第5話:風とその名前
この数日間、私はいつも通りに学校へ行き、放課後には神社へ通った。
山の木々が少しずつ色づき始めていて、季節の変わり目を感じる。
だけど私の時間は、ずっと同じところで、足踏みをしている気がしていた。
まだ名前も知らないその声の主は、私の問いかけに時折、返してくれるようになった。
でも、会話は長く続かない。まるで一言でも話すことに、深い葛藤があるように。
それでも、私は通った。
何を求めているのか、自分でもはっきりとは分からないまま、毎日のように足を運んでいた。
──ただ、知りたかった。
彼のことを。
どうして、あの声は私の心に触れるように響いてくるのか。
どうして、姿は見えないのに、こんなにも誰かを感じてしまうのか。
(……名前を、知らないからだ)
私は、名も知らない何かに惹かれている。
だから、知りたいと思った。
夕暮れの空は、今日も淡い朱に染まっている。
鳥の鳴き声が、山の向こうに吸い込まれていく。
石段を一歩ずつ登るたびに、胸の奥が少しずつ静かになっていく。
風が、頬を撫でる。
聞こえるかもしれない。
そんな予感のようなものを胸に、私は奥社の前で足を止めた。
「……こんにちは」
そっと呼びかけると、しばらくして、風のざわめきにまぎれるように声が返ってきた。
「今日も来たのか」
以前よりも、少しだけ柔らかい響き。
でも、それは気のせいかもしれない。
「うん。 ……来ちゃった」
答えると、しばしの沈黙。
でも、去れとは言われなかった。
私は静かに、結びついた手の中の問いを感じていた。
今日こそは、聞いてみようと決めていた──この数日間の、ささやかな積み重ねを胸に。
けれど、名を問うということが、こんなにも緊張を伴うなんて思わなかった。
深呼吸をひとつ、胸の奥に沈める。
「……ねえ」
私は、ゆっくりと問いかけた。
「あなたの、名前を教えてほしい」
風が、すっと吹き抜けた。
それはまるで、止まっていた時が動き出すような、そんな気配だった──。
その言葉を口にした瞬間、境内の空気が、わずかに張り詰めた気がした。
すぐに返事はなかった。
ただ、風が奥社の屋根を撫でるように吹き抜けていく。
私はその沈黙に、逃げたくなるような衝動をこらえながら立ち尽くしていた。
──でも、やがて声が返ってきた。
「……名は、必要ないと言っている」
低く、静かで、それでもどこか哀しみを含んだ声だった。
「なぜ、名を問う」
「……だって、わたし、知らないから」
私は、ほんとうの気持ちを言葉にした。
「いつも話してるのに、あなたのこと……何も知らないままなんて、変だよ。 あなたを誰かとして、ちゃんと知りたいって……そう思ったんだ」
その言葉は、どこまでも拙くて、不器用だったかもしれない。
でも、嘘はひとつもなかった。
しばらくの間、風の音だけが返事だった。
けれど、それは拒絶ではなく、ためらいのように感じられた。
「……知ってどうする」
ふいに、問い返すような声がした。
「名を知ったところで、何が変わる。 私はここにいて、おまえはそこにいる。 それだけだ」
「……それだけじゃないよ」
私は、少しだけ声を強くした。
「知るって、すごく大事なことだと思う。 名前を呼べるって……その人を人として、大切に思えることだから」
黙っていればよかったかもしれない。
でも、私はこの数日間ずっと、心の中でこの言葉を育ててきた。
「わたしは、あなたを何かとしてじゃなくて、誰かとして知りたい。 たとえ、姿が見えなくても……声しか聞こえなくても」
そして、もう一度、私は尋ねた。
「だから──あなたの名前、教えてほしい」
境内に、長い沈黙が落ちた。
風も止まり、木々さえも息を潜めるように、音を失っていく。
そして、ぽつりと、その名は落とされた。
「……名は蒼真」
低く、どこか寂しげな響きだった。
私の心の奥が、静かに震えた。
その名は、なぜだか、ずっと昔に聞いたことがあるような──そんな、不思議な懐かしさを宿していた。
「忘れろ」
その言葉が、次の瞬間に冷たく降ってきた。
「名を与えることは、縁を結ぶこと。 ……縁は、災いを招く」
静かな怒りとも、悲しみともつかない声。
その奥に、きっと深い記憶があるのだと、私は感じた。
「私に名を呼ばせた少女は、もういない。 ……そして、私も、ここにいるだけの災いだ」
「それでも──」
声を荒げかけた私を、彼はそっと遮った。
「名を返す必要はない。 ただ、呼ばぬように。 それだけでいい」
それきり、声は消えた。
風も、音も、すべてが沈黙に呑まれていく。
私の唇には、呼びかけかけた名が残ったままだった。
* * *
奥社を抜け、境内へ戻ると、空はすでに深い藍色に染まりかけていた。
静かな風が木々をくぐり抜け、夏と秋の境を漂わせるような匂いを運んでくる。
私は社務所の縁側に腰を下ろし、ふう、とひとつ息を吐いた。
夕飯の支度をするにはまだ少しだけ早くて、ほんのひととき──その余白に、私は浸っていた。
──蒼真。
その名が、心の内で静かに鳴った。
呼ぶなと言われた。
名を与えることは、縁を結ぶことだと。
だから、口にはしなかった。
でも、忘れることなんて、できない。
彼がその名を差し出したときの声音を、私はまだ胸の奥に感じていた。
まるで、過去の何かが痛んでいるような、遠くを見つめるような声だった。
(……名前を呼んだ子が、もういない)
その言葉の意味を、私はまだ知らない。
けれど、きっとその奥に、彼の過去があるのだと思った。
そして、名前を訊ねた私に、それでも名を明かしてくれたことが嬉しかった。
それが、ほんの一歩でも、彼の心の扉が動いた証ならば。
「……知ってよかった。 蒼真って、名前」
誰にも聞かれないように、そっと唇の中だけで言ってみた。
空気が揺れた気がしたのは、風のせいか、それとも──
私は静かに立ち上がると、奥社の方へと一度だけ目を向ける。
石灯籠に灯る小さな火が、風にゆれていた。
(明日も、会いに行こう)
たとえ話せることが少なくても。
姿が見えなくても。
この気持ちを、私は大切にしたいと思った。
境内の空は、星がひとつ、瞬いていた。
♦︎ ♦︎ ♦︎
──風が、また、吹いていた。
木々のざわめきも、鳥の気配も、すべてが遠ざかっていく。
閉ざされた奥社の中。
誰も足を踏み入れないこの場所に、今日も、彼女の気配が残っていた。
(名を問うてきたか)
胸の奥に、かすかな重さが沈んでいる。
それは痛みというよりも、遠い記憶をなぞるような感触だった。
問われたとき、答えるべきではなかったのかもしれない。
でも──答えてしまった。
彼女の声が、まっすぐだったから。
疑いも、欲もなく、ただ「知りたい」と願っていたから。
名は、縁だ。
かつて、それを信じて与えた名が、結果として、すべてを壊した。
だから今の自分には、もう名前など不要なはずだった。
けれど。
今の彼女は、その名に執着しなかった。
無理に呼ぶことも、繰り返すこともせず──ただ、受け止めただけだった。
それが、奇妙だった。
まるで「それ以上、踏み込まない」という意思のようにも見えて、それでいて「なお、そばにいたい」という想いのようにも見えた。
(……あのときとは、違う)
過去に名を呼んだ少女も、たしかに無垢だった。
でもそれは、ただ信じてくれていたから。
何も疑わず、すべてを預けてきたから。
──だから、壊してしまった。
だが今の彼女は、違う距離に立っている。
手を伸ばしてはこないのに、離れようともしない。
近づくでも、突き放すでもなく──ただ、そこにいてくれる。
(……不思議な子だ)
ああ、これは。
自分の中にまだ、誰かを見てしまう心が残っていたことに、今さら気づく。
声を聞いてほしいとも、わかってほしいとも、願っていなかった。
ただ、忘れてほしかったはずなのに──
(なぜ……今、こうして思い返している)
名を与えたのは、自分。
名を捨てたのも、自分。
けれど、忘れたと思っていた感情が、まだ残っていた。
それを、彼女の問いが、目覚めさせた。
──蒼真。
その名を口にされたときの、自分の声が思い出せる。
あれほど、胸の奥に重みを落としたことがあっただろうか。
ほんの少し、風が止んだ。
静寂が降りるなか、名もない神の心に、わずかな震えが落ちていた。
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