第57話
第57話 Target55人目「ブレーメンの化け音」
Target 月丘しずる。
誰もが一度は名前を聞いたことがある絵本作家だ。書店の児童書コーナーに行けば必ず目立つ位置に平積みされている。色鮮やかな表紙と、温かい動物たちが仲良く暮らす物語。彼の作品は「やさしさ」や「思いやり」を子どもたちに伝える教育的な良書とされ、幼稚園や小学校でも教材のように扱われる。
テレビにも頻繁に出演し、にこやかな笑顔で子どもに読み聞かせをする。柔らかな声は眠りを誘うようで、保護者たちは安心して子どもを預けた。月丘は「国民的絵本作家」としての地位を築き上げた。
しかし、その裏側を知る者は震えていた。
編集者、装丁家、イラストレーター、イベント運営スタッフ。彼の周囲に関わった者たちの中には、心身に深い傷を負わされた者が少なくない。
表の顔は「やさしさ」だが、裏の顔は正反対。
月丘は自らの手を汚すことを恐れ、捨てアカウントを複数操り、関係者をネットで晒し上げた。
新米編集者の女性に対しては「無能」「顔で仕事を取っているだけ」と書き込み、自宅の位置を暗に示すヒントをスレッドに落とした。結果、女性はストーカー被害に遭い、通勤路で背中を押されて階段から転落。膝の皿が割れ、今もリハビリを続けている。
装丁家の男性に対しては「金だけ目当てのハイエナ」と嘲り、SNSで顔写真を拡散した。やがて彼は仕事帰りに見知らぬ暴漢に殴打され、肋骨を折られた。匿名掲示板には「駆除完了」と書き込まれていた。
さらに悪質だったのは、児童書イベントの裏側。保護者の目が届かない導線を見つけては、スタッフに隠れて子どもに不自然に近づき、身体に触れる。泣きそうになる子どもを「かわいい」と笑いながらカメラに収め、卑猥な行為を隠れて行う。報告書は曖昧にぼかされていたが、現場の警備ログ、スタッフの断片的証言が真実を物語っていた。
彼の罪は、表の顔と裏の行為の乖離にあった。教育者の仮面を被りながら、裏では弱い者を傷つける。やさしさを売りにしながら、実際には誰よりも冷酷で残虐だった。
アカリの前にあるモニタが淡く光る。
ログが繋がり、時刻表のように並んでいく。捨てアカウントの書き込み、晒し画像のアップロード時刻、現場の監視カメラの座標。
全ての線は一人の男に収束していく。
月丘しずる。
名声と富を得ながら、影では他者の人生を踏み潰す作家。
アカリは感情を表に出さない。だが、指先は冷たく速く動く。
「……Target認定」
小さな声が部屋に落ちた。
罪は重い。晒し上げ、暴力の扇動、児童への不適切な関与。反省はなく、むしろ快楽として繰り返している。
これに釣り合う罰を与える必要があった。
方法は決まっている。皮肉にも、彼自身が子どもたちに語ってきた物語で終わらせるのが最もふさわしい。
ブレーメンの音楽隊。動物たちが声を合わせ、悪党を追い払う物語。
音を武器にして、彼を追い詰める。彼が愛用していたスマートスピーカーとプロジェクターを舞台に。
夜。
月丘は自宅のスタジオにいた。壁一面の本棚には受賞した楯や賞状、分厚い全集が並ぶ。部屋の四隅にはネット接続スピーカー。中央にはミキサー。天井にはプロジェクター。
彼はいつものようにカメラをセットし、自分の朗読を収録する準備をしていた。
突然、プロジェクターが点灯し、白い壁に影絵が浮かぶ。犬、猫、ロバ、雄鶏——ブレーメンの音楽隊。
「なんだ……?」
月丘は首を傾げたが、機材の不具合だろうと軽く考える。
スピーカーから朗読の声が流れる。子どもに語りかけるような優しい調子。しかしそれは彼自身の声だった。過去に録音されたものをアカリが再生している。
音量が少しずつ上がっていく。
0.5dB、また0.5dB。人間の耳では気づかないほどの緩やかな上昇。だが確実に、部屋全体を振動させていく。
床の下から低音が響き、ラグの下で空気が膨らむ。本棚のガラス扉がかすかに揺れ、額装が微かに鳴る。
「おかしいな……」
月丘はフェーダーを下げるが、音は止まらない。スピーカーに近づき、スマホで接続状況を確認する。そこに浮かんだSSIDは——「やさしさをわけあおう」。
彼の額に汗が滲む。怒りと恐怖が入り混じる。
ルータを直接切ろうと、棚の上段に手を伸ばす。椅子を引き寄せ、座面に足をかけ、背伸びする。
その瞬間、音が厚みを増した。犬の吠えが太鼓の轟音に、猫の嘶きが軋む弦に、ロバの息が風圧に、雄鶏の鳴きが金属の悲鳴に変わる。
本棚の全集が前にせり出す。固定金具のネジが緩み、棚が倒れ胸の高さに滑り落ちる。
「やめろっ!」
月丘の叫びは音に呑まれた。椅子の足がラグの谷に沈み、バランスを崩した体が後ろに揺れる。
後頭部が壁に打ちつけられ、反動で額がミキサーにぶつかる。重い全集が胸を圧し、息が塞がれる。棚の角が鎖骨を滑り、ガラスが砕ける。
最後に残ったのは、壁に映る動物たちの影。悪党を追い払った寓話の結末。
音は、そこでふっと止まった。
数日後、ニュースは淡々と報じた。
「人気絵本作家・自宅で事故死」
出版社は哀悼のコメントを出し、SNSは追悼の言葉で埋まった。人々は「やさしい先生」を惜しんだ。
だが別の場所では、編集者の玄関に投げ込まれていた異物は消え、装丁家の夜道に付きまとっていた影は消えた。児童書イベントの導線は修正され、子どもたちは泣かなくなった。
彼が壊したものは多い。だが、もうこれ以上増えることはない。
---Target55人目 ― 死亡(ブレーメンの音楽隊の罰)
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