10.剛腕ゲーマーと初心者の夜 その1
その夜の『チェックメイト』は、俺の知る『チェックメイト』ではなかった。
店内はほぼ満席で、活気に満ちている。だが、そこに満ちているのは、いつものような血と硝煙と魂の叫びではなく、穏やかで、和やかで、どこか初々しい熱気だった。
「ねえ、このカードの効果って、どう使うの?」
「あ、待って、ルールブックもう一回見せて!」
「わー! すごい! 大逆転じゃん!」
聞こえてくるのは、カップルや大学サークルと思しきグループの、楽しげな会話ばかり。誰もダイスに殺気を込めないし、カードを叩きつけもしない。テーブルも、今のところ一つも傷ついていない。
なんて平和な光景だろう。まるで、普通のカフェみたいだ。
俺、相田 潤は、次々と入るドリンクの注文に追われながらも、そのあまりの正常さに、思わず涙が出そうになっていた。
そう、今夜は、奇跡的に「普通」の夜なのだ。
冴子さんも、影山さんも、まだ来ていない。
ただ一人、カウンターの隅に座る、その男を除けば。
「……チッ」
低い舌打ちが、平和なBGMに混じって俺の鼓膜を揺らす。
そこにいたのは、権田さんだった。
彼は、一人でオレンジジュースのグラスを傾けながら、店内の光景を、心底つまらなそうな顔で眺めている。
例えるなら、ウサギやヒヨコが集う「ふれあい広場」に、一頭だけ迷い込んでしまった巨大なハイイログマ。その姿は、あまりにも場違いで、異質で、そして危険なオーラを放っていた。
「おい、潤」
「は、はいっ!」
呼ばれただけで、俺の背筋は反射的に伸びる。
「……オレンジジュース、おかわりだ」
「は、はい! ただいま!」
俺は、彼の機嫌を損ねないよう、細心の注意を払ってグラスを差し出した。
権田さんは、それを一気に呷すと、またつまらなそうに店内を見渡す。その視線の先では、大学生の男女4人グループが、何やら小さな宝石のコマが並ぶゲームに苦戦していた。
「……なってねえな」
権田さんの口から、低い呟きが漏れた。
「宝石の輝きが、まるで分かっていやがらねえ。あんなのは、ただの石ころ拾いだ」
(宝石の輝き…?)
何を言っているんだこの人は。
俺には、彼らがただ和気あいあいとゲームを楽しんでいるようにしか見えない。
「体の軸がブレてやがる。だから、カードを取る手に迷いが生じるんだ」
「あの布陣……あまりにも隙だらけだ。俺なら3ターンで全員を叩き潰せる」
「そもそも、ゲームに対する『覚悟』が足りてねえんだよ、覚悟が」
ブツブツと、彼は一人、解説者とも批評家ともつかない、不穏な独り言を続けている。
まずい。非常にまずい。
彼のストレスゲージが、刻一刻と溜まっていくのが、目に見えるようだ。
あのゲージが振り切れた時、この平和な空間は、一瞬で地獄絵図に変わるだろう。
俺は、ただひたすらに祈った。
冴子さんか影山さん、早く来てくれ! この怪獣の注意を引いてくれ!
あるいは、大学生たちよ、早くゲームを終えて帰ってくれ!
だが、俺の祈りは、どちらにも届かなかった。
権田さんは、ついにオレンジジュースのグラスを、ゴッと音を立ててカウンターに置いた。
そして、ゆっくりと、本当にゆっくりと、椅子から立ち上がったのだ。
その巨体が、大学生たちのテーブルに向かって、ズン、ズン、と地響きのような足音を立てて歩いていく。
終わった。
俺は、全てを諦めた。
平和な夜は、今、終わるのだ。
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