課分の重み
昼の陽射しが座敷の障子を淡く染める頃、三成は再び硯に向かっていた。先日、太閤秀吉から下された命令――兵三千、鉄砲五百挺、火薬と弾薬の調達――を各大名に割り振る作業である。三千という人数は総数であり、近江、山城、摂津、播磨、丹波、備前、備中と、各地の大名に配分せねばならぬ。
三成は筆を走らせ、各大名から引き出せる人数を記していく。近江の浅井家から百二十、摂津の尼子家から八十、播磨の小寺家から百……。数字を並べれば合計三千、しかし現実の兵力はすでに多くが朝鮮に渡航中であり、残る国元の兵は守備に必要不可欠な者ばかりであった。
「治部少、近江の国衆に百二十を出せと申しても、庄屋や百姓が激しく抗議することでしょう。農兵を徴発すれば、年貢の収穫にも影響が出ます」
勘定奉行の一人が、書付を指し示しながら声を落とした。
「備前の小寺家に百を割り当てれば、城代や家中の不満が必ず表面化します。それぞれの大名は、我らが命に従うとは限らぬ」
別の奉行が額に皺を寄せる。書面では従順に見えても、国元では徴発や借財の負担に、ひそかに反発する者があるのは目に見えていた。
三成は深く息を吐き、静かに筆を置く。心中で、命じられた沙汰の現実性を計算する。兵を集めれば国元の防備は薄くなる。鉄砲や弾薬の調達には膨大な金子を動かさねばならぬ。寺社や豪商への借財も必要となれば、将来への影響は避けられない。
──理にあらぬ命である。
しかし、命じられた以上は、何としても成し遂げねばならぬ。己が知恵と采配を尽くし、最も被害の少ない形で形にせねば。
三成は筆を取り、配分案を練り直す。近江からは百二十、摂津から八十、播磨から百……と数字を繰り返し、必要に応じて減員も検討する。数字の裏にある人々の生活、城代の思惑、国元の防備状況を頭の中で整理する。
「治部少、鉄砲の手配は、京の商人筋に頼ればよろしうございます。しかし、急ぎ過ぎれば値は跳ね上がる」
勘定奉行の一人が慎重に口を開く。三成は頷き、補足を書き加える。火薬や弾薬も同様である。金をかき集めれば来年、再来年に必ず返済の負担となって返ってくる。
沈黙が座敷を満たす。春の光が障子を揺らし、微かに風が吹き込む。奉行たちは口をつぐむが、額の汗や肩の緊張から、心中の重みが見て取れた。
三成は視線を窓の外に向け、桜の薄紅色を眺める。花の美しさは戦場や兵站の重圧を和らげはしない。しかし、命じられた者として、最善の方法を探る以外に道はなかった。
──この無理なる沙汰、どのようにまとめあげるか。
胸中で三成は繰り返す。大名の不満、国元の負担、金子の不足、そして兵の命。すべてを秤にかけ、最小の犠牲で実現する策を、己の手で組み立てるしかないのだ。
夕刻、座敷の空気はさらに重くなる。書き上げた兵・武器の割り振り案を前に、奉行たちの筆は止まる。三成は一息つき、ふと顔を上げた。
「さて、次は各大名への通達である。意見や不満は必ず出よう」
案の通り、数日後、近江・丹波・摂津の大名に書状が届けられた。内容は「国許の守備を崩さぬ範囲での兵三千の増徴、鉄砲・弾薬の提供」。書状を受け取った大名たちは、座敷で眉をひそめ、家臣たちと密やかに議論した。
近江の大名は言う。
「三成殿の言う通り、守備を崩せば国境が危うい。しかし、三千の兵とは少なすぎぬか。敵地で何が起こるか、目に見えぬぞ」
丹波の大名は苛立ちを隠せぬ。
「寺社や商人から借財まで求められるとは……一国の財政に跳ね返る。来年、再来年の年貢に影響が出ぬか、心配でならぬ」
摂津の大名は書状を手に、家臣に吐き出すように話した。
「これほどの武器と兵を、数日のうちに整えろとは、何を考えておるのか……!」
こうした不満は表面化こそせぬものの、各国の家臣の間でささやかれ、やがて奉行の耳にも入る。三成は書状の返答を待つ間、心中で策を練る。
── 到底成し得ぬ沙汰である。しかし、為さねばならぬ。兵の割り振りも、物資の調達も、可能な限り現実に近づけねば。
三成は各地の守備兵の数を再確認し、削って差し出せる兵のリストを作る。鉄砲や火薬も、京・大坂・堺の商人筋からの入手量と金子の流れを精査した。寺社からの借財も、返済計画を練る必要がある。
やがて返答の書状が届く。文面には控えめな言い回しながらも、各大名の苛立ちがにじむ。三成はそれを読み、筆を走らせる。
「各国の守備を崩さぬ範囲で、兵を差し出せ。鉄砲と火薬も、急ぎ過ぎず確実に。金子の手当ては、順序を追って行え」
文字一つひとつに、現実的な制約と柔軟な配慮が込められている。三成の思いは、戦場へ向かう兵たちの安全と、国の秩序を守ることにあった。
夜が更け、座敷にはろうそくの揺らめきだけが残る。奉行たちは筆を置き、静かに三成の命を待った。誰も口を挟めぬが、その瞳は決意を映している。
──為すべきことは為さねばならぬ。可能な限り現実に近づけ、秩序を保つ。
春の風は障子の外でそよぎ、座敷の沈黙をかすかに揺らす。三成は墨を含ませ、次なる一手を、書面に慎重に綴った。
*
日も高くなり、屋敷に穏やかな光が差し込む頃、石田屋敷の座敷には淡い春光が差し込んでいた。
三成は巻紙を前に、勘定奉行や兵站担当者たちと書付の整理に没頭していた。
そこへ、一日置いて届いた書状が差し込まれる。差出人は毛利輝元、福島正則、加藤清正など、朝鮮出兵に大きく関わる大名たちであった。
封を切ると、文面には率直な困惑と怒りが綴られていた。
「三千の兵の増徴、五百挺の鉄砲を十日以内に……など、領内の守備や民心を脅かすこと明白に存じます。治部少の知略に依れども、到底実現は困難にございます」
さらに翌日、別の大名から使者が屋敷を訪れ、口頭でも不満を伝えた。
「治部少、拙者どもは命を惜しむ者ではない。しかし、急な動員は領内の秩序を乱す。心得ておかれよ」
三成は書状を前にしばし沈黙する。目の前の文面と、現実の制約の狭間で、静かに眉をひそめた。
家臣たちは互いに目配せを交わし、緊張を抱えつつも動きを待つ。
胸中で三成は言い聞かせる。
── この沙汰、いかに過酷にても、民草や兵卒を守るために知恵を尽くさねばならぬ。文書で示された御意を、いかに現実に沿わせるか……。
*
夕刻が迫り、書院の光は次第に鈍くなっていった。机の上には、各地から届いた書状の束が整然と積まれている。浅井・細川の他、山城、近江、美濃と、各国の使者が届けた返書には、いずれも守備兵の減少や財政的負担への懸念が綴られていた。
三成はそれらを一枚一枚丁寧に読み上げ、各奉行に指示を与える。
「浅井・細川は守備を崩さぬ範囲で兵を抽出せよ。山城・近江は城の防備を優先し、余剰兵力のみ割り当てる。美濃は火薬と鉄砲の在庫確認を急ぎ、必要分を確保せよ」
配下の奉行たちは書付を控え、時折眉をひそめながらも、三成の指示を書き留めた。誰も口を挟まぬが、視線の端に不安の色は見える。各地の大名たちは、己の領国防衛と戦力維持の間で揺れ、書状では忠誠を示しつつも、内心では不満を抱えているのだ。
三成は墨をすり、文書を整える手を止めずに心中で算段する。兵三千、鉄砲五百挺、火薬と鉛玉――すべてを揃え、十日のうちに戦地に送るためには、京・大坂・堺の商人からの迅速な調達と、寺社・豪商からの段階的な借財が不可欠である。金銭的な負担は大きく、失策すれば翌年以降の年貢徴収や治安維持に影響しかねない。
だが、三成は迷わなかった。冷静に現実を計算し、各地の条件に応じた割り振りを策定する。文字通り無理難題であっても、順序立てて、最小限の混乱で実行可能な形に落とし込むしかない。
やがて、書院の障子越しに西日が差し込む。春の風がわずかに梅の香を運び、静かな時間が流れる。その中で、三成は筆を置き、奉行たちの顔を見渡す。
「よいか。各国の事情は刻々変わる。書状の到着が遅れれば調整を行い、商人の供給が滞れば代替策を講じる。すべてを最善の形でまとめ、殿下の御沙汰を形にするのだ」
沈黙の間、奉行たちは三成の言葉を噛み締め、深く頷いた。外面では不満や疑念を抱える諸大名も、書状を通じての調整でしか意見を示せぬ現実。それでも、戦力と資金の制約は日々の課題として彼らを苛む。
三成は心中で再び計算を巡らせる。兵の割り振り、武器・火薬の調達、金銭手配――これらを可能な限り確実に、しかも国の秩序を乱さぬよう進めねばならぬ。失策は、兵士の命に直結する。
日が傾き、書院の影が長く伸びる頃、座敷の重苦しい空気はわずかに和らいだ。外の風は変わらず穏やかで、梅の香が香る。だが三成の胸中には、途方もない量の算段と、各地大名の思惑が交錯していた。これから始まる日々は、冷静な判断と精密な計算なしには乗り切れぬ戦いである。
座敷の静けさの中、奉行たちは筆を置き、次の指示を待つ。三成は深く息をつき、硯の墨を見つめながら覚悟を固めた。
──始まったばかりの任務だ。失われるものなく、可能な限り兵を整え、戦地に届ける。己が采配にかかっている。
午後の光がゆっくりと傾き、書院を包む静寂は、まだ一時の平穏でしかなかった。
*
翌日以降も、石田屋敷には各地からの返書が相次いだ。
細川忠興は「領内の兵は既に朝鮮へ渡り、残兵を動員すれば城下の守りが揺らぐ」と訴え、吉川広家は「兵糧と薪炭の備蓄が乏しく、余力はほとんどない」と渋る。表立って三成を非難する文言は避けられていたが、行間には明らかな不満がにじんでいた。
「治部少、各国の守備は思いのほか脆うございます。兵を三千かき集めても、実際には二千強にしかならぬやもしれませぬ」
勘定奉行の一人が、書状の束を前にして声を潜めた。
三成は無言で頷き、巻紙に目を落とす。算段の通りには進まぬ。だが、だからといって手をこまねくわけにはいかない。
さらに数日を経て、屋敷に到着したのは、毛利家中からの使者であった。
「我らが主君輝元公も、御命令に従う所存にござる。しかし、兵糧と兵船の手配に難儀しており、兵三百を差し出すは容易ならず……」
使者は声を落とし、慎重に言葉を選んだ。
横で控えていた奉行の一人が低く漏らす。
「この調子では、兵も鉄砲も半ばしか整わぬやもしれませぬ」
三成は使者の言葉を最後まで聞き終え、静かに答えた。
「御主君の誠意、しかと承った。無理のない範囲で兵を抽出されよ。ただし、兵糧と船については、こちらでも算段を整えるゆえ、出来得る限りの助力を願いたい」
使者は深々と頭を下げ、辞去していった。
その夜。
書院に積まれた書状の山を前に、三成は一人筆を走らせていた。返答の文言はすべて柔らかく、しかし一歩も譲らぬ理で固める。各大名の事情を織り込みつつも、最終的には「殿下の命に従うほかない」と結ぶ。
「……現実と御意との間に、橋を架けるのは我らの務めにて」
小声で呟きながら、墨を含ませた筆をまた走らせる。
障子の外では、春の宵風が竹を揺らし、かすかな音を立てていた。
だが石田屋敷の座敷には、紙をめくる音と筆の走る気配だけが、絶え間なく続いていた。
(続く)
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