第6話:風はそばにいる
名前を知ってから、数日が経った。
けれど私の生活は、あいかわらずだった。
朝になれば制服に袖を通して家を出て、高校の門をくぐる。授業を受けて、誰かと会話をして、教室の窓から空を見上げる。
帰り道にはスーパーに立ち寄って、祖母と夕飯の支度をして、境内の落ち葉を掃く。
変わらない日々。変わらない風景。
だけど、そのどれもが、ほんの少しだけ違って感じられる。
──名前を知った。
それだけのことが、私の時間の流れを変えてしまった。
頭のどこかで、ずっと彼のことを考えている。
あの声の響き。
言葉の切れ端。
そして──あの名。
(蒼真……)
心の中でそう呟くたびに、胸の奥がふっと揺れる気がする。
知ってよかった。そう思う。
でも、それだけじゃなかった。
名前を知ったことで、距離が縮まったわけじゃない。
むしろ、境界がはっきりした気がした。
彼には過去がある。
私がまだ知らない、深い何かがある。
そこに踏み込むことは、簡単じゃない。
──けれど、踏み込みたいと思ってしまった。
「ねえ、来週の古典の小テスト、範囲どこまでだったっけ?」
校庭の風に揺れる葉の音を聞きながら、莉音が問いかけてくる。
「えっと……確か、『徒然草』の途中まで、って先生が言ってたような」
「あー……また曖昧な感じで終わってたやつね。 分かった、ありがとう」
そんな、どこにでもあるようなやり取りが、何故か今の私には以前より心地よかった。
何か。
それは、風の音なのか、それとも……彼の声なのか。
蒼真という名が、この胸の奥にひっそりと根を張っている。
鞄を肩に掛けて、学校の坂道を下りる。
風が、髪を揺らしていく。
今日は少し、涼しい。
山の上のあの場所へ向かう足取りは、ここ数日ですっかり馴染んでいた。
まるで日々の中に組み込まれた儀式のように、私はあの道を辿っていく。
名前を呼ばないようにしていた。
彼がそう言ったから、ではない。
名を呼ぶことで、何かが壊れてしまいそうで……。
そう思ったのは、私のほうだった。
彼は、私に名を明かしてくれた。
けれど、そこには線引きがあった。
「名を呼ばぬように」と言ったのは、たぶん、自分のためなんだ。
……だからこそ、私は呼ばなかった。
その名前を、心の奥に仕舞ったまま、ただ想いを重ねる。
今日も、またあの声に、会いに行く。
* * *
奥社の前に立つと、いつもと変わらない静けさが出迎えてくれた。
彼の名前を、声に出す代わりに、胸の中でそっと抱きしめたまま、口を開いた。
「……こんばんは」
空気が揺れた。
しばらくの沈黙の後、奥社の奥から、あの声が返ってくる。
「……また来たのか」
それは、以前よりもわずかに柔らかい響きを帯びていた気がした。
けれど、それが気のせいかどうかは分からない。
「うん……来たよ」
私の声も、少しだけ弾んでいたのかもしれない。
でも、彼はそれを咎めることも、遮ることもなかった。
それだけで、嬉しかった。
「……話を、してもいい?」
問うと、少しの間をおいて、短く答えが返ってきた。
「……いつも勝手に話しているだろう」
くす、と笑いそうになってしまった。
意地悪にも思えるその言葉の奥に、少しだけ、冗談のような匂いがした。
「……そうかも」
私が答えると、風が梢を揺らすように、空気がそっと動く。
まるで、彼が黙って頷いたかのような、そんな気がした。
言葉は、相変わらず少ない。
でも違っていた。
今までの彼は、ただこちらの言葉に応じているだけだった。
でも、今は違う。
問い返してくるようになった。
「……なぜ、呼ばなかった」
不意に、そんな声が落ちてきた。
驚いた。
私が胸の中で何を思っていたか、見透かされたような気がして。
だけど、その問いに、私は嘘をつけなかった。
「呼んだら……あなたが遠くに行ってしまいそうで、怖かった」
少しだけ声が震えていたと思う。
でも、それが今の私の、本当の気持ちだった。
「名を明かしてくれた時のあなたの声……痛そうだった。 触れたら壊れてしまいそうで、呼べなかった」
静寂が落ちた。
けれど、冷たいものではなかった。
その沈黙に、私は耳を澄ませた。
──彼は、まだここにいる。
「それでも、会いたかったから……来たんだよ」
私の言葉に、しばらくの間、返事はなかった。
けれど、やがて、その奥からぽつりと問いが落ちてくる。
「……ここにいなくてもいいのに、なぜ来る」
それは、以前にも聞かれたことのある問いだった。
だけど、今の私は──あの時よりも、ずっとはっきりと答えられる。
「会いたいからだよ」
本当の気持ちだった。
理由なんて、たぶんそれだけで十分だった。
「会いたいって……そう思うようになったんだ。 姿が見えなくても、言葉が少なくても、あなたに……会いたいって」
彼は何も言わなかった。
でも、それでも構わなかった。
「あなたのこと、まだ何も知らないけど……これから少しずつでも、知っていけたらって思ってる。 無理はさせない。 でも、ここにいるなら……わたしは、来たいと思う」
そう言って、私はゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、風の流れる気配に耳を澄ませる。
それでも、返事はなかった。
けれど、不思議と寂しさはなかった。
風が、頬を撫でていく。
ささやかな沈黙の中に、確かに誰かがいると──そう思えるだけで、私は満たされていた。
* * *
社務所に戻ると、祖母が台所から顔を出した。
「おかえり。 そろそろご飯にしようかね」
「うん、今行く」
そう答えて、私は靴を脱ぎながら振り返る。
夕空は群青色に染まり、東の空には一番星が瞬いていた。
(また、明日)
その言葉を、心の中でそっと呟く。
名を呼ばずとも、想いはきっと届くと信じながら──私は静かに、日常へと戻っていった。
夕食を終えて、湯を張った風呂の湯気が静かに昇る。
祖母が穏やかに口ずさむ懐かしい歌を背に、私は自室の窓を少しだけ開けた。
夜風が、頬を撫でる。
遠くで虫の音が重なり、どこかの家の犬が遠吠えをひとつ。
変わらない町の、静かな夜。
私はその音たちに耳を澄ませながら、今日のことを思い返していた。
名前を呼びたいと思った瞬間は、何度もあった。
けれど呼ばなかった。呼ばなかった自分に、今は後悔はない。
彼の沈黙もまた、言葉のひとつだと思えるようになったから。
今日の会話の中には、確かにそれがあった。
問い返してくれた。
私の言葉を、ただ受け流すのではなく、受け止めて、考えて、返してくれた。
その小さな変化が、私の胸に灯をともした。
(また、話したいな)
それは祈りのようで、願いのようで、けれど確かに、私の中で育ちつつある感情だった。
窓の外、山のほうを見上げる。
暗がりの向こう、見えはしないけれど──あの社は、きっと今日も変わらずそこにある。
「……おやすみ」
誰にも届かないように、小さくそう呟いて、私は窓を閉じた。
月が、雲の切れ間から顔をのぞかせていた。
♦︎ ♦︎ ♦︎
風の宮の奥。
誰も近づかない、そのさらに奥の禁足の社。
封じの結界は静かに脈動し、淡い光を滲ませている。
その中心、祠の奥に佇むひとつの存在。
人の目には映らぬまま、そこに「声」がある。
かつて「神」と呼ばれ、願いを叶えすぎたもの。
その代償に、名と力を封じられ、ここに鎖されたもの。
彼は、何も語らない。
けれどその内には、微かに揺れるものがあった。
少女は、今日も名を呼ばなかった。
それは拒絶ではなく、恐れでもなく、ただ「壊さないように」という、優しさだった。
(……愚かな)
小さく、かすれるような声が落ちた。
それは、少女にではなく──自らに向けた独白。
彼は知っている。
名を与えることが、どれほど深く、強い縁となるかを。
だからこそ恐れていた。
名を通じて、再び誰かと結ばれることを。
──けれど。
彼女は、呼ばなかった。
彼の意志を、たとえ半端でも受け止めて。
(それでも、なお来るというのなら……)
その先の思考を、彼は途中で断ち切った。
けれど、その残滓は、どこかに滲んでいた。
名を呼ばせた少女は、もういない。
けれど、名を呼ばぬ少女が、今、ここにいる。
──それは、何なのだろう。
彼はまだ答えを知らない。
けれど、それを知りたいと思ったこと自体が、すでに変化なのだと──
彼自身は、まだ気づいていなかった。
静寂の奥。
風が、祠の周囲をふと撫でて、抜けていく。
そこにはまだ、言葉にならない想いが、確かに存在していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます