夏、去りぬ
長谷部慶三
第一章 理と忠義
太閤の声
三月の陽が、障子越しにやわらかく差し込んでいた。
磨き上げられた硯の水面に光がきらめき、墨の香がかすかに漂う。
石田三成は筆をとり、朝鮮の諸将から届いた兵糧と損耗の報告に目を通していた。書き損じ一つ許されぬ文言を、静かな筆致で綴っていく。
「治部少、ただいま太閤殿下のご使者の方がお越しです」
声を掛けた家臣の姿の向こうに、あの男の影があった。青木主膳。太閤の意をそのまま運ぶ忠実な使者。
来たか、と三成は筆を置いた。あの男が現れる時は、たいてい厄介事を伴う。
「お通しせよ」
短く告げると、三成は膝をずらして下座に回った。
やがて畳を踏む音とともに、青木が書院に入る。深々と一礼し、懐から巻紙を取り出した。
「これなるは太閤殿下よりの御沙汰にございます」
巻紙が開かれ、端正な声で文(ふみ)が読み上げられる。そこに記されていたのは、現実を顧みぬ無体な指示であった。
さらなる兵の増徴、鉄砲・弾薬の調達、そしてそれらをわずか数日のうちに戦場へ届けよ、と。
三成の眉がかすかに震える。
「──待たれよ」
声は低く、しかし抑えきれぬ怒りが滲んでいた。書院に静かな衝撃が走る。
「これなるは、まことに殿下のお言葉か」
青木は間を置き、静かに巻紙を伏せた。
「いかにも。これは太閤殿下の御意。それがしはただ、それをお伝えするのみ。さもなくば、使者とは申せませぬ」
三成は黙した。胸中に湧き上がる思いは、言葉にはならない。三成の側に控えていた家臣たちも、思わず息を呑んだ。誰も言葉を発せず、視線だけが互いに交わる。墨の香と春の光に満たされた書院が、張り詰めた静寂で満たされた。
──親父殿は、戦場の有り様をご存じないのか。
かつては数多の合戦に身を投じ、一目で戦況を嗅ぎ取る鋭さを備えていた。采配一つで大軍を動かし、勝機を掴むその才を、誰もが恐れ敬った。
──それが、かくも失われてしまうとは。
秀吉からの伝言を読み終えると、青木は一拍置き、声を低くして言葉を添える。
「なお、殿下より申し添えがございます──くれぐれも、抜かりなき様に。異を唱える者あらば、治部少が責め果たせ、と」
その一言が、書院の空気をわずかに重くした。三成は口を開きかけたが、何も言わずに閉じた。薄く結んだ唇の奥で、冷たい水が喉を落ちていくような感覚があった。
青木は視線を外さず、静かに茶を一服した。障子の向こうで、春の光が揺れている。
やがて青木は書院を去る。畳を踏む音が遠ざかると、沈黙が書院を包んだ。
三成は沈黙の中で家臣の顔を一瞥する。誰も口を挟めぬ重い空気が漂う。
心中で次の行動を冷静に組み立てる。策を練り、報告を整理し、命じられた無理な兵の増員や武器調達を、いかに現実的に進めるかを思案する。
――まずは、秩序を乱さず、最善の準備を
硯に筆を浸し、文書に指示を書き込みながら、三成の心は静かに波立つ。家臣たちの視線を受けつつも、目の前の任務を遂行する以外に道はない。
障子の向こうに春の光が揺れる。風がわずかに香りを運ぶ。
──この春が、すべてを許してはくれぬだろう。
心中に、次の行動の思索と、日常に潜む複雑な思惑が交錯する。
*
太閤の声が去った後も、書院の空気は重く澱んでいた。
三成は筆を置き、深く息を吐いた。障子越しの春の光はなお柔らかいが、その明るさがかえって胸に苦く響く。
「治部少様……」
控えていた家臣の一人が口を開いたが、三成の一瞥に言葉を飲み込んだ。軽々に声を発すべき時ではない。
三成は机上の巻紙を見つめた。そこに書かれているのは、到底現実に即さぬ命令。数千の兵をただちに集め、鉄砲と弾薬を揃え、数日のうちに戦場へ送れ――。
しかし。
「兵を集めるとして……誰から、何を以て」
三成は低く呟いた。
諸大名の石高は限られている。数千の兵を割かせれば、その領国の守りは手薄となる。北国ではなお一揆の火種が燻っており、西国においては海賊の動きも完全には沈静化していない。もし今、国内で不測の事態が起これば、誰が矢面に立つというのか。
鉄砲や弾薬の調達もまた困難であった。堺や長崎に買い付けを依頼するとしても、銭に換算すれば莫大な額となる。今日費やす金子は、来年、再来年の検地や年貢の収入に確実に影を落とす。財政の疲弊はやがて政権の根幹をも揺るがすだろう。
それでも「殿下の御意」とあれば、誰も逆らえぬ。
諸将は内心で舌打ちをしつつも、命じられれば従うしかない。だが、その不満と反発の矛先が、政務を担う三成に集まるのは火を見るより明らかだった。
三成は静かに目を伏せた。
──いかにして、この不可能を形にするか。
──いかにして、秩序を乱さず、兵を動かし、物資を揃えるか。
その思考の中で、兵站の経路が地図の上に浮かぶ。港から船へ、船から戦場へ。どの大名にどれだけの負担を割り振れば、最小限の不満に抑えられるか。計算を重ねるたび、答えは霧の中へと遠ざかっていった。
「……すぐに、各大名へ使者を出す。まずは兵の割り振りを示せ」
三成は顔を上げ、家臣たちに命じた。
だがその声に、従者たちの瞳は不安を宿していた。
皆、知っているのだ。この命令を実行することが、どれほどの無理を孕んでいるかを。
障子の外では、春風が庭の木々を揺らしている。その音がかえって胸に冷たく響いた。
三成は目を閉じ、ひとり胸中で繰り返した。
──殿下の声を、どう形にするか。
──この務めを果たさねばならぬ。
三成は机上の巻紙を指で押さえ、沈思した。
不可能な命令を前に、ただ頭を抱えて終わるわけにはいかぬ。
「……まずは、近江・若狭より兵を割かせるしかあるまい」
静かに口を開いた。
北国の動乱を考えれば、会津や越後から兵を抜くのは危うい。畿内に近い領から動かすのが最も現実的だった。だがそれでは浅井・京極らの不満は必至である。
「鉄砲は堺にて買い付ける。金子は蔵より繰り出せ。……だが、これだけの支出となれば、来年の勘定に確実に響こう」
三成の言葉に、家臣たちは顔を見合わせた。
蔵は既に朝鮮への兵糧輸送で大きく削られている。さらに巨額の金子を投じるとなれば、民の負担は重くのしかかる。
それでも三成は筆を取り、素早く割り振りを書き付けた。
「反発は承知の上。だが、遅らせることは許されぬ。各大名へただちに使者を」
家臣たちが慌ただしく散ってゆく。
残された書院に、三成ひとり。
障子越しの春の光が彼を照らす。
──これで、誰が納得する。誰が不満を呑み込む。
──そしてその矛先は、すべてこの身に向かうのだ。
三成は目を閉じ、わずかに口端を歪めた。
戦場に刀を振るうよりも、かくなる文と算に命を賭けねばならぬ。
それが己に課せられた役目である。
筆の先に墨を含ませながら、彼はただ胸中で繰り返した。
──まずは、動かさねばならぬ。
──この国の秩序を、崩さぬために。
*
昼餉の刻を過ぎ、石田屋敷の座敷には沈んだ空気が漂っていた。
三成は勘定・兵站を預かる配下の奉行格を数名呼び集めた。いずれも算盤や書付に明るく、日々の出兵・物資の出納を取り仕切ってきた実務家たちである。
障子越しに春の光が差し込む中、三成は淡々と告げた。
「殿下より、新たなる御沙汰が下った。兵三千の増徴、鉄砲五百挺、火薬に鉛玉を大量に調え、十日のうちに渡海せよとのこと」
その言葉を聞いた瞬間、座中にざわめきが走った。ひとりの奉行が思わず顔を上げる。
「三千……。治部少様、近江一国の動員ならばともかく、すでに各大名の兵は大半が海を越えております。残るは国許の守備兵や農兵ばかり。これ以上抜けば、いずこかで一揆や国境の不測に備えられませぬ」
三成は頷いた。
「申しておく。兵三千は総数である。殿下より細目は示されておらぬ。いずれの家より、いかほど召し出すかは、我らが勘定し、割り振らねばならぬ」
座が凍りついた。割り振り次第では、諸大名からの反発は必至であった。
別の者が書付を捲りながら声を震わせた。
「鉄砲五百挺と仰せられましても、ただ銃身を用意するだけではございませぬ。火縄、油、替え筒、さらに火薬玉を合わせねば役には立たず。これを揃えるには、金子で言えば三千貫……いや、五千に及ぶやも知れませぬ」
「五千貫……」
三成は低く繰り返した。口には出さぬが、それは一国の年貢に匹敵する巨額であった。
奉行たちのざわめきの中で、三成は沈黙を保ったまま、心中で思案した。
──総数としては三千名、数だけ見れば少なく思える。だが現実は異なる。各大名はすでに多くの兵を海に送り、残るのは守備や農兵ばかり。わずかでも徴発すれば、国内の治安や作物の収穫に影響が出る。さらに武器・弾薬・金子を揃えれば、国全体の財政に大きな負担が及ぶ。たかが三千と侮れば、全体の秩序が揺らぐのだ。
沈黙ののち、最年長の奉行が言い淀む。
「もしや、殿下は……戦の実情を、御存じなく……」
その言葉に、座が再び凍りつく。三成はすぐさま手を上げ、制した。
「言葉を慎め。殿下は天下を御する御方。われらが知恵を尽くし、御意を形にせねばならぬ」
三成は姿勢を正し、奉行たちに視線を巡らせた。
「よいか。まずは各大名の兵数を洗い直す。守備を揺るがせにせぬ範囲で、どれほど捻出できるかを示せ。鉄砲と弾薬は、京・大坂・堺の商人筋に当たらせよ。ただし買い上げの金は急には集まらぬ。寺社や豪商からの借財も視野に入れる」
奉行たちは一斉に頭を垂れたが、その瞳に不安の色は拭えなかった。
ひとりが、さらに進み出て声を潜める。
「しかし、治部少様……。大名方より三千の兵を割り振るにしても、誰に何人を求めるかで、政権の均衡は大きく揺れましょう。加藤、福島といった武断派は、必ず口を尖らせるはず。あなた様のお立場を、さらに苦しめますぞ」
その言葉に、場の空気が一層重くなる。三成は硯の墨を見つめ、己に言い聞かせるように胸中で繰り返した。
──これは無理なる沙汰。しかし、果たさねば己の命運も、兵らの命も潰える。ならば、どこまで現実に近づけられるか……。
障子の外から、春風が微かに吹き込んだ。だが座敷の空気は、ひたすら重く沈んでいた。
三成は硯を前にして筆を執り、白紙の巻紙に大きく「三千」と書き記した。
「よいか。これを各大名に割り振る。石高に応じた按分が筋ではあるが、現実はそうはゆかぬ。まずは草案を示せ」
奉行のひとりが算盤をはじき、声を上げた。
「豊前・肥後の加藤清正殿、三千石あたりより三百名を。さらに備前・美作の宇喜多秀家殿に五百。いずれも兵を多く抱えておられるゆえ」
すぐさま別の者が首を振った。
「されど、加藤殿は朝鮮にて最前線を担う御身。ここで更なる負担を強いれば、必ずや口を極めて罵られましょう。宇喜多家も国許の政が揺らげば危うい。石高だけで測れば、反発は必至にございます」
さらに別の奉行が書付をめくる。
「では、伊達政宗殿、最上義光殿ら奥州勢に百名ずつ。彼らの国元は比較的安定しており、動員は不可能ではありますまい」
「いや、それも難しゅうござる」最年長の奉行が低い声で遮った。
「奥州は今こそ大きな戦はないが、一揆や境目の火種は絶えませぬ。伊達殿などは、むしろこれを機に独自の勢力伸張を狙うやもしれぬ。兵を抜けば、秀吉公の権威の及ばぬところで乱が起こる危険がござる」
三成は黙して筆を走らせる。奉行たちの意見はもっともである。しかし、無理なる沙汰を「できぬ」とは言えぬ以上、どこかに皺寄せをせねばならぬ。
やがて一人が思い切って言葉を放った。
「治部少様。やはり細川・黒田・小西ら、殿下に最も近き家々に多くを求めるほかありませぬ。彼らは殿下の御威光を疑うことなく従いましょうから」
座中に重い沈黙が流れた。三成は筆を止め、顔を上げる。
──その一言は真理に近い。だが、それは同時に、政権を殿下の「寵臣」ばかりに依存させ、他の大名との溝をさらに広げることにも繋がる。
墨の香漂う座敷で、算盤の玉が再び弾かれる。数字は冷ややかに整えられるが、その背後に潜む不満と反発は、紙には書き留めることのできぬものだった。
三成は深く息を吐き、声を低めた。
「よい。まずは案を整えよ。各家にどのような言葉を添えれば、反発を最小限に抑えられるかも考えよ。それを以て、殿下への上申しとする」
障子の外で春の光が揺れた。だが座敷の内には、冷たい計算と重苦しい沈黙だけが満ちていた。
(続く)
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