうか? 今朝の廃工場の犯人捜しと何か関係あるのだろうか? パルコの心臓の音が高鳴った。四階に上がり、廊下に進む南十字を追った。廊下の一番奥には理科室がある。

 どう考えても怪しいとパルコは思った。普段来ることのない教育委員会の職員が、なぜ自分を訪ねに来るのか……? それを察してか、南十字は後ろ向きのままでパルコに話しかけた。

「実は……私は日本政府から派遣された役人です。先ほど教育委員会事務局から来たと言いましたが、それも本当のことです。けれど、昨日のニュースで流れたような事案が起きた時は、まず最初に私が地底政府と話し合いをしています。昨日のニュースはご覧になりましたか?」

 そう言って、南十字は理科室のドアの鍵を開けた。彼は二、三歩中に入ってから、パルコに振り返った。

「はい……知ってます」

 パルコは落ち着いて答え、理科室に入る前に足を止めた。ヤバイと思ったからだ。

「この人は、自分と秘密組織とが関連あると知っている前提で話をしている!」

 そう思って、パルコはすぐにドアを閉めて走って逃げれるよう、心の準備をした。

「地底人と仲を取り持つことができる唯一の組織……『ブルーブラックの明かり』をボクは捜しています。ハル君、突然でびっくりしたと思いますが、その秘密の組織のことを何か知りませんか?」

 どういうことだろう? なぜ僕に聞くのだろう? パルコは、自分がまだ『ブルーブラックの明かり』のメンバーだと悟られていないことに安心した。

 それにしても、地底人と唯一仲を取り持つことができるだって? それって『彼ら』と交渉ができるのは僕らだけ……? ってことなのかな?

 色々と思うことはあるが、パルコは無言を貫くことに決めた。

「…………」

「えっと、ごめんごめん! ボクの言い方が怖かったかな? そうだよね、驚いちゃうよね? 急にこんなこと言われても、って感じだよね? しかも昨日の一大ニュースのことをさ」

 おやおや、この人……案外話しやすい人なのかもしれない。

 南十字は、パルコが普通の小学生だと理解するとコロっと態度を変えた。柔和になったというべきか。パルコは彼の話ぶりで少し緊張を解いた。

「どうして僕に……そんなこと聞くんですか?」

 すると、瞬時に、彼の目つきが鋭利な刃物のように変わった。

「先日、ショッピングモールで、私たちが追っている一人の重要人物と会話をしてましたね?」

 ユニコーンの帽子の青年のことだろう。パルコは知らぬ存ぜぬの態度をとることに決めた。急に柔和な態度をとるのは、彼の相手から話を聞き出す手法なのかもしれない。

「重要人物……?」

「フードコートのテラス側の席で、君の友人と年配女性とで話しをしてたよね?」

「あ! ……はい! 帽子を被ったお兄さんのことですか?」

「……そうだね。フム」

「僕、その人のこともよく知らなくて……」

「だよなあ……」

 南十字は、また緊張を解いた。

「その人はね、実は昨日ニュースで言ってた『ブルーブラックの明かり』のメンバーかもしれないんだよ」

「えっ⁉︎」

「あ、このことは誰にも言っちゃダメだよ?」

「……あの人は、何か悪いことをしたんですか?」

「悪いことはしていないよ。けれど、とても重要な話し合いをボイコットしそうなんだ」

「ボイコット……」

 おそらく地底政府との話し合いのことを言っているのだろう。この男は勘違いしているとパルコは思った。そしてすぐに考えを変えた。いや、思わせているのかもしれない。

「うん、ボイコットってのは話し合いに参加しない、ってことね。ところで、君はなぜその男の人と知り合ったのかな?」

 これは困ったぞ、とパルコは思った。

「……さっき話してた年配の女性の人が、その男の人に話しかけて、で、隣りに座ってたのが友達だから……」

 とりあえずパルコは、その時の状況の描写を説明することにした。

「そうなんだね……」

 南十字は、また緊張を解いた。パルコはホッとした。

「夜中の廃工場で起きたことを話してくれないかな?」

 ドクンッ!

 何でだ? 何で廃工場のこと、この人は知ってる?

 どうするっ⁉︎ ……どうするっ⁉︎ パルコは動揺した。

「あれ? 先生、扉が開いてます。あ、ハルちゃん? 何してるの?」

 アンテナだった。マーヤ先生と不思議な顔でこちらを伺っている。

 いや、正確にはアンテナは不思議な顔の演技をしている。

「え? 南十字さん何してるんですか?」

 マーヤ先生が露骨な顔をして怪しんだ。

「ああ……理科室を使用してすみません。桜井君とばったり会ったものですから、少し話していたのです」

「勝手に私の生徒を連れ出さないでください! 例の話は授業後に予定していたはずですが……?」

 マーヤ先生は怒っていた。

「そうでしたね。これは……申し訳ありませんでした」

「二人とも教室に戻りなさい。もう授業は始まっていますよ」

 マーヤ先生が腕時計を見て言った。

 パルコは気づかなかった。すでに二時間目が始まっていた。始業チャイムは鳴らなかったのだ。二人は急いで階下に向かった。

「サンキュ! マジ助かった!」

 パルコは、心の底から感謝の気持ちを込めてアンテナに言った。

「よく理科室にいるってわかったね!」

「三階まで尾けたんだ。人気の少ない四階に行ったのが不自然で、すぐ先生を呼んだ! ヨハンセンが気をつけろって教えてくれたんじゃん!」

 パルコは感心した。アンテナは、ヨハンセンのメッセージを片時も忘れてなかったのだ。 今度はアンテナが、階段を駆け下りながらパルコに尋ねた。

「そんなことより状況を簡潔に述べてくれる?」

 パルコは整理しきれない頭で、階段を二段飛ばしながら言った。

「超ヤバイ」



 三時間目が終わっても南十字はやって来なかった。

 下校時間も特にマーヤ先生からも何も言われず、彼女は連絡事項を生徒に伝えると、足早に職員室に戻っていった。

 その日の午後、メンバーはタコ公園に集合してから、冷房がきいた公民館に移動した。

 館内の体育室前の廊下には自販機がある。自販機横のベンチに四人が座り、ジュースを飲む彼らの前で、パルコが午前中の出来事をこと細かく説明している。

「ユニコーンの帽子の青年が追われてる⁉︎」

「うん! 『ブルーブラックの明かり』のメンバーだと思われてる」

「ははっ……何で?」

 閣下が鼻で笑って、すぐに聞き返した。

「わかんない。でも……マンションに来なかったのは、それが関係してる気がする」

 パルコがそう言うと、ファーブルが同意した。

「オレもそう思う。ユニコーンが来てたら……皆んな捕まってた気がする」

「南十字は、多分、全部知ってる……というか知ってた。僕が廃工場に忍び込んだこと確実に把握してたと思う」

「僕たち別に犯罪者じゃないでしょ?」

 アンテナが不安がる。

「廃工場の無断侵入以外はな。けど、本に書いたことが地底人側からしたら、超犯罪かもしれない」

 閣下が言った。

「…………」

 皆んな沈黙した。

「何者なんだろう……?」

 パルコが言った。

「だから政府の役人なんだろ」

 閣下が吐き捨てた。

「…………」

 ファーブルは黙り込んでいる。

「僕たち地底世界に連れていかれちゃうのかな⁉︎」

 アンテナが心配そうな声で言った。閣下はそんなことあるかっていう顔をしているが、何も言わなかった。



 赤レンガマンションのエレベーターに乗り込んで、パルコが確かめるように話し出した。「最初に廃工場に忍び込んだ時さ……」

 秘密組織を結成した日をパルコは思い返していた。グオングオングオン……とエレベーターがうなっている。

「例の部屋で署名してから、誰かが来る足音が聞こえたじゃん? あれってさ、ユニコーンの人かと思ってたんだけど、南十字だったのかもしれない。いや、絶対にそうだ」

「何でわかるんだよ?」

 閣下が不思議に思った。

「靴音が、コツッコツッて……同じ革靴の音なんだ」

 その時だった。エレベーターは途中階で止まり、扉が開いた。

「やあ」 

 ユニコーンの帽子の青年だった。何食わぬ顔で、彼はエレベーターに乗り込んだ。閣下が一言物申す前に、青年は頭を下げた。 

「先日は約束を破ってしまい申し訳ない。どうしても来れなかった理由ができたんだ」

 そう言って、青年は閉まるボタンを押した。エレベーターは再びミフネの上層階を目指して動き出した。

「今からボクの言うことを、よく聞いてほしい」

 そのただならぬ雰囲気に、五人は静かに耳を傾けた。

「ボクは政府に尾けられている。彼らは昨夜、廃工場に侵入したボクを追って『シンクの卵』を強奪しようとしている。彼らの目的は『ブルーブラックの明かり』の動きを阻止することにある」

「ていうかユニコーンのお兄さんが秘密組織の一員だと思われてるよね」

 アンテナの言い方がおかしくて、皆んな笑うところだった。

「今日、学校であなたのことを問い詰められたんだ。間一髪で逃げることができたけど」 パルコがアンテナの方を見ながら言った。アンテナは、胸を張って誇らしげだ。

「そりゃそうだろうね。本のガイドが外に出ると思ってないからね。だが、それも時間の問題だ。君らが秘密組織だとバレる前に『シンクの卵』の話を書く必要がある」

「だから早く本に戻ってくれれば良かっただろ?」

 閣下が煮え切らずに言った。

 エレベーターのドアが開き、ミフネが住む回廊に着いた。

 時刻はもう夕刻だ。窓からオレンジ色の陽光が差し込んでいた。エレベーターから降りてドアが閉まると、エレベーターはすぐに階下に戻っていった。

「戻りたくない気持ちも少しは理解してほしいな」

「もっと早く教えてくれよな」

「……わかったから、本はどこにあるの?」

 ファーブルが優しく言った。

「話が早くて助かるよ。廃工場にあるんだ。今夜向かえばいい、今夜なら入れるだろう」

 パルコが入室の条件を聞こうとしたが、青年の手でさえぎられた。青年はエレベーターの階数ランプを追っていた。

「今、この時も追われてる。だから、君たちはミフネ婦人の自宅に行くことはできない。訪問するのはボクが引き受けよう。ボクがミフネ婦人の部屋に留まっていれば、その分、彼らを引きつけることができる」

「だから、そういうの早く言ってくれよ」

 閣下がまた呆れ気味に言った。

「今すぐに、階段で一階まで下りて逃げてほしい」

 エレベーターの階数ランプがまもなく到着する。

「行くぞっ」

 閣下が言った。

「げえっ! キツくない⁉︎」

 アンテナが階段を降りるのをためらいながらも閣下に続いた。パルコは急いで青年に聞いた。 

「何を書けばいいんだよっ⁉︎ 何もかも、ちんぷんかんぷんなんだけど!」

 パルコが言った。朝から周りに流されてばっかりだった。

「それこそが彼らの意図だ。混乱に混乱を重ねて、君らの本来の目的を煙に巻く。『不必要の部屋』に入りなさい。行けばわかるから」

 『彼ら』は、お父さんが言う物語の続きを書かせないために僕らを探してるの? お父さんはどんな物語を書こうとしていたの? 聞きたいことが山ほどあるのに……。

「もうっ」

 パルコは他の四人に続いて階下に向かった。階段を少し降りてから、背中越しにエレベーターのドアが開く音を聞いた。足音を響かせないように、パルコは素早く駆け降りて行った。


 マンションの裏手から駐輪場に向かい、五人は自転車に飛び乗った。

「どうするっ⁉︎」

「これから向かうの⁉︎」

「仕方ないだろ⁉︎」

「クルックー(キキの鳩マネ)」

「廃工場に向かおう!」

 今こうしてる間にも、何者かにつけ狙われている可能性があった。一度自宅に帰ったとして、メンバーそれぞれの家で待ち伏せされているかもしれない。

 ユニコーンの帽子の青年が言うように、今しか廃工場に入るチャンスは無さそうだ。 

 市街地を抜けて、すぐに田園風景が現れた。その手前に、水神を祀っている神社がある。五人は鳥居の前で神社に向かって一礼してから、隣りにある滑り台とブランコしかないみすぼらしい公園で打ち合わせした。

「パルコ、ライト持ってるか?」

 閣下がパルコに確認した。

「ヘッドライトとペンライトなら、いつもリュックに入れてる!」

「よし! オレもキーライトがある、ペンライトはアンテナに渡せ! ここから目立たないよう行動するため三班に分けるぞ! 今から班分けする!」

「オイっす!」

 アンテナとパルコが元気よく返事をした。ファーブルも遅れて言った。いつも緊急事態は閣下が指揮をとる。

「一班、パルコ・ファーブル!」

「オイっす!」

「二班、アンテナ・キキ!」

「オイっす!」

「三班はオレだ! サイクリングロードと田園ロードと住宅地ロードの三ルートで行く! 一班とオレは全速力な。各自交通事故に気をつけろ。現地に着き次第、廃工場に進入! 『不必要の部屋』に入って流れに任せろ!」

 ラストのセリフで五人は盛大に吹いた。もうこうなったら、目一杯がんばって身を任せるしかないのだ。

 また、もし誰かにつけ狙われていることがわかったら、廃工場には向かわずに自宅で待機すること、待機者は皆んなの家に電話して、急きょ決まった夏休み勉強会と花火大会(閣下の自宅で開催)の予定を伝えることが決まった。 

 神社で三班に分かれ、各班が廃工場に向かった。

 パルコはペダルをこぎながら、すべてがうまく行くようにと、心の中でさっきの神社の神様に祈った。



 パルコとファーブルが鉄骨だけ看板に到着した時には、あたりは薄暗くなっていた。西の空には、かすかに夕焼けの残骸のように染まった雲があるだけだ。

 二人はまだ誰も来ていないことを確認して、茂みの裏に自転車を停めた。

「静かだな」

 ファーブルがつぶやいた。

「ほんとだな」

 そう言って、パルコはヘッドライトを装着してライトを点けた。

 心もとない一つの光源が夜道を照らした。二人はしばらく無言で足早に歩いた。誰にも尾けられてきてはいないようだった。

「もし『不必要の部屋』に入ることができたらどうする?」

 ファーブルがささやき声で言った。

「……わからない。でも、お父さんが書きたかった話を確かめなきゃって思うんだ。ね、地底人と交流する世界ってどう思う?」

「……面白そうだとは思う」

「ファーブルも書くだろ? 転校しないって」

「うん、オレも書くよ」

「前に一人で入った時も、閣下たちと来た時も、裏の非常用階段から入ったんだ。近道だからさ。でも、入室の条件が近道しないことだったら、って思うんだ!」

「わかった。最初来た時と同じように事務所から入ろう」

「うん!」

 二人の歩く砂利道のデュオが止まり、足下は荒れたアスファルト舗装に変わっていた。眼前に大きな黒いシルエットがそびえている。いつの間にか月明かりが照っていた。

 ヘッドライトを消して、二人は事務所の入り口に忍び足で向かった。誰もいないようだった。

 パルコは後ろを振り返り、閣下やアンテナやキキが来る様子がないことを確認してから、ファーブルの顔を見て廃工場に侵入した。ファーブルのノド元からゴクリとツバを飲み込む音が聞こえた。


 事務所を抜けて、真っ暗な渡り廊下を一人分のライトだけで進んだ。T字に差し掛かり、左折し、作業用機械たちの墓場を抜ける。パルコとファーブルの足音だけが作業所に反響する。

 前と同じだが、今日はファーブルと一緒だった。二人なら恐怖も半分だとパルコは思った。ベルトコンベアを何度も越えて、二人は急いで駆け抜けていった。

 両扉を開き、二階へとつながる階段に向かい、階段前の踊り場の窓から照射している月明かりでホッとする。

 二人は呼吸を整え、誰かが追ってきてはいやしないかと耳を澄ませた。今この時も、二人は同じことを考えている。

「誰も来ないな」

「うん」

 パルコとファーブルは、恐る恐る、静かに、音を立てないように階段を上がった。そして、確認した。

 やはり、暗闇に浮かぶドアの隙間から、こぼれた灯火のオレンジの光を確認した。ファーブルと顔を見合わせ、パルコは嬉しくなった。

 ゆっくりとドアに近づき、耳をそばだてる。何の音も聞こえない。人の息づかいも、衣のすれる音も、足音も。誰もいないようだった。

 パルコは再びドアの隙間から部屋の中をのぞいた。古びた木製の机と椅子、椅子の背もたれの縁取りの葡萄の蔦のような彫刻、ランプの光で夕日色に染められた細身の腕……細身の腕?

「人影だ……」

 心の中で叫ぶパルコは、驚きの表情でファーブルに顔を向けた。

 室内に、何者かがいることを悟ったファーブルも、驚きの顔を浮かべた。

 ヒヤリと汗がにじみ出る。ほんの少しの沈黙のあと、二人は引き返すこともできず、話を進めるために決意した。パルコは静かにドアを開いた。

 古びた机のはす向かいに、ヴァーミリオンのランプに照らされた女子が一人立っていた。




 白いブラウスを着た女の子が立っていた。

 背丈と年齢はキキと同じくらいだろうか? 前髪のキラリと光るメタリックブルーのヘアピンが、ランプの灯りを怪しく反射させている。鼻筋が通ってて、割と首が長くて、肌は白く……とても綺麗だと、パルコは思った。

 赤いランプの光に照らされて、彼女は不安げにパルコとファーブルをにらんでいる。

 そして、声に出した。

「サクライ……?」

 パルコはギョッとした。

「僕の名前を知ってるの?」

「…………」

「一週間を八日間にしたのは、君?」

 パルコをにらむ眼はおびえていた。彼女は無言で首を横にふった。

「こんな夜に、君は何でこんな場所にいるんだ?」

 ファーブルが問いかけた。お前たちこそ、と言われそうだとパルコは思った。

「サクライという大人をここで待っているの」

 パルコとファーブルは顔を見合わせた。

「もしかして、僕のお父さんのこと?」

 それを聞いて女の子の顔が輝いた。

「お父さんって、あなたもサクライ⁈ サクライはどこにいるの?」

「お父さんは……ここにはいない」

「……そう。でも嬉しいわ! あなたもサクライだもの!」

 女の子は声を弾ませて言った。

「そうよ、きっとそう! わたし、あなたたちを待ってたの! サクライにここで待つように言われたの! サクライは、あなたたちがわたしを連れて行ってくれるって言いたかったのよ! わたしずっと待ってたの!」

 彼女はその丸い瞳をキラキラさせた。

「君、いつからここで待ってるの?」

 パルコが尋ねた。

「え? いつって……んーと、いつだろう?」

 古い机の上のランプがジジッと音を立てた。

「あのさ、お父さんに言われたって、一体どういうこと⁈ サクライといつ会ったの?」

 パルコは再び尋ねた。

「ん〜と……いつなんだろ? 確か、ずっと前に典曜日が出来た時よ。わたし、その時サクライに会ったの。約束してくれたわ、地底世界に戻してあげれるかもしれないって」

「……君は一体何者なの?」

 パルコがまた聞いた。

「わたし、地底人なの」

「なんだって?」

 ファーブルが驚いた。

「だから、サクライは地底世界にわたしを返してくれるのよ」

「そう……なんだ?」

「今まで本の中に閉じ込められてたから」

「なんだって⁉︎」

 ファーブルがまた声を上げた。

「でもわたしは地底人よ。地底世界に帰りたい」

「わっけわかんね。でも、これが……」

 ファーブルは言いかけて、パルコに目線を送った。

「これが、お父さんの物語だ」とパルコは思った。もしかして、お父さんが生きていた時にも同じように典曜日がある世界が出現したのかもしれない。お父さんがしたかったことって、この子を地底世界に戻したかったのかな……? 

「君……黄昏れる少女って知ってる?」

 ファーブルが思い出したように尋ねた。

「知ってるも何も、それわたしだもん」

 パルコとファーブルは、キツネにつままれたような顔をして彼女を見た。

 クスッと笑って、彼女は人差し指を天井に向けて、そらんじてみせた。

「ペールブルードットは青年に言うの。黄昏れる少女が地上に姿を現すことで、世界を混沌に巻き込もうとする『灯り』が暗躍する。その少女と『灯り』を引き合わせなさいと。地上にいる灯りは、八番目の夜の闇に乗じて、少女を卵に戻すことが出来るの」

「ユニコーンに借りた本のことだな……」

 ファーブルが確かめるように言った。

「『灯り』っていうのは……やっぱ僕ら『ブルーブラックの明かり』のことなのか⁈」

 パルコが言った。

「サクライはわたしを地底に戻してくれるの。でも、それを良く思わない連中もいるの」

「それが日本政府と地底政府ってこと?」

「『彼ら』よ」

 女の子はそんなことも知らないの? という顔で言った。二人は肩をすくめた。

「『彼ら』ってのは地底人のことだろ? 地底政府の奴らのことかもしれないけど……とにかく黄昏れる少女が地底世界に戻ると何が都合悪いんだ?」

 ファーブルが核心をつくように言った。

「……わたしをここから連れ出してくれたら教えてあげてもいいよ! あっ、あと本にちょっと書いてくれるなら!」

「はあ?」

 ファーブルが呆れ声で言った。その反応にムッとした女の子は、パルコと目を合わす。

「わたし、地底人のアークよ!」

 ファーブルとアイコンタクトを交わして、パルコが言った。

「……わかったよ」

 どちらにしろ、父親の物語を進めないといけないのだ。

「ほんと? やったー!」

「今すぐ教えてくれよ」

 ファーブルが詰め寄った。

「……約束したんだから、約束は守ってよね?」


 事情はこうだ。

 簡単に言うと、大昔に地上と地底の間で交換留学が盛んだった時代があったそうだ。『五五年に一度だけ、地底世界より扉が開く』とされ、それがどういうわけか典曜日の由来となったらしい。この典曜日が存在する一ヶ月の間に、お互いの交換留学生はそれぞれの世界から出発し、また、それぞれの世界に帰らないといけない。

 その取り決めこそが、『シンクの卵』に書かれている。すなわち、地上と地底を繋ぐ架け橋の象徴が『黄昏れる少女』なのだ。黄昏れる少女は、お互いの世界の同意の下で本の中に置かれたのだった。彼女が地底に戻るとき、それは地上と地底の架け橋が無くなることを意味する。

「地底人は、もう地上に出掛けることができなくなるのよ」

 それがどれほど重要な意味なのか、パルコもファーブルもよく分からなかった。

「かぐや姫は月に帰りたいって思ったでしょ? わたしは地球内部のマントル近くにある地下世界に帰りたいの」

「……なんか、ひどいね。その話……」

 パルコが言った。ファーブルも眉間にシワを寄せている。

「でしょでしょ? へへへへ」

「何か、コイツ軽いな……」

 ファーブルが小声でパルコに言った。

 とにかく、彼女を連れ出さないといけないことは目に見えていた。パルコは、父親の物語を引き継がなければいけないと思った。

「本から出るように、お父さんが書き記したんだね」

 パルコが言った。

「逆だよ。イレースした……つまり消したの」

「えっ⁈」

 パルコとファーブルがハモりながら驚いた。

「[黄昏れる少女は本から出ることができない]という文言を消したの。そもそも『シンクの卵』っていうのは、わたしがいないと本を開けないから。サクライじゃなくて、わたしが消したの」

「書いたことを消せる? マジで?」

 パルコが言った。アークはフフンと笑って続ける。

「本のガイドっていうお目付け役がいて、著者と黄昏れる少女を見張ってるの。勝手なことを書いたり消さないようにね。でも、お目付け役がなぜかいなくなったから、その隙にわたしちょっと消しちゃった。」

「なんてヤツだ……」

 ファーブルがまた呆れ声で言った。

「すごいでしょ。サクライが言ったことは本当だった……! 本の外に出れたのよ! わたし、あとは連れ出してくれるサクライを待ってたの!」

 パルコは愕然とした。アークが話していることが本当なら、本のガイドを解放し、さらにアークを本から出すお膳立てをしたのは、パルコ自身に他ならなかった。パルコは怖くなった。一体、どこからどこまでが父親の物語なのか……。

「これでわかったでしょ? さ、今度はわたしの番よ。早く書いて!」

 アークはせかした。

「わかったよ。で、とりあえず本には何て書けばいいの?」

 パルコは聞いた。

「えへへへー」

 アークは恥ずかしそうに答えた。

 パルコは椅子に座り、リュックからペンケースを取り出した。そして、すべるような滑らかさでファスナーを開けて、愛器である万年筆モンブラン146を取り出した。

 なかば無理矢理……といってもいいかもしれない。パルコは『シンクの卵』に追記した。


 秘密組織

「ブルーブラックの明かり」を

 ここに創設する。

 その秘密構成員は……

 ・パルコ

 ・閣下

 ・アンテナ

 ・キキ

 ・ファーブル ・アーク

 ……から成る。

 なお、アークは『黄昏れる少女』をやめることが出来る。


 そう、『黄昏れる少女』アークは秘密組織のメンバーに加わったのだ。彼女の名前を追記したということは、アークもまた本に書き記し『世界を変える』ことができるようになったのだった。

 パルコとファーブルは、流れとはいえ他のメンバーの決議を省略して、相談もなしにメンバーを追記したことを気にした。

「わーい、わたしも秘密組織の一員だ! やったね! わたしも普通の女の子みたいに外に出たかった!」

 それから間もなくして、閣下とアンテナとキキの三人が騒々しく入ってきた。



 まさかこんなことになるとは……。パルコは自転車を引きながら思っていた。

 数分前にファーブルと別れてから、パルコはアークと一緒に並んで歩いていた。

 問題になったのは『シンクの卵』に書いた一文だった。

「アークを連れ出さなければならないことは、流れ的にオッケーだ」

 閣下がランプの光りに照らされながら言った。

 では、勝手に秘密組織に署名させたことは……? アークに交換条件を出して色々教えてもらうことを考えれば、まあ、仕方のないことだったかもしれない、というのが閣下の考えだった。

 また、ユニコーンの帽子の青年の二の舞にならないためにも、むしろ秘密組織に入れておいた方が賢明な判断とも言ってくれたくらいだ。

 しかし、問題になったのは、さらに追記したこの文言だった。

 『交換留学生アークは、パルコの家をホストファミリーとして生活することを問題にされない』

 この文言がキキを怒らせた。

 そして、初めて会ったキキに対して、アークがこのように言い放った。

「そんな怒るなんてヒステリックよ? あーサクライのこと好きなの? わたしもサクライのこと大好きよ! 初めて会ったけどね!」

 というくだりが決定打となり、耳まで真っ赤になったキキを完璧に怒らせた。

「フルッフー!!!(意味不明)」

 この奇声とともに、キキが飛び蹴りを入れようとして、盛大に空振りしてコケた。そのチャンスを逃さなかったアークがマウントをとり、キキのほっぺをつねり出したのだった。

「ワーッッッ!!!」

 アンテナが叫び、場は混乱した。


 キキがあんなに怒るとは、皆んな思ってもみなかった。

 あの後、急いで(焦った)閣下が間に入り、二人を引き離した。それから、アンテナのいつも以上に気の利いたはからいで、ファーブルとパルコはアークを連れて先に帰るよう指示されたのだった。

 さっきファーブルと別れて、パルコはしぶしぶアークを連れて自宅へと向かう。

 真夜中の住宅街はしんとしている。街灯に照らされた二人が無言のまま歩く。

「ごめん……本当にごめんなさい」

 アークは泣いていた。

「……もういいよ、大丈夫だって。とりあえず、皆んなのことは僕が何とかするからさ。今から家人にバレずに家の中に忍び込まなきゃならない」

 と言いつつも、パルコの頭には怒ったキキの顔がしっかり浮かんでいた。

 とりあえず、明日か明後日とかに謝り倒すしかない……。その時、パルコはハッとした。

 そういえば、ファーブルの転校阻止の件も宙に浮いたままだった。あの状態の中、話す余裕もなかった……。


 カーテン越しに家の明かりが灯っていることで、今夜は帰りが早いことにパルコは気がついた。いつも夜中に行動してたが、今日は日暮れから行動してたから、時刻はまだ夜の九時前だった。怒られるとパルコは思った。

 それでもいちるの望みを捨てずに、静かに自転車を狭い駐輪スペースに移動させ、「キイ」とかすかに音を立ててスタンドを起こした。口に人差し指をあてがい、アークに静かにすることを念押して、玄関ポーチについてくるようパルコは合図した。

 ドアの鍵穴に慎重に鍵を差し込もうとした時、不意にガチャリとドアが開いた。

「お帰りー! 意外と早かったわね」

「え⁉︎」

 パルコの母親はニコニコしていた。それが小気味悪かった。

「ご、ごめんっ……電話しようと思ったんだけど……」

「へ? 夕方、真介くんから電話あったわよ? ははーん、アンタ連絡忘れてたね? 真介くんって、ほんとしっかりしてるわねえ」

 そう言って、母親はパルコの後ろに視線を移した。

「あの……」

 パルコが言いかける前に母親が黄色い声を出す。

「いやん、あなた可愛いわねえ! アークちゃん? いらっしゃい! マーヤ先生から全部聞いてるからね。狭い家だけど自分の家みたいに過ごしてね!」

 パルコはポカンとしている。

「あら、言葉通じるのかしら? 地底語? って日本語?」

 相変わらず『シンクの卵』の効力は絶大だった。パルコはホッとしながらも、一瞬で世界を変えてしまう威力を改めて実感した。

 アークは戸惑いながら、しっかりあいさつした。

「サクライにお世話になります! わたし、お腹空いてるの!」

 パルコの母親は一瞬言葉を失った後、大爆笑して二人を中に入れた。



 翌朝、パルコの部屋でゴロゴロしてるアークが言った。

「サクライと約束したんだよ。パルコ、わたしを地底に帰してよ」

 パルコは不思議に思った。コイツ一度も会ったことがないってのに、どうしてこんなに馴れ馴れしいのか? そのくせ、僕自身もアークに対して馴れ馴れしい気がする、と。

「わかってるよ。秘密の名前はメンバー以外に教えたり、みだりに使っちゃダメだからね、気をつけてね」

「ハルはうるさいなー」

 彼女は、もうふてぶてしかった。

「今月の典曜日までに地底に帰れないとどうなるの?」

「……本の中に戻らないといけないのかも。五五年後に地底世界の扉がまた開いても、わたしがいるとは思えないな」

「えっ?」

「サクライは、一度きりの機会だって言ってた」」

「…………」

「地底世界への扉が開く時、夢がつながるって言われてるの」

「夢が?」

「うん。夢がつながるの。シンクの卵に書かれた著者すべての人の夢が。そこで初めて、最初に書いた人と交渉できるのよ。奥の奥の、一番奥のテーブルでね」

 パルコは、純喫茶ナウシャインで出会ったヨハンセンを思い出した。彼も言っていた、テーブルについて交渉しなければならないと。

「夢がつながるって、一体どういう意味? それに、最初に書いた人って……」

「むふふふ」ってな感じで、アークは楽しそうにパルコを見つめて笑っている。

 早いとこユニコーンの審議会で話し合うべきだと、パルコは思った。でもその前に、キキとアークを仲直りさせないといけなかった。

 パルコの机の上に手帳が置かれている。その古めかしい手帳を、しばしアークが見つめてから彼女はそれを手に取った。イスに座って、ペラペラとめくり出す。パルコはしばらく見つめていた。彼女が何か手帳を解読する手がかりについて知っているかもしれないと思ったからだ。

「サクライの手帳だ。サクライが使ってたよコレ」

 ほら来た! パルコはこの前みたいに交換条件を出されないように返答を考えた。興味がないフリをしよう。うん、それがいい。

「ふーん……そりゃ使うでしょ。お父さんの手帳なんだもん。ま、アークには何が書いてあるかわかんないと思うけどね」

「わたしだってわかるわよ!」

「へー……地底人だもんな」

「そうよ、失礼ねえ。わたしだって地底の文字くらい読めるわよ」

「…………」

 なっ……何ですと⁉︎ お父さんの手帳って、地底世界の言語が使われてたの? パルコは小躍りしたい気持ちを抑えて言った。

「交換留学ってのは異文化交流が目的なんだ」

「はあ?」

「僕も地底のことはよく分からないから、正直、色々と教えてもらいたいんだ。その代わり、僕の国や地上のことを教えてあげる」

「えっ」

 アークは、もじもじしながら言った。

「昨日ママさんがくれた食べ物って、どこで手に入るの?」

「……(チョコパイのことか)手に入れるのは、ちょい難しいかもしれん」

「やっぱ貴重な食べ物なん?」

 パルコは何も答えずに、リュックから自分の財布を出した。小銭を入れるサイドポケットを開けて中身を全てカーペットに出した。チョコパイのファミリーパックが買えるお金があることを確認した。この時、パルコは初めて気がついた。

「お父さんの銀貨が無い……」

 声を出さずに、言葉を飲み込んだ。

 交換のルールが発動したんだ、とパルコは悟った。

「多分、ギリで手に入るわ。一緒に行く?」

「行く行く!」

 そして、お父さんがくれた銀貨は、アークを部屋から連れ出すために必要なものだったのだとパルコは確信した。。




「テレホンカードは持ってるの?」

「テレホンカード? 持ってないよ? 公衆電話なんて使わないし、何で?」

「テレホンカードを使って秘密の情報を入手するって手帳に書いてあるでしょ?」

 タコ公園の片隅で、アークがパルコに向かって言った。

「……あー……そう」

 他のメンバーもあっけにとられている。


 公衆電話の受話器を上げると、ツーツーっと発信音が聞こえてくる。

 パルコは鷲の翼が描かれている黒いホログラムカードを、テレホンカードの差し込み口に入れた。これがテレホンカードだったなんてつゆ知らずだ。

「……で、何だっけ?」

 パルコがアンテナに聞くと、アンテナは手帳に貼られているふせんを見て、十四ケタの数字をパルコに読み始めた。アークが手帳の一部を解読してくれたのだ。

「どう見たって謎の文字なんだよな。これをどうやって数字に変換すんだよ?」

 閣下が手帳に記載されている言語を見ながら言った。

 パルコ、閣下、アンテナの三人は、公衆電話ボックスに詰めていた。

 三人とも額に汗が浮き出ている。公園の隅にある公衆電話ボックスからは、かろうじて公園の主であるタコのモニュメントが見える。

 アークは、タコの口から伸びている滑り台をすべっている。その後ろから、追いかけるようにキキがすべって現れた。

 パルコは仲直りしてくれて本当に良かったと思っていた。

「これ、美味しいからあげる。昨日、頬をつねってごめん」

 そう言いながら、アークは冷蔵庫で冷やしたチョコパイをキキに渡した。保冷剤を入れた紙袋を受け取り、キキは許してくれたようだった。

 それからアークは、まだおぼつかない自転車に乗る姿を皆んなに自慢してから、キキに特訓してもらった。驚くべきことに、アークは初めてにもかかわらず、パルコのお古の自転車をすぐに乗ってみせた。

「ファーブルも来れたら良かったのに」

 パルコがつぶやいた。

 今朝、早くからみんなの家に電話して、急きょタコ公園に集まってもらったのだが、ファーブルとは連絡が取れなかった。

 アンテナに言われた数字を入れ終わって、三人はかたずを飲んで、次に何が起こるか待っていた。受話器から電子音が鳴り、次にパイプオルガンらしき音が聞こえてきた。

 そして、音声録音されている声が聞こえ始めた。

[現在、発生シテイル秘密ハアリマセン。過去ノ秘密記録ヲタドル場合ニハ①ヲ、進行シテイル秘密ヲタドルニハ②ヲ……]

「これって……」

「パルコ、オレらが秘密組織を結成した日を覚えてるか?」

「もちろん! 僕の誕生日の一日前だもん。入れてみよう」

 パルコは①を押して、過去の秘密記録をたどることにした。

[過去ノ秘密記録ヲタドリマス。紀元前ハ①ヲ、紀元後ハ②を……]

 というように、時間はかかるがパルコはいちいちナンバーを入力していった。

[五月一日ノ秘密ヲ公開シマス……午後一一時二十三分二十二秒……秘密組織ブルーブラックノ明カリヲココニ創設スル。ソノ秘密構成員ハ……パルコ、閣下、アンテナ、キキ、ファーブル……カラ成ル]

「……すごいコレ」

 パルコがつぶやいた。

「本当に、本に書いてある秘密がたどれるんだ!」

 アンテナが感嘆の声を上げた。

「まさか過去の全ての秘密を追えるのか⁈」

 今度は閣下が言った。

「わかんない……でも、お父さんが書いた秘密を確かめなきゃ!」

[……著者『サクライアキ』ノ秘密ハ全テ非公開トナリマス。指定レベルハ特別指定級トナリ、解除スルコトハ不可能デス]

「…………」

「そんな気がしたんだよな」

 蒸し風呂状態となった公衆電話ボックスの中で、閣下がため息混じりに言った。

「……てか、暑い。もう倒れそう」

 アンテナが汗びっしょりで言った。


 その日の午後、急きょ「純喫茶ナウシャイン」で夏休み最後のユニコーンの審議会が始まろうとしていた。

 ポニーテールの女性は、新メンバーを大いに喜び、炭酸ジュースとチョコレートパフェを振舞うことを約束し、すぐに店内の奥に向かっていった。

「夏休みの最終日、最後の典曜日は来週だ。今日入れて、あと七日しかない」

 閣下が鼻息荒く言った。

「地底世界への扉はどこにあるんだろう?」

 アンテナがつぶやいた。秘密メンバーは手がかりを探していた。

「…………」

 一同に沈黙が走るが、閣下がそれを壊した。

「ファーブルと連絡がつかないな」

「どうしたのかね、ファーブル……」

 アンテナが心配そうに言った。

 パルコは、まずファーブルのことを話さなければいけないと思っていた。

「ファーブルが内緒にしといてって言ってたんだけど……」

 パルコは申し訳ない気持ちで、アークを含むメンバーに話し出した。

 ファーブルが転校してしまうこと、この夏休みまでしか会えないこと、『シンクの卵』に転校を阻止する文言を書こうとしてたこと、それが出来ていないこと……。

 パルコの話を聞いた四人はしんみりしてしまった。しばらくの沈黙の後、閣下が立ち上がった。

「ファーブルを迎えに行こう」

 こんなとき、やはり閣下は頼りになった。いてもたってもいられない時、閣下はちゃんと行動に移して教えてくれるのだ。

「うん……!」

 賛同したパルコとアンテナとキキも立ち上がった。アークは遅ればせながら、立ち上がって言った。

「チョコレートパフェ食べてからじゃダメ?」

 それを聞いた四人は笑ってしまった。



 ファーブルの自宅には誰もいなかった。アンテナがため息を吐いて言う。

「もう転校しちゃったのかな?」

「別れのあいさつも無しにか? 転校手続きの準備とか?」

「ファーブルは簡単にあきらめないよ!」

 パルコは自分でもわかっていた。自分が口にしたのは、ほぼ願望だってこと。

「やっぱミフネさんのとこじゃない?」

 アンテナが言った。

「何でだよ」

 パルコがツッコミを入れた。

「ユニコーンに借りた本を研究してるかもな。……いや、政府がいそうなとこにわざわざ行くか?」

 と閣下。

「それより廃工場に言ってみようよ。『シンクの卵』に書きに行ってるかもしれない」

 パルコが提案した。

「一人でか? 相談もなしに? てかアークがいないと本が開く条件に満たないだろ?」

「あ、そっか……そうじゃん」

 パルコは落胆してから、すぐに気を取り直した。

「ユニコーンの帽子の青年を探そう! アークの帰り方を知ってるかもしれない!」

 パルコが言った。

「そうだな……じゃ、とりあえずミフネさんのとこに行ってみるか……」

 キキがアークに耳打ちして、アークが代弁した。

「結局そこかよ」


 もう夕暮れだったがまだ十分明るかった。

 市街地に近づいてきた時、五人を隠した影が襲った。五人だけではない……街全体が影に覆われてしまった。図書館の大きな窓ガラスや、立ち並ぶビルの窓に、銀色に光る巨大な楕円形の物体が浮かんでいた。

 ちょうど、パルコたちのいる場所から、小学校の校舎が見えて対比するようにそれがあった。教室の窓ガラスに反射した青空に、推定何百メートルという直径の超巨大な銀の卵が浮かんでいる。卵の表面は金属みたいな質感で、ダンゴムシやザリガニの体節のような形状だ。ひっくり返ったように卵の幅員が狭い頭頂が下に向いている。

 西日に照らされる銀の逆卵は奇妙な光景だった。青空から夕暮れに変わるグラデーションに、巨大な銀の卵はとっぷりと浮遊しており、ビルや飛行機雲とよく映えた。

 パルコたちは、この異常な光景に、また秘密が発生したことを確信した。

 これも父親が書き連ねた『シンクの卵』の物語だろうか? アークを本の中から出したからこうなったのだろうか? きっとそうだとパルコは思った。

 五人は銀の卵から少し離れた場所で、その卵の様子を見ていた。特に何が起こるわけではない。落ちてくるわけではない。パルコたちと同じように、人々は銀の卵の様子を見守っていた。ビルの窓から顔を出して写真を撮る人、指をさして隣りの人と話してる人、慌てながら動画を撮る人、静かに図書館のテラス席から見つめている人……ファーブルに似ている……え? ファーブル?

「ファーブルだ!」

 パルコが叫んだ。

「えっ……どこ⁉︎」

 アンテナが目で追うが見つけられない。

 ファーブルは、テラス席に腰掛けて、銀の卵の方角を向いていた。やがて、隣りの大人に促されるように席を立って、建物内の柱の影に消えた。

「どこ?」

 アンテナはまだ探している。パルコは確かにこの目で見た。

「…………」

 ファーブルが、細身スーツの男……すなわち南十字と一緒にいる姿を、確かに見た。


「あ〜っ疲れたー……」

 アークは帰るなり、玄関の床に寝転び大の字になった。

「あらあらアークちゃんお帰り、お疲れねえ」

 母親はニコニコ顔でアークを迎え、まるで手のかかる娘のように世話をし始めた。

 ぐでんとなったアークを引っ張り、足をすくい上げてサンダルを引っぺがした。アークは、なすがままにされて母親の顔をぽけーっと見ていた。

「アーク、手を洗うよ」

 パルコが言った。

「はーい」

 それから晩御飯を三人で食べた。

 アークは初めて自転車に乗っただとか、初めてチョコレートパフェを食べたとか、初めて友達と仲直りしたとか、初めてだらけの一日のことを嬉しそうに話した。

 パルコは、本当の家族みたいだと思った。

 テレビニュースは、もっぱら謎の銀の卵の映像大放出だった。インタビュアーもコメンテーターも、宇宙人やら地底人やら火星人やらの秘密基地だとか、言いたい放題だった。

 結局、ファーブルと会えずじまいで今日を終えてしまった。

 また明日もあるさと、パルコは自分に言い聞かせた。アークが母親と一緒に洗い物してる。アークと昨日出会って、今日だ。仲良すぎじゃない? パルコは不思議に思った。

 お風呂から出たあと、パルコがアークに語り出した。

「芯を削るにも、芯ホルダー専用の芯研器というものがあるんだ。削り方が面白いんだ。芯ホルダーを芯研器の穴に入れてグルグル回すんだ!」

 パルコの部屋の机に置いてある芯研器で、実際に使って見せた。

「へえ〜」

「ちなみにマルステクニコ自身にも芯削りが隠されているんだ。それは、実はノックボタンの中に組み込まれているんだ。これはあまり知られていないんだ」

「えっ、すご〜い!」

 アークは目を輝かせて感嘆の声を上げた。

「…………」

 初めてだった。マルステクニコの良さを理解して、パルコに同調してくれる人は。

「あげるよ!」

「えっ? いいの⁉︎」

 言った自分が信じられなかった。

 ブルーが光るマルステクニコ……パルコの普段使いの相棒のはずだ。それを二、三日前に知り合ったばかりのアークにあげるなんて……! でも、あげたくなったんだ。

「ありがとう。地底に持って帰るから!」

 ドキッてなった。そうだ、アークは帰らないといけないんだ。

 その日の夜、アークとパルコは同じ部屋で寝ることにした。

 パルコは、アークの話がもっと聞きたかった。部屋の明かりを小さくして、パルコのベッドに二人して横になった。

「地底世界はどんなところなの? 生まれた時は地底にいたの?」

「多分そうだと思う……あまり覚えてないけれど、地底といっても土の中じゃないのよ」

「えっ」

「すごく美しいの。地上と違ってみんな服は着ないし、恥ずかしくもないの。地上にいると、なんだか恥ずかしいけれど。自然というか緑いっぱいで、植物がとても多いのよ。植物が生活の基本なのよ。多彩な植物を使って生活するの。食べる植物、道具として使う植物、考える植物、こらしめる植物……あらゆることが植物を通してるの」

「あまり覚えてないって言ったけれど、そんなことないじゃん」

「ほんとだ、故郷のことを思い出そうとすればするほど、こんなにたくさん話せるのね。きっと心の奥は故郷とつながってるのね」

 そう言ったアークの横顔は、懐かしむように笑顔だった。

 


 朝が来て、パルコは新鮮な風を入れるために窓を開けた。

 日曜日の朝は静かだった。

 二階の窓から見える近くの電線に、ツバメが二羽とまっていた。彼らは九月頃になると、日本を離れて暖かいマレーシアやインドネシアに向かう。これから南下するのだろうか? それとも南に向かう途中のツバメだろうか? パルコは得した気持ちになって、パジャマのまま階下に降りていった。

 いつものようにカレンダーに目を通して、今日の予定を確認した。当たり前だけど、典曜日がある世界だ。木曜と金曜の間にある日なんて嘘なんだ。でも、それが本当だったなんて証拠はない。

「本当は典曜日がない世界だったなんて、だれも覚えちゃいないんだ。僕だって、いつかそれを忘れてしまう気がする。だって、何不自由なく世界が続いていくんだもん」

 お父さんが死んだ日だって、翌日はちゃんと来たし。

 まだ朝早い時間だ。アークは寝ている。昨夜、閣下から電話があって、今日の早朝に閣下の家に行くことになっている。話がしたいって。パルコは自転車にまたがった。


「ファーブルって何者だ?」

 唐突に閣下が言った。

「えっ?」

「細身のスーツの男と一緒だったよな。アイツが南十字ってヤツじゃないのか?」

「閣下も見たんだ? 昨日のファーブル……」

「隣りにいたヤツは誰だ?」

「多分、南十字だと思う……。ファーブルと、どういう関係なのかは知らないけど……」

「それに、最初に会った時も何かおかしくないか?」

「おかしいって?」

「何で夜遅くに公園にいたんだよ? ファーブルはたまたま塾の帰りで寄ったって言っていたけれど……なんか出来過ぎじゃないか?」

「そんなこと言ったら、僕らだって十分おかしいよ。夜中に公園に集合してたし」

「ま、そりゃ確かに」

 閣下がそんなこと考えていたなんて意外だった。


 閣下と話した後、パルコはすぐに家に戻った。朝食を抜いて来たので空腹だった。玄関のドアを開けると、母親が不思議そうな顔をして来た。

「アークちゃんは一緒じゃないの?」

 確かにアークの自転車がない。パルコは胸がザワザワし始めた。

 世話のかかる地底人だと思いながら、パルコはついさっき停めた自転車にまた飛び乗った。

 パルコは図書館のある市街地まで自転車を走らせた。

 逆さまにした卵型の銀の球体……その底部に渦巻き状の穴が空いていた……!

 メインストリートには銀の逆卵を見学しようと多くの人が出ていた。パルコは人だかりにすれ違うたびに、アークが紛れていやしないかと捜し始めた。

「…いない……いないな…どこに行ったんだよ」

 悪態をつきながら、パルコの目は泳いだ。

 気づけば太陽が少し上がっていて、パルコは汗だくになっていた。セミの声も人々の声も、パルコの耳には届かなかった。自分の荒い呼吸音だけが響いていた。

 銀の逆卵の真下には、底の穴を覗こうと、たくさんの人だかりが出来ていた。

 アークが言っていたことが頭の中で繰り返される。

「地底世界への扉が開く時、夢がつながるって言われてるの」


 人だかりの中にアークがいた。

 パルコは自転車を交差点のガードレールに立てかけた。

「アークっ!」

 少年の叫び声がその場に響いて、アークはパルコの方を見た。それからアークの笑顔が炸裂して、パルコもホッとした様子で笑った。二人は駆け寄った。

「アーク!」

「あれは『シンクの卵』よ! そして地底世界への入口だと思うの! 典曜日が終わる時に、きっとあれが閉じてしまうんだわ!」

 パルコが何か言おうとした時だった。

 聞き慣れた声がパルコの身体を引き戻した。振り返ると、そこにはハリウッドスターが満面の笑みで立っていた。

「ヨハンセン!」とパルコは喜びの名前を呼ぶところだった。その隣りには、細身スーツの男である南十字が立っていた。

「パルコ! 久しぶりだな! 元気にしてたかい?」

 パルコはたじろいだ。いつものヨハンセンなら、秘密のアダ名をみだりに使ったりしない。ヨハンセンは、どこかおかしい。

「どうした? そっちの可愛い女の子は誰だい? パルコ、君はプレイボーイだな」

 そう言いながら、ヨハンセンのこめかみから一筋の汗が流れた。

「こちらは私の友人なんだ。どうやら君の知り合いみたいなんだが……」

「桜井君、少し近くのテーブルで話しを聞けないかな?」

 南十字は冷めた顔で、パルコとアークの顔を交互に見る。

 ヨハンセンが割って入る。

「そういえば、手紙は届いたかな? つたない字で書いてしまったが、ちゃんとメッセージを読んでくれたかな?」

 そう言ってヨハンセンは、不自然に何度も右眼をまばたきしてみせるのだった。

 その瞬間にパルコは理解した。ヨハンセンが必死に危機を伝えていることを!

 手紙……「気をつけること」!

 ヨハンセンは、多分脅されているんだ!

「うん! ちゃんと読んだよ!」

 ヨハンセンは笑顔で、今度は左眼をまばたきしたあと、パルコの後方にある路地に目線を送った。逃げろってことだ! パルコは察した。

 それから、ヨハンセンは大げさに南十字に振り返り、彼の視界をさえぎった。パルコはアークの腕をつかみ、振り返ってダッシュした。後方から何か叫び声が聞こえてきたが、無視して路地に飛び込んだ。


 ここを抜けると確か図書館の裏手に出るはずだ。どうしよう? ミフネの家に一旦かくまってもらうか? 考えるヒマもなく後ろから南十字が追ってきた。

 図書館の裏手に出ると、スーパーマーケットのバックヤードが目に入った。トラックが一台停まっている。商品の仕入れの際に使う裏口があるはずだ。そこから店内に入って隠れようとパルコは閃いた。

 パルコとアークは歩道の縁石を飛び越えて、道路を横断して一目散にトラックに向かった。道路のセンターラインをまたぎった時、左右両側から来たノッポでダークグリーンのスーツの男女に取り囲まれてしまった。同時に、黒光りするセダンの車が急停車して横についた。

 パルコとアークは、腕をつかまれて身動き取れなくなった。が、パルコはノッポの男と眼を合わせ言い放った。

「テーブルにつけっ!」

 ノッポの男の動きが一瞬止まったかと思いきや、彼は言った。

「残念、本物の地底人なんだ。本に書かれた架空種じゃあない。勇気は認める」

 当てずっぽうだった。パルコは、本に書かれた人物ならば、ユニコーンの帽子の青年のように交渉ルールが使えると思ったのだった。

 アークが車の後部座席に押し込まれたのを見て、パルコはなおもジタバタする。南十字も路地から出てくるのが見えた。力で押さえこまれ、パルコが観念した時、ノッポの男が急に倒れた。

「ファーブル!」

 パルコが叫んだ。ノッポの男は不意にファーブルに突進されて転んだのだ。ファーブルはパルコの手を取って逃げようとした。

「アークがっ」

 パルコが振り返った時、車のドアが閉められて黒光りの車は去ってしまった。

 アークがさらわれた。



 何がなんだか訳もわからず、パルコは歩道の縁石に座ってうつむいていた。隣りにはヨハンセンが座っている。

 ヨハンセンは、低い声でパルコに説明した。

「私は日本政府に『ブルーブラックの明かり』の疑いをかけられていたのだ。それをファーブルがナウシャインの店主に伝え、私は店主から連絡を受けたのだ。ファーブルが教えてくれなければ、すぐに身柄を拘束されていただろう」

 南十字がファーブルの頬をバチンッとぶった。

 パルコはギョッとした。ファーブルは冷静で、黙っている様子だった。

 だが、パルコは黙っていられなかった。

「何をするっ!」

 南十字はパルコに一瞥して、またファーブルに向かって言った。

「お前は家に帰っていなさい」

 今度はファーブルが口を開き、言った。

「オレだって『ブルーブラックの明かり』なんだ。パパの言う通りにはならない!」

 そうか、そういうのことか。ファーブルのお父さんが南十字だったんだ……!

 ファーブルがパルコに近寄った。 

「ごめん、オレのパパが日本政府の裏の職員だったんだ。それを知ったのは、ほんとに最近で、オレどうしても言えなかったんだ……。だって考えてもみてよ、オレ、秘密組織の潜入捜査官みたいじゃん? でも、絶対違うから! オレがみんなと一緒にいると逆に迷惑がかかると思って、なるべく一人でいるようにしてたんだ……」

 それを聞いて、パルコは笑った。ホッとしたのだ。

「なんだそんなこと。わかってるよ、ヨハンセンを助けてくれたんじゃん? 秘密メンバーには何でも言えよ。閣下は、本当に心配してたんだぞ。様子がおかしいって」

 ファーブルは、それを聞いて安心した。

「僕、ファーブルの転校のこと、皆んなに話したんだ。皆んな心配してるんだ。皆んなファーブルに会いたいんだ。でもアークが……」

「うん……典曜日まで時間がない」

 パルコの隣りにファーブルも座る。ファーブルは小声で話した。

「昨日パパが来た時、夜中にヒソヒソ声で言ってたんだ。『シンクの卵』の居場所が変わったとか言ってたんだ。行方不明になったって大騒ぎしてる。どういうことだろう?」

「……わからないな。『不必要の部屋』のありかが変わった? でも、見つかったってアークがいなきゃ世界は変えられないよ」

 南十字がパルコに近づいてきた。パルコは立ち上がって面と向かった。次いでファーブルとヨハンセンが立ち上がる。ファーブルが、パルコを守るように一歩前に出た。

 南十字が無感情で言った。

「地底政府から『黄昏れる少女』を保護したと連絡が入った。数時間後には、我々日本政府も、すべての問題が片付けられたことを世界に向けて公式発表するだろう」

「すべての問題だって? パパの気は確かなの?」

 ファーブルは怒っている。

「君たち子ども組織の処遇は、追って報告しよう。なんせ前代未聞のことが山のように起きている。まさか秘密を作り出した『ブルーブラックの明かり』が小学生だったとはね」

「その内の一人は息子だけどね」

 ファーブルが皮肉を交えて言った。

「アークはどうなるの? 自分の故郷に帰れるの?」

 パルコはそのことで頭がいっぱいだった。彼女を地底に帰さなければならないが、彼女が望む故郷に帰れなければ物語を継いだ意味はない。

 南十字はパルコの言葉にハッとした様子だった。横目で、息子であるファーブルをチラッと見てから、彼はパルコに向かって言った。

「彼女は地底政府に引き渡された。私もわからないんだ……本当にごめんよ」

 南十字は本心で話しているようだった。

「僕、アークとどうしても話したいんだ。おじさん……ファーブルのお父さん、何とかならないかな⁉︎」

 南十字は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに冷たい目に戻り答えようとしたが、口を開いたのはファーブルだった。

「お願いだよパパ! 何とかアークと連絡とれないの⁉︎ 僕たちはアークを故郷に戻さないといけないんだ!」

「…………」

 南十字は困った顔をした。まるで子どもに駄々をこねられた父親の顔だった。

 でも、彼はもう何も言わなかった。



 帰宅すると、母親は何も言わずにパルコを心配そうに見つめた。少し前に、日本政府と学校側から連絡を受けていたのだった。

「アークが……」

 そう言いかけて、パルコの瞳から大粒の涙があふれて、パルコはワンワンと泣いた。

 母親は何も言わずに彼を抱きしめた。父親が死んで以来だった。パルコが母親に涙を見せたのは。


 『ブルーブラックの明かり』あてに連絡が入ったのは、三日後の午後だった。つまり典曜日の二日前だ。

 純喫茶ナウシャインの一番奥のテーブルに座っていたメンバー五人とヨハンセンは、朝からずっと待っていた。というのも、日本政府の役人で、ファーブルの父親である南十字から指示されていたのだった。

 店内の隅に使われてないピンク色の簡易公衆電話がある。それは、もはや電話のベルが鳴ることはないのだが、その日は鳴った。

 パルコたちから事前に連絡が来ると聞いていたが、こんな日があるものかとポニーテールの女性はカウンター越しに不思議に思っていた。

 パルコを除くメンバー四人とヨハンセンは、ピンク電話の正面に立つパルコを囲んで固唾を飲んで見守っている。

 ベルが鳴るその受話器を、パルコは取った。受話器をとると、すぐに電話交換手につながった。

「パルコ様ですね?」

「は、はい……!」

「アーク様とお話になられます。それではどうぞ」

「え?」

 カチンと音が聞こえて、誰かの息づかいが聞こえてきた。

「パルコ?」

「アーク?」

 同時に言ったみたいだった。パルコは嬉しさのあまり飛び跳ねた。四人と顔を見合わせてアイコンタクトを送った。四人とも喜んだ。ヨハンセンにも合図すると、彼は親指を立てた。

「大丈夫かアーク⁉︎ ひどいことされてないか?」

 アークはケタケタ笑って、大丈夫だと返答した。

「ひどいことなんかされないわ、地底人は地上の人よりずっと平和的なの」

「あー、良かった」

「パルコ……わたし、わたし……故郷には戻れないかもしれない。でも大丈夫だから! 心配しないでね!」

 すぐにそれが強がりだと、パルコはわかった。

「…………」

 何て声をかけたら良いのだろう? アークは強がってる。

「僕たち秘密組織じゃんか? 何でも話しちゃえばいいんだよ? 言いたいこと言えばいいよ。全部聞いてやるから……」

 それしかできないのだから、だからパルコは、アークの心の痛みも分かち合いたかった。受話器からアークが泣く声が聞こえてきた。 

「ねえパルコ……わたし、やっぱりパルコの家に戻りたい。ママさんのご飯もっと食べたい。冷蔵庫に残してあるチョコパイ、まだ食べてないんだよ?」

「全部食べ物のことじゃん」

「ほんとだ。でも戻りたいって言ったよ」

「じゃあ、連れ戻しに行くから待ってろよ」

「え?」

「オレら『ブルーブラックの明かり』だから」

 これが、パルコができる最大の強がりだった。

「……わかった。待ってる」

 エヘヘとアークは笑ってる。

 それから皆んなに受話器を回して、一人ずつ話していった。キキは電話なら大丈夫なのか、泣きながら普通に話していた。アークは最後に皆んなに伝えたいといって、受話器を耳から話すよう言ってきた。

「交換留学、楽しかったぜえっ!」

 そうして電話が切られた。まるで、もう会えないような言い方じゃないか。パルコは泣くのを我慢していた。

 

 電話が切れた後、再び皆んなで話し合い、やはり廃工場に行くことにした。

 『ブルーブラックの明かり』はすぐに行動した。いや、何かしていなければ、メンバー全員、頭がどうにかなりそうだったのだ。何でもいい。行動しなければいけなかった。

 しかし、ヨハンセンの言った通りだった。

「君らが動けば、その行動は筒抜けになる」

 問題なのは、日本政府と地底政府から監視を受けていることだった。

 廃工場につながる山道の手前には、バリケードが設置されていて通行止めになっているし、(多分)日本政府側の警備員がウヨウヨいて、簡単には山の中に入れさせてくれなかった。

「それでも確かめる必要があるんだ。今すぐにでも世界を変えなきゃいけない!」

 パルコが言った。 

 用水路の土手に座って、五人は考えあぐねていた。キキもアンテナも持参した水筒を両手で持って水分補給している。

「そうだな、もう一度廃工場に行って、本当に本が無くなっているのか確かめないとな」

 閣下が言った。

「どうやって?」

 アンテナが手の甲で口元をぬぐいながら、口を挟んだ。

「…………」 

「廃工場にオレらを行かせないようにしてるのは、きっとパパの指示だ。それでも、今日パルコの訴えを聞いてくれたのは奇跡だと思ってるけど……」

「……うん。アークとの連絡を取り持ってくれた。ファーブルのお父さん、優しいよ」

「…………」

 ファーブルは眉間にシワを寄せて黙りこくっている。

 結局どうしようもできず、メンバーは一時帰宅を余儀なくされた。


 もう明日が典曜日だった。

 アークのためにできることは、もうないのだろうか。パルコは空を仰いだ。

 街の上空にそびえる銀の逆卵は、相変わらず、底部にぽっかりと穴が空いていた。この前見た時より、穴はだいぶ広がっていた。アークは、地底世界への扉だと言っていた。

 踵を返して、パルコは自転車のペダルをこいだ。街中を脱出したいと思った。テレビニュースも人々も、この卵を取り上げるくせに、そのくせこれが何なのか知りもしないのだった。

 自転車に乗って風を切って、パルコは坂道を下った。入道雲がぐんぐんと成長している夏らしい夏だ。それを背景に、パルコは思い切りペダルをこいだ。走っても走っても、アークの顔は消えなかった。

 気がつけば河川敷にいて、堤防の上で高架線上を突っ切る新幹線を見下ろしていた。

 高架線下のトンネルの影に、黒光りの車が停まっている。

 運転席の人間が自分を見ていることにパルコは気づいた。自分が重要人物なんだと、初めて自覚した。秘密組織『ブルーブラックの明かり』を結成して、今日まで皆んなと一丸となって、本の謎解きをしてきたが、世界を変えることができる主人公なんだと、初めて理解したのだった。

 それなのに、何も変えれないなんて。何も解決できないただの子どもだと、パルコは思った。なんてつまらない物語の主人公なのだと、パルコは笑ってしまった。

 そんな時に、アンテナとファーブルがやって来た。

「電話したんだよ」

 とアンテナが言う。

「こんなとこまで散歩?」

 と笑ってファーブルが言う。

「引っ越しの手伝いは、午後からじゃなかったっけ?」

 とパルコが言った。

「そんなのはいいから遊ぼうよ」

 ファーブルが言った。

「ハハハ」

 パルコは笑った。小学生っぽかった。

「さっき声をかけたから、閣下とキキもこっちに向かってるよ」

 またファーブルが言った。彼は何かを吹っ切った顔をしていた。

「悔しいよ。何もできないんだよ?」

 パルコが言った。

「そんなことないよ」

 アンテナが返す。

「だってさー……」

 パルコがトンネル下の黒い車を見る。

「アイツら、オレらのこと、どこまで付いてくる気なんだろ?」

 ファーブルが言った。

「試して……みる?」

 アンテナが提案した。三人とも笑った。

 そんな時に、閣下とキキが合流する。奇跡の秘密組織だ。

 五人で円陣を組んでゴニョゴニョしてる様を、黒光りの車に見せつけた。それから五人は一斉に自転車に飛び乗って、風を切って堤防を駆け抜け始めた。外でタバコをふかしていた運転手は、慌てて黒光りの車に乗り込んだ。それを見た五人は、鮮烈な青空に高らかに笑い声を上げた。



 全員汗だくで自販機の前にいた。

 キキがどの炭酸ジュースにするか迷っている時だった。

 アンテナが「まだ〜?」と乾杯するのを、今か今かと待っていた。

 突然、頭の中に声が響いてきた。少しエコーがかったその声は、パルコには聞き覚えがあった。

 間違いない……お父さんの声だ!


[全世界と全地底の秘密を知る諸君らに告げる。地球は卵だ。秘密の卵だ。中身は何なのか誰も知らない。『シンクの卵』は誰にも渡さないつもりだ。これは私のお遊びだが、ぜひ卵の探索にお付き合い願おう。諸君の旅路が少しでも実りあるものとなることを願っている。ヒントは最後の典曜日……海岸線二〇五号室で行われる。もちろん『黄昏れる少女』も一緒だ]


 これが頭の中を駆け巡った。

 秘密を持っている人間たち……だけじゃない! 不思議なのは、すべての人間がこれを聞いたというのだ! いや、聞いたというより、体感したと言った方が良い。

 なぜなら、これは耳が聴こえぬ人間も聴いたのだった。そして、同時刻にどこの国でも、時差なく聴いていることが問題となった。後日、専門家はこのように結論付けた。

「人の内側で起きた現象だと」

 世界中でこの謎が巻き起こった瞬間だった。頭に響く声が述べる『海岸線二〇五号室』とは何なのか、世界中が探索し始めた。


 ある晩、その日もストーリーテリングが終わると、父親はふと眠たそうに言った。

「じゃ、続きは夢の中でな。海辺にあるアパートの二階にいるから、ちゃんと来いよ?」

 パルコは、「なにそれー」って言って、ケタケタ笑って、二人一緒に眠りについた。

 それから、ストーリーテリングが終わったら『海辺のアパートの二〇五号室にいるから、暇だったら遊びに来てね』ごっこが始まった。これは、パルコの中にある、大切にしている父との思い出だった。


 黒いホログラムカードを財布から取り出して、パルコは電話の差し込み口に入れた。見知らぬ土地の公衆電話ボックスに、パルコたち五人はいた。扉を開けっ放しにして、彼を取り囲むように四人が見守っている。

 

 [タダイマ、計測不能ノ秘密ガ発生シテイマス……タダイマ、計測不能ノ秘密ガ……]


 たった今、世界を変えてしまう秘密が発生したのだった。これは間違いなく、そもそもパルコの父親が書いていた物語の一部だということがわかった。

「なんか、やばそうな秘密が破裂したっぽいね……」

 アンテナがおびえた。

「やばいっていうより、面白そうな秘密だよな」

 閣下がニヤッと笑う。

 パルコは、イタズラ好きな父親の声が聞けて嬉しかった。が、やっていることは大ごとなのだった。キキがパルコに耳打ちする。

「うん……! 海岸線二〇五号室に、アークがいるんだ! お父さんは確かに『黄昏れる少女』がそこにいるって言ってた! アークはそこにいるんだよ!」

「監視の目がきつくなるかもね」

 ファーブルが、黒光りの車から降りてくる男を見て言った。

 『シンクの卵』は行方不明になってはいない。

 パルコは確信していた。父親が言ったことが確かならば、『シンクの卵』は廃工場ではなく、『海岸線二〇五号室』にあるのだ。

 そういうことならば……今すぐに僕たちは引き返さなければならなかった。

 パルコは考えていた。なぜなら、パルコはその場所を知っているから。

 でも……自信を持って断言するには、とても勇気のいる判断だった。

 パルコは意を決して小声で話した。

「『シンクの卵』のありかがわかったんだ」

 四人は驚いた。

「海岸線二〇五号室のことか⁉︎」

 閣下が言った。

 パルコは頷いた。

 それから五人は、車の男が近づいてくる前に自転車に乗って、サイクリングロードに向かった。自転車を走らせながらパルコは話す。

「お父さんは……『シンクの卵』を夢の中に隠したんだ!」

「……はあ⁉︎」

 ファーブルがすっとんきょうな声を出した。

「だろ? 自分でもおかしなこと言ってるってわかってる。ほんと馬鹿げてる。正直言って、自分だって本当にそこにあるのかわからない。けど……」

 けれどパルコは、あの頭の中で聞こえた父親の声は、自分に向けられた気がしてならなかった。父親がパルコに言っている気がしたのだ。

「夢に懸けてみろ」って。

「……その情報は確かなのか? パルコの親父のことさ、お前が一番知ってんだ」

 閣下が言った。

 パルコは、自分の中でもう一度繰り返し考えた。

「うん……! あの声は、僕に向けられたメッセージだ! 海岸線二〇五号室のありかは、お父さんと僕しか知らないはずなんだ!」

「よし! オレは信じるぞ。他のやつは?」

「もちろん僕も!」

 アンテナが言った。

「ははっ、信じられないけど信じるよ!」

 ファーブルも応えた。

「クルックー」

 キキも鳩マネで賛同した。

「僕たちは、ヤツらに構ってるヒマなんてないんだ。すぐに家に帰って、ファーブルを送り出す準備をやって、明日はナウシャインで壮行会を開いて、めちゃくちゃ楽しんでさ、ちゃんと夏休みを終わらせなきゃ!」

「…………」

「それで……それで家に帰って、いつも通り寝る準備をして、眠ってからは『ブルーブラックの明かり』全員で海岸線二〇五号室に集まってさ……『シンクの卵』で絶対にアークを故郷に帰すんだ!」

 閣下もアンテナもキキも、そしてファーブルも大きくうなずいた。

「それでこそオレらだな!」

 閣下が実に賛同した。

「それでこそ『ブルーブラックの明かり』だよ!」

 アンテナも言い切った。

「ちゃんと送り出してくれよな!」

 笑ってファーブルも言った。

「クルッククルックー」

 キキの鳩マネが炸裂して、皆んな笑った。




 夏休み最後の日、そして最後の典曜日が来た。

 その日の午後、純喫茶ナウシャインは貸し切りだった。

 秘密メンバーの五人とヨハンセン、ヨハンセンの父親、ポニーテールの女性、それにミフネが集まって、ファーブルの前途を祝した大壮行会がとり行われた。

 ファーブルのあいさつから始まり、乾杯の音頭をヨハンセンがとって宴会となった。ミフネもヨハンセンも歌が上手く、仲良くデュエットしてカラオケを披露した。ごちそうはポニーテールの女性が腕を振るって用意した。ミフネはオススメの本を全員にプレゼントした。ヨハンセンはメンバーからのリクエストで、映画のワンシーンのセリフを再現して大いに場を盛り上げた。

 壮行会も終わりに近づくと、メンバーからのサプライズで、ファーブルとキキにオリジナルバッジが贈られた。これは、秘密組織の中で活躍した人に贈られる栄誉あるバッジだ。 それから一言ずつ、ファーブルに向かって言葉を贈り、皆んなして泣いた。

 そして、とうとうファーブルの壮行会が終わった。


「諦めて家に帰ったテイだな」

 閣下が、タコ公園で辺りを注意深く見回してから言った。

「へんなの。今日の真夜中に夢の中に集合なんてさ」

 アンテナが不思議そうに言った。

「ほんとにほんとだよ」

 とパルコも心から言った。

 一同、それがおかしくて爆笑した。

「キヒヒヒヒ」

 キキが声出して笑ってる。

「言った張本人じゃん!」

 ファーブルが突っ込む。

「お前が言うなよ!」

 閣下も突っ込む。

「爆死するわ」

 アンテナのそのセリフで、また皆んな笑う。

 僕たちは、何が起こってもきっと大丈夫だ。無敵な気がしてパルコはそんな気になった。

 ファーブルが言った。

「皆んな、本当にありがとう。『ブルーブラックの明かり』で良かった。こんな楽しい一学期は生まれて初めてだった! あの日の夜、塾をサボってタコ公園でブラブラしてて、ほんとに良かったって思ってる!」 

 それを聞いてみんな爆笑した。

「サボってたんかーい!」

 アンテナが突っ込んでまた笑いを誘う。

「パルコ、これ使ってくれ」

「え?」

 それは銀貨だった。父親から送られてきた銀貨と同じく古く、アレクサンドロス大王の彫刻が彫られていた。

「ほんとは『不必要の部屋』で、それを使うつもりだったんだ。自分が貯めたお小遣いでコインショップで買っておいたんだ。転校したくなかったから。でも、もう必要ないんだ。オレ、もう一度、パパについて行くって決めたんだ」

「……いいの?」

「うん」

「受け取っておく。ありがとう」

 パルコもファーブルも笑みを交わした。家族と暮らせるなら、それが一番だとパルコは思った。閣下が言った。

「おい、いいか? 明日にはすべての結果が出てるんだ。たとえ、どんな結末になろうとも、オレらは『ブルーブラックの明かり』の一員で、どこにいようとも親友なんだ。それを忘れるなよ」

 皆んな、閣下の言葉を噛み締めている。続けて彼が言う。

「ファーブルもアークだって、必ずまた会うことを、今この場で約束しよう!」

 閣下は頼りがいがあった。こういうことを言ってのける兄貴のような存在だ。この優しさに、強さに、今までパルコがどれほど救われたことか。

「賛成! よっ大将! さすが!」

 そう言って、いつも盛り立てるアンテナだって、いつでもパルコの味方だった。

 キキが左手も右手も親指を上に向けてダブル「イイね」している。彼女は、影でいつもパルコを支えていた。そして、皆んなでファーブルの背中を見送った。

 明日には、彼も特急列車に乗って遠いところに行ってしまう。しばらく会えないのかと思うと、パルコは泣き出したい思いにかられた。ファーブルが視界から去っていった。

 そして、皆んなとも手を振って別れた。

「また明日」



 その日の夜、パルコは枕元にいつものようにナップサックを用意した。その中には手帳、ライト、ペンケース、ファーブルからもらった銀貨に財布、水筒、保冷剤にくるんだチョコパイ……。

 目を閉じてからも、パルコは忘れ物がないか、必要なものを頭の中で復唱した。チョコパイをアークに渡したいと思っていた。そしたら、アークの笑顔が浮かんで、パルコも一緒に笑っている。

 パルコは、スヤスヤと寝息を立てて、眠りに落ちていった。


 パルコはタコ公園にいた。いつものようにナップサックを背負っている。

 良かったって思った。とりあえず夢の中にいて、これは夢の中だって自覚できてる。それは特別な夢の時だけ。だから、今夜の夢は特別なものになるとパルコは思った。

 そして、自分の思い通り、出だしの集合場所はタコ公園に来れたのだった。タコの遊具は紫色だった。いつもはピンクだから、少し違和感があったが気にすることじゃない。それより、まだ誰も来ていないのかな? パルコは心配になった。

「パルコー!」

 振り返ると、キキがタコの口から顔を出していた。キキが普通に話してる! 

「キキ! 来てたの⁉︎」

「うん! アタシが一番乗りです!」

 ハキハキしてるキキ。新鮮だ。

「ほんとに来れたんだな」

 閣下が来た。

「ごめん、待った?」

 振り返るとアンテナも来ていた。

「あとはファーブルだけ?」

 パルコが言うと、タコの足の中の球体スペースから声がした。

「ファ〜、遅いから寝てたよ」

 ファーブルが顔を出した。

「夢の中で普通寝る⁉︎」

 アンテナがツッコミを入れて場が和んだ。

「ほんとに夢の中で集合しちゃったね」

 キキが言った。

「キキが普通にしゃべってるから、変な感じだな」

 閣下が言った。

「ほんとほんと」

 アンテナがまじまじとキキの顔を見た。

「へへへ」

 キキが照れている。

「皆んな集合! 役割分担します!」

 パルコは時計を見て言った。

「非常口確認、危険察知、避難誘導その他もろもろ係……閣下!」

「よし! 任せろ!」

「報告書作成、心配係……アンテナ!」

「任されました!」

「ムードメーカー……キキ!」

「はい!」

「タイムキーパー……ファーブル!」

「はい! 時計合わせします!」

 ファーブルが音頭をとり、皆んなの時計を合わせた。そしてパルコが言った。

「典曜日が終わる零時前にはケリをつける! 『海岸線二〇五号室』に向かう!」

 そう言った途端、足下が柔らかくなったかと思うと、砂浜に五人は立っていた。眼前に美しい透き通った海が広がっていた。

 波が寄せてきて五人の靴が濡れるところだった。あっけに取られているメンバーの中から一歩踏み出して、キキが指差して言った

「見て」

 海辺にヤシの木が群生している。その先に、白い二階建てのアパートが建っていた。

「『海岸線二〇五号室』……ここなんだ!」

 パルコが興奮して言った。

「パルコ……端のベランダを見ろよ!」

 閣下が言った。

 ベランダにはレインボーというか、オーロラ色に輝く透明な傘が、たくさんぶら下がっていた。パルコはゴクリとツバを飲んだ。

「階段がある! 行こう」

 キキがパルコを促した。


 アパートの端の階段が二階へと続いている。

 五人は二階に上がり、一番奥のドアに向かう。白い塗料が塗られた木製のドアは、少しだけ開いていた。オーロラ色の光がドアの隙間から漏れていた。

 パルコが覗くと、木製の机と椅子に座る白い服を着た男の後ろ姿が見えた。

 机の上にはランプが灯り、その光はなんとも言えぬ美しいオーロラ色だった。その机の向かい窓は開いていて、外の海辺が見える。男は後ろ姿のまま喋った。

「やあ……」

「あの……僕……」

 男は気がついたように顔を上げた。立ち上がり、振り返って戸口に立つパルコを見た。

「私が待ち望んだ人じゃ、ないようだが……」

 それはこちらのセリフだと、パルコは言いたかった。

 彼は父親じゃなかった。ベランダの傘を見た瞬間、パルコは今度こそ父親に会えると思っていた。パルコは立ちすくんだ。

「それはこっちのセリフだよな? オレはパルコの親父さんだとばかり思ったよ」

 閣下はパルコの肩に手を乗せて、落胆したパルコを代弁した。

 次の瞬間、パルコは男に抱きしめられていた。

 不思議だ、お父さんの匂いがする。そう、パルコは思った。

「失礼した、よく来てくれたパルコ。私の名前はペールブルードット。『彼ら』の一人だ」

「!」

 皆んな、たじろいだ。

「ペールブルードットって……ユニコーンの本に出てきた……!」

 ファーブルが驚いて言った。

「ユニコーンの先生みたいなもんでしょ?」

 アンテナが応えた。

 ペールブルードットはニコニコしていた。

「てっきり、私がよく知っている青年が来るものだと思っていた。けれど、今日は素敵な日だね。君らのような年少の若者たちが来てくれることは滅多にないんだよ」

 ペールブルードットは柔らかい笑顔で話す。

「パルコか。いつだったかな……地上の著者の一人がここに来た時があったが。その人はいつか子どもが来るからよろしく、と言っていたが、君のことなのかな? 面白い男だったが、やることがあると言ってすぐに帰ってしまった」

「お父さんだ! お父さんがここに来てたんだ……!」

「君らは、ここに何をしに来たのだ? やすやすとここに来れるわけがないんだが……」

「『シンクの卵』がここにあるってお父さんが言いました。地上では『不必要の部屋』が行方不明になっていて、日本政府も地底政府も怒っています。それは僕らがアークを連れ出したことも原因だけど。ええと、僕らはそれで……とにかくアークを地底の故郷に帰してやりたいんです!」

 パルコは、今までの経緯をかいつまんで説明した。(もちろん閣下とファーブルが説明のフォローをしてくれて、何とか話を理解してもらった)


「なるほど。地上の本が消えたのはそのためか。『黄昏れる少女』はここに来てるよ」

「えっ」

 五人とも声をそろえた。

「『彼ら』がどうするか悩んでいたよ。隣りの広間にいるんだ。でも困ったな……普通は著者を広間に入れないんだ。私でさえも下っ端だから、本の番人どまりなんだよ。昔、あることで事件を起こしてね。以来、中には入れない。私が良くした青年が来れば、私も『彼ら』の仲間入りなんだが……」

 どういうことだろう? 五人は不思議に思った。

 この人がペールブルードットなら、桜井秋が残した本の通りならば、最高の構想家のはずだ。パルコは勇んで言った。

「あなたは最高の構想家で『彼ら』を出し抜くことができる唯一の人だって、お父さんが言ってました。さっきあなたは桜井秋と会ったことがあると言ったけれど、お父さんとあなたは、多分何か計画を立てているはずだ。とぼけているような顔してるけど、本当は僕らが来ることも知ってたはずです。僕らは『ブルーブラックの灯り』で、アークを故郷に帰さなきゃいけないんです!」

 ペールブルードットは静観するようにパルコを見つめていた。

 パルコは、彼の目を見て言った。

「何とか広間に入れませんか⁉︎ 僕ら、そのためにここに来たんです!」

「お願いします!」

 五人全員で頭を下げた。

「ふうむ……」

 ペールブルードットは長考した。そして、気づいたようにまた口に出した。

「まさかとは思うが、銀貨は持っているかね?『彼ら』に会うにも通行料がいるのだよ」

 『ブルーブラックの明かり』は全員顔を見合わせ、パルコが勇んで答えた。

「はい! 持ってます!」

「そうか! フムフム、わかった。わかったぞ。全部算段が整えられているな。君らは『彼ら』とテーブルにつくことができる。その代わりと言っては地上に帰ったら、青年に本に帰るよう交渉してくれないか? 長い交渉になるだろうがね……」

 メンバーは顔を見合わせた。ユニコーンの帽子の青年を捕まえるのは難儀だからだ。

 しかし、やるしかない。パルコは返答した。

「やってみます……!」

「よろしい。ではその扉を開けたまえ」

 いつの間にか、白い壁にはターコイズブルーの観音開きの扉があった。パルコは構わずその扉を開いた。



 大広間に、大きな楕円形のテーブルがあった。ゆうに三十人ほどは座れるのではないだろうか。一番奥に、身体に布を巻きつけたような格好で座る年配の男性が六人……いや八人いる。

「パルコ……?」

 すぐ近くの椅子に座る女の子がこちらを見て言った。

「アーク!」

「アークだっ!」

「よっしゃ……!」

 アークだった! 『ブルーブラックの明かり』はアークと再会したのだ。六人は口々に声をあげて喜びあった。

「どうして⁉︎ どうしてここにいるの⁉︎」

 アークが声を上げた。

「お父さんだ! お父さんが本の場所はここにあるって! ここにアークがいるって!」

「信じられない!」

 アークの目を見て、パルコは言った。

「君を地底に返したい」

 アークはパルコを抱きしめた。頬と頬をムギュッと引っ付けるほどだった。一瞬のことだから、何がなんだかわからなかったが、パルコはあわてて押し離して、顔を真っ赤にさせた。キキを横目でチラッと見たが笑っていた。

 パルコは急いでリュックを下ろして中に手を伸ばした。

「ほら」

 パルコはチョコパイを笑って取り出し、アークに渡した。

 皆んなドッと笑い合った。

 

 奥の席でヒソヒソと声がしている。

 一番奥の真ん中の席に座る、とても偉大な人が言った。

「おやおや……面白いことが起きているようだ。今までで、こんなことがあったかね?」

 隣りの銀髪の男が、偉大な男に耳打ちする。

「ふむ。そうだろうね……ないよね。でも一つ例が増えたね」

 その瞬間、残りの七人の銀髪の人が、一斉に隣り合う人とヒソヒソ話を始めた。偉大な男が口を開いた瞬間、七人の銀髪の人たちは口を閉じた。

「用件を聞きましょう。地上の子らがここに来たのは、特別な訳があるのでしょう」

 すぐに隣りの銀髪の男が耳打ちした。

「ふむ。そうだろうね……。とても難しいやり方で、地上の構想家が君たちを送り込んだのだろうね。とても興味があることだがね」

 その瞬間、またしても七人の銀髪たちがヒソヒソ話に興じた。 

 パルコたちは、何なのこの人たち? という顔でアークを見た。

「『彼ら』よ」

 アークは言った。

「僕たち、アークを故郷に帰しに来たんです」

 七人の銀髪たちは、まだヒソヒソ話に身を投じていた。

「あの……! あのさっ!」

 ようやく、七人の銀髪たちの口が閉じた。

「アークを故郷に帰してください!」

 パルコは強く言った。偉大な男が口を開いた。

「彼女はね、『黄昏れる少女』だ。彼女は本の中で祈るんだ。祈ると願いがこの場所に届いてね、それを地上に下ろすか否か決めるんだ。大抵はすぐに現実にしちゃうんだけど、それは本のガイドが正しい方向に著者を導いてるのが前提なんだよ」

 そうなんだ……そういうシステムなんだ⁉︎ 五人は初めてそのことを知った。さらに偉大な男は続けた。

「こんなことはなかなか無くてね。本のガイドもいない、黄昏れる少女もいなくなれば、本の管理がずさんになるんだよ。それはさ、大昔に約束した、地上と地底のルールに反するんだね。さて、どうしようと思ってね。管理をやめることもできるんだが、地球の行く末を考えてくれた賢明な作家たちにも失礼でね」

 七人の銀髪たちは、再びヒソヒソ話を始めてしまった。

「あ〜……また始まっちゃったよあの人たち……」

 アンテナが遠慮なく言った。

「アークは地底に帰りたいんです!」

 パルコは叫んだ。それでも、七人の銀髪たちはヒソヒソ話を楽しんでいた。

 閣下もアンテナもファーブルもキキも、もううんざりだった。こちらもヒソヒソ話が始まり、どうしようか考え出した。そしたら、ファーブルが思い出したように言った。

「アレは⁉︎」

「あーっアレか!」

 閣下の顔が輝いた。

「どれ?」

 アンテナが聞いた。

「アレアレ」

 キキがウキウキしながら言った。

 パルコは、にんまりしてアンテナに耳打ちした。

「なるほど、アレね」

 この時のためにあるんだと、パルコたちは思った。

 五人とも、声をそろえて言った。

「テーブルにつけ」


 その瞬間、七人の銀髪たちは一斉に口を閉じた。

 代わりに『ブルーブラックの明かり』を注意深く、なめるような視線で注視する。

 偉大な男の左側に座る銀髪の男が言った。

「次の議題だが『黄昏れる少女』を地底に戻すことに関してだ」

「さて、君たちの意見を聞いてみようか。ここに来た構想家の端くれならば、年端も行かぬことは関係ない。世界を変えるには、大人も子どもも関係ないのだ。誰か一人、代表で話してみてもらいたいのだが」

 五人はすぐに話し合って、パルコが話すことに決まった。

 パルコはアークの隣りの席に座り、四人は二人を取り囲むように背後にそなえた。

「本の管理はやめません」

 パルコは言った。

「となると、管理してくれるガイドがいないといけない」

「僕たちが本のガイドと交渉して、本に戻るよう話をします」

「ふむ。そうなると、願いを届ける『黄昏れる少女』が必要なのだが」

「『黄昏れる少女』は必要ありません。地底に帰りたくなってしまうし、アークは僕ら『ブルーブラックの明かり』の一員なんです。それに、アークはもう『黄昏れる少女』をやめることができるんです」

 七人の銀髪たちが、一斉にザワつき出した。中には、一体どういうことだと憤慨する者もいた。その様子を見ていた閣下が、パルコとアークに言った。

「なんか慌ててるな? 知らないっぽいぞ?」

 ファーブルが思い出したように答えた。

「ほら、アークと出会った時、すでに本の外に出てたじゃん? 『黄昏れる少女』が本の中で祈るから、願いがここに届くんだろ? でもアークはあの時、本の外にいたんだ。願いが、そもそもここに届いてないんだよ」

「じゃあ、地上に下ろすかどうかも審議されてないじゃんね」

 キキが鋭く突っ込んだ。

「だから、もう書きたい放題なんだよ。ガイドもいないし」

 アンテナが言った。

「パルコの親父が……『彼ら』をうまく出し抜いたんだ!」

 閣下が感嘆しながら言った。

「ふむ……そうだな」

 偉大な男が困ったように言った。

「本のルールを、ルールを用いて改変してしまったようだが、これには困ってしまうな」

「どうしても『黄昏れる少女』を本の中に閉じ込めたいんですね?」

「それが本のルールだからね」

 だが、もう本のルールは改変されたのだった。

 『彼ら』の困っている様子を見てとったパルコは、ヨハンセンから教わった良き交渉のルールを持ち出すことにした。パルコは提案した。  

「『黄昏れない物』を置くのはどうですか?」

「ふむ。何かな?」

 当然の反応だ。『黄昏れない物』を置くって、一体何だろう? 勢いで言ってしまったことをパルコは後悔したが、考えてみた。

「祈る人の代わりに、願いを収集する箱を置きます。収集した願いがこちらに届きます。そうすれば、もう二度と誰かが黄昏れることはないでしょ?」

 パルコは思いついたことをペラペラ話した。半ばヤケクソなのかもしれない。面白そうなことを言っているだけなのかもしれない。

「本に書かれた内容を収集して、我々に必ず届くようにするということだね? なるほど、箱か……どのような箱なのかな……」

 偉大な男は考えにふけっているようにつぶやいた。

「えっと……」

 やばいとパルコは思った。頭の中が真っ白になった。何も浮かばない。

 ファーブルが、いたって真面目な顔で小声で言った。パルコに助け舟を出したのだ。

「ガチャガチャとか……?」

「ガチャガチャです」

 パルコがつられて復唱した。

 アンテナも閣下も吹いた。キキは笑いをこらえている。アークはキョトンとしている。

「ガチャガチャ……?」

 偉大な男が問いかけた。

「ガチャガチャです」

 パルコはまた答えた。慌てる気持ちを押さえて、少し考えてから話し出した。

「秘密の箱です。書いた願いが小さな球となって箱の中に宿ります。銀貨を硬貨口に入れて、代わりに願いを得るのです。著者がガチャガチャするのです」

「となると、ガチャガチャした著者は、過去の著者が書いた秘密を得ることになるね」

「そうです。面白いでしょう?」

「……ふむ。我々が欲しい銀貨も手に入る」

「その代わり、アークは本に戻りません」

「ふむ」

「『ブルーブラックの明かり』は、アークが『黄昏れる少女』をやめて、故郷の地底に帰してあげたいと考えています。だから、アークがいる今、それを本に書きます」

「パルコ……」

 アークは、瞳をキラキラさせてパルコを見つめた。

「…………」

 偉大な男は沈黙し、しばらくして、また口を開いた。

「アークにペナルティがないね。彼女は自分のためにその責務を放棄した。『黄昏れる少女』はやめることができるのだろうが、やめた時にペナルティがあるべきだ」

 キキが不意に言った。

「もう十分アークはペナルティを受けています。たったひとりぼっちで本の中にいたんだもの……。きっとアークの家族だって、アークが戻ってきてほしいと思ってるはずだわ」

 凛としたキキを見て、メンバーは感嘆した。

「キキ……」

 アークが驚いたようにキキを見つめている。

 偉大な男が返した。

「彼女に家族はいないのだよ」

「えっ」

 不意に声に出した。パルコだけじゃない、閣下もアンテナもキキもファーブルもだ。

 アークはうつむいた。

「わたし……家族がいないの。パルコ、ごめん。皆んなごめん。わたしが『黄昏れる少女』だから、故郷の地底に戻りたいの。『黄昏れる少女』は地底に戻りたいと願う女の子として生まれたのよ」

「……アーク」

 パルコは言葉を失った。そして、悟った。

 アークは、文章で産まれた女の子なんだと。

 『シンクの卵』によって産み出された設定なのだ。パルコも皆んな、悲しい気持ちになった。

「もし、アークに地底に戻ってもらいたいと思っているならば、君が続きを書くんだよ。パルコくん」

 偉大な男が穏やかな目をして、パルコに言った。

「……僕が?」

「君にアークの罰を書くことが出来るかね? 出来るならばアークを故郷に帰せば良い」

「罰……?」

「そうだよ。彼女は地底に家族がいると、待ち人がいるのだと、君たちに嘘をついたのだろう? では、罰を書きたまえ」

「違う! わたしは……!」

 アークが叫んだ。

「嘘なんてついてねえよ! アークは地底に帰りたいだけだ!」

 閣下も叫んだ。

「そうだよ! アークは大好きな故郷に帰りたいんだよ!」

 アンテナも叫んだ。

「言っていいことと、悪いことがあるんだ! アークに謝れよ!」

 ファーブルも叫んだ。

「絶対に許さないんだから!」

 キキも叫んだ。

 閣下もアンテナもキキも、ファーブルだって、皆んな怒っていた。

 パルコはうつむいた。そして、ヨハンセンの言葉を思い出していた。

 物語を引き継ぐのは、感動を与えることができる大団円を書く者だと。つまり、僕らもアークも『彼ら』にも大団円をだ。

 そして、パルコが言った。

「……僕が、書きます」

 予想外の発言に、メンバー全員がパルコに注目した。全員、パルコの顔を見て、すぐに何かに気づいた。パルコのニヤリとした顔は、必ず何かを企んでいる顔だからだ。

「桜井の息子か。フム……どうするかな」

 七人の銀髪たちは、ぶつぶつ言っている。

 彼らは、またヒソヒソと話し合って、偉大な男に伝えた。

「わかった……『ブルーブラックの明かり』だね? 私の耳にも届いているよ。構想家が君たちを巻き込んでしまったようだけど……」

「うん……フム。そうだねえ、一度書いてもらおうか……? それがいい」

 七人の銀髪たちは、さらにヒソヒソ話を白熱させて、また左端の銀髪の男が、偉大な男に耳打ちした。

「いやね、見てみようよ? それがいいよ。それから決めればいいじゃないの」

 テーブルの主たちは、もうそれ以上ヒソヒソ話をしなかった。

 偉大な男は言った。

「ねえ、君……パルコくん。一度、君が思うのを書いてみてよ。君の物語をさ……君の構想をね」

「はい」

 パルコは構想家として返答した。



 パルコが『シンクの卵』に書き始めてから、どれくらい時間が経ったろう?

 もうこれしかない。それは、パルコが考えて考えた末に、最後の最後に思いついた方策だった。

 ファーブルからもらった銀貨を左手に握りしめ、パルコは万年筆を手に取る。そして、海辺の見える部屋で、オーロラ色の光に照らされて、パルコは本に書き連ねた。

 パルコは書くことに没頭した。何も怖くなんかない。

 なぜなら、パルコの周りには『ブルーブラックの明かり』の秘密メンバーが、彼のことを見守っている。そして、父親がパルコに任せた、とある地底人を地底に帰すという秘密の計画の、その地底人のアークも、同じくパルコを見守っていた。

 この計画が失敗すれば、『ブルーブラックの明かり』はどうなることになるか、誰にもわからない。にもかかわらず、パルコは今この時が、本当に幸せだと感じていた。

 欠けているものは、何も無かった。なぜだか、パルコはそう感じていた。

 すべてが、そう、目に映るすべての世界や現象や空間や人々が、完全だと思われた。

 今が永遠の力を持っていた。『世界を変えるための不必要の部屋』は、「永遠の今」なんだ。

 こんな抱きしめられているような、愛がある部屋にいて、パルコは幸せだった。書き連ねていて、涙が止まらなかった。でも、パルコは書き続ける。

 そして、最後の文章をつづり、静かに、丁寧にピリオドを打った。

「これで終わりだ」

 閣下もアンテナもキキもファーブルも、地底人のアークも、パルコに注目していた。

 しばらくして、ドアがきしんでゆっくりと開いた。白い布を身体にぐるぐる巻きつけた男が、黒いお盆を持って立っていた。

「こちらに、銀貨もしくは、それに代わる大切な何かをお乗せください」

 パルコはチラリとファーブルの目を見て、ファーブルもかすかにうなずいて、もらった銀貨をお盆に置いた。




 目が覚めた時は、もう朝だった。

 ついさっきまで、皆んなと一緒にいたなんて夢みたいだ。いや、本当に夢だったのだ。でも、皆んなと同じ夢を共有できたなんて、パルコはとても信じられなかった。すぐにメンバーに会って確かめたかったが、パルコの気分は最悪だった。

 アンテナが、同じ夢なんて見てないと言ってほしかった。

 閣下に、そんな変な夢を見るなんてバカだなあと言われたかった。

 キキに、アタシは人前で喋らないと、ピシャリ言われたかった。

 ファーブルも……ファーブルはもういない。新天地へと出発してしまったはずだ。

 パルコは、この上ない絶望感を感じていた。

 なぜなら、目が覚めた時から、自分が書いた物語が始まらないことに気づいていたからだ。

 時空を飛び越えた対話は、何もかもが無意味だったのか。

 パルコの気持ちは、眠気が抜けると同時に、どんどん落胆していった。心が、頭が、重くて震えてきたのだった。涙が腕にこぼれ落ちて、それがどんどん止まらなくなってしまい、もう何も見えなかった。

 ただ一つの絶望感が、その身体全身に染み込んでいった。


 ダメだった……ダメだった……。


 パルコの頭の中に、その言葉たちがぐるぐると回っていた。それしかもう考えられなかった。

 僕は……僕ら『ブルーブラックの明かり』は……失敗したのだ。


 パルコは着替えてから、早朝の外に出た。

 大空に浮かぶあの銀の逆卵は、すでに消えていた。

 典曜日に開く地底世界への扉は、もう存在していなかった。多分、典曜日もなくなっているはずだ、そうパルコは感じた。

 自転車には乗る気になれず、歩いて心を落ち着けようとした。

 とりあえず、閣下の家に向かっていた。


 ホチホチ灯の横を通り過ぎる頃、ユニコーンの帽子の青年が前から歩いて来た。

 あきれた。今ごろになって現れて何だというのか。

 パルコは、彼に向けられた憤りを抑えられなかった。

 パルコとユニコーンの帽子の青年は差し向かった。

「やあ」

 青年は気軽に声をかけた。パルコはうつむいた。

「『シンクの卵』はもうない。僕らは、何もかも失敗したんだ」

 パルコが、怒りを押し殺して言った。

 結局、彼は必要な時に、必要な場所にはいなかった。本のガイドが聞いてあきれる。解き放ったのは自分だった。パルコは自分を責めた。

 そんなパルコに構わず、青年は話しかけた。

「夢の中の話が本当になれば、何もかも全て丸く収まるはずだ」

「え?」

「しょせんは夢の中のことなんだよ。今、気に病むことじゃない」

「…………」

 そうか、そうだったんだ……。

 夢の中だから「本当に」ならなかったのか。

 パルコはあぜんとしてしまった。

 こんなことに気づかなかったなんて、最初から失敗してたようなものだったじゃないか! パルコはようやく気がついたのだった。

 青年は、続けてパルコに話した。

「ずっと見てたんだ。そうするように、君のお父さんから頼まれていたんだ」

「え?」

「けれど、もうその必要はない」

「どういうこと? ……え? お父さんの指示なの?」

「そうさ。皆んな皆んな皆〜んな、桜井秋の手のひらの上で転がされてたのさ。彼は偉大な構想家だからね」

 信じられなかった。お父さんから、傍観してるように頼まれてたって? 絶対嘘だ!

「嘘だ!」

 パルコは叫んだ。

「本当にお疲れ様。君たちは、本当によくやってくれたんだ」

「嘘だ!!」

 もう一度、パルコは叫んだ。パルコの目には涙が浮かんでいた。

「君は知ってる? 大きな本のタイトルは『シンクの卵』じゃないんだよ。じゃあ、『シンクの卵』ってなぁんだ?」

「⁈」

 彼が、なぜいきなり、なぞなぞ? みたいなことを問うのか、パルコはすぐに理解できなかった。

 なぞなぞを問われたら、パルコは考えざるを得ない。そういう性格なのだ。どんな答えでもひねり出そうとする自分の性情を、パルコは恨んだ。

「…………」

 何だよソレ。でも待てよ、本のタイトルが『シンクの卵』じゃないなら、何だ?

 さしずめ、『世界を変えるための不必要の部屋』か? だから何だというのか?

 卵で連想されるのは、卵形のインクの瓶だ。確かに、これも銀の卵だ。これしか思い当たらない。パルコはしぶしぶ答えることにした。

「インクを入れた卵?」

「その通りだ。それこそが、『シンクの卵』さ」

「…………」

 この青年は何を言っているのか? パルコは理解できなかった。

「はあ? 一体何を言って……」

 え? 『シンクの卵』は本じゃない? インクの卵のことを指してるだって⁈

「…………」

 わかった。それで、パルコは一瞬でわかってしまった。

 彼が何を伝えたいのかを!

 『世界を変えるための不必要の部屋』の本当の意味を。

 世界を変えるために、あの部屋は不必要なんだ!

 世界を変えるのに、『あの卵』さえあれば十分なんだ!


 『あの銀の卵の中のインクこそが、世界を変えるための全てなんだ!』


 パルコは理解した。

 でも、あの部屋にはもう行けないんだ。あの部屋にある卵のインクも本もランプも、もう二度と出会うことはない。何もかも、もう遅かったのだ。

 ……待てよ。じゃあ、なぜ目の前にいる青年は、こんな話をするのだろうか?

 パルコは、青年の目をまっすぐ見た。彼は微笑んでいた。

 やはり、ユニコーンの帽子の青年は、地球色のその綺麗な眼で、パルコの眼をじっと見つめ返している。恐る恐るパルコは聞いてみた。

「……インクが入っている卵を、持っているんですか?」

「いや、僕は持っていないよ。しかし、まだ持っている人がいるんだよ」

「どこに?」

 ユニコーンの帽子の青年は、自分が被っているヴァーミリオン色の帽子を取って、パルコの頭に被せた。帽子の正面、中央にはユニコーンのロゴが入っている。

 そして、彼はにっこりと微笑んでみせた。だから、パルコにはわかった。

「……ある。……僕が……持ってる!」

 そして、青年はパルコに言った。

「今からでも間に合うよ。手帳は持ってる? 手帳には、うまく書けば、まだ書ける余白が残っているはずさ。そのために、君のお父さんは余白を残したんだ。ま、手帳じゃなくても何でもいいんだけどね。しかし、彼が書くべきだった余白は、後続の著者が書いた方が、物語が締まるだろ?」

「盟友なんだ……」パルコは言った。

「……?」

「『ブルーブラックの明かり』は親友の上をいく盟友なんだ」

「……うん。うらやましいな。本の中の作り話じゃない。ボクもいつか盟友を作ろうと思ってる」

 そう言って、彼は歩き出した。

 いつかお父さんが言っていたことを思い出した。新しい情報を知るのは、どんなに一方的な戦局をも変えてしまう時があると。それが秘密であればあるほど、効果は甚大なのだ。

 ユニコーンの帽子の青年は、静かに振り向いて言った。

「そうだ、これはまた別の話なんだけど、人の頭から秘密を取り出してしまう銃があることを知っているかい?」

 パルコは「何ソレ?」と言うように頭を振った。

 青年はニヤッと笑い、踵を返して行ってしまった。パルコは心の中で思った。

「また新しい、別の物語が始まるんだ!」

 パルコは、何だかよくわからないが、心の底からあふれ出てくるワクワクが止まらなかった。青年の後ろ姿を見送り、パルコもまた、アスファルトをけり出して家に向かった。



「『ブルーブラックの明かり』が『彼ら』と交渉したことが現実になる。たとえそれが夢の中であっても!」 


 パルコは、父親の手帳の唯一の余白に、そのように記した。

 『シンクの卵』のインクが入っている、彼の大事な万年筆、モンブランの146で。 

 これでいいはずだ。パルコは一息ついてから、ベッドに倒れて横たわった。机の上には、手帳と万年筆が置かれている。天井を見上げて、今日までのことを考えていた。眼をつむって、父親のことを思った。

 過去のどんな出来事も変えることはできない。お父さんがいる毎日が欲しかった。どんな大切なことよりも、それを一番望んでいた。

 けれど、それをしてしまったら、アークは地底に戻れなかったし、ファーブルにも会えなかっただろう。もっと言えば、『ブルーブラックの明かり』も結成されなかったはずだ。

 それを全部なしにしても、お父さんさえいれば、どんなに良いだろうか。でも、お父さんはそれを望んでいない気がしたんだ。 

 少し考えてから、パルコは万年筆のインクを、洗面所ですべて流すことに決めた。

 パルコは、ひとつだけため息をついた。でも、この先はもう、ため息をつくことはないだろう。

 ベッドから降りて、パルコは自分の机に向かった。万年筆を持って、洗面所に行こうとしたのだが、置いた万年筆はどこにも見当たらなかった。

「そうか……交換の法則だ」

 『不必要の部屋』じゃなくても法則は働いているのだ。それが『シンクの卵』がインクそのものであると証明された事実だった。ついさっき、世界は変わったんだ。



 家の玄関の軒下に、ツバメの巣がある。巣の中には五羽ほどのヒナがかえっていた「五羽ほど」と言ったけど、正直、何羽かえったのかよくわからなかった。昨日、数えた時は五羽だったけど……。

「お兄ちゃんっ! やっぱもう一羽いたよーっ!」

 階下の玄関から、恥じらいもない大きな声が響いた。

 続けざまに、ドタドタと階段を上がる音がして、勢いよくドアを開けた女の子が現れた。

「お兄ちゃんっ! 事件ですぅ!」

 アークだった。

 パルコが思うアークの罰は、地底人の心を彼女から取り上げることだった。

 取り上げた彼女には帰るところがない。取り上げた自分にだって、罰がないとおかしい。そうパルコは思った。

 だから、パルコは彼女が大人になって、地底人の心を取り戻すまで、ずっとそばにいることにしたのだった。彼女が寂しくないように、パルコの妹にしたのだった。

 アークには家族がいる。アークには帰る場所があるのだ。 

 今日の午後、アークは皆んなと初めて会うことになっている。それで、キキと無二の親友になる。もう一度やり直す。 

「午後から友達が来るんだよ」

「えっ、ウソだあ」

「ほんとです」

「……誰かを家に呼ぶの、珍しくない? ……アタシもいていい?」

「べつにいいよ。あと、夕方くらいに引っ越す友達を見送りに行くから、一緒に行こう」

「やったあ! お母さーんっ……! 朗報です! サイダー用意してぇー!」

 彼女は叫びながら、またドタドタと階下に降りていった。

 パルコは、今日も暑くなりそうな青空を眺めた。

 今ごろは、『黄昏れる少女』だったアークは、マントル行きの地底列車に乗って、何百年振りに家族と再会を果たしているはずだ。

 これでようやく『黄昏れる少女』は黄昏れることはないのだ。

 『彼ら』も今頃びっくりしてるだろう。なんせ『世界を変えるための不必要の部屋』には、古い机と椅子とランプと大きな本と『シンクの卵』、それに部屋の隅には古めかしい『ガチャガチャ』が付け加えられたのだから。

 この『ガチャガチャ』にはギミックがあって、本に秘密を書いた後、ガチャガチャの硬貨口に銀貨を入れるとハンドルを回せる仕組みになっていて……と、長くなるので割愛するが、相当面白いことが起きてしまう。でも、これはまた別の話だ。

 悲しい物語にはしない。パルコはそう決めていた。

 ヨハンセンが言っていた通り、それはつまり、パルコの父親が構想したように、必ず大団円にしてみせる強い決意の証だった。パルコ自身、自分が書いた物語が良いのか悪いのか、全くわからなかった。

 けれど、父親からもらった大事な万年筆がなくなっても、今の自分の気持ちは悪くない。そんな清々しい気持ちだった。

 あの時、部屋で書いたのはここまでだ。ここから先は僕も知らない。

 でも、わかってる。これだけは絶対だ。今日の午後、きっとお母さんは、久しぶりに連れてくる僕の友達が嬉しくて、満面の笑みでサイダーを出すにちがいない。

 パルコの瞳には、ありありと映るその姿が容易に想像できた。

 

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シンクの卵 名前も知らない兵士 @unknownsoldier2023

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