第3話:風の中にある声
風ノ杜神社の朝は、街よりも少しだけ早く始まる。
山の斜面に抱かれた境内は、夜露の残る石畳に朝の光を受けて、ゆっくりと目を覚ましていく。鳥の鳴き声が遠くから聞こえ、空気は澄んで冷たかった。
私は、いつも通り帚を持って石段を掃いていた。
「こよみ、朝ごはんできてるよー」
玄関の方から祖母の声が聞こえて、私は帚を片づけて家の中へ戻った。
味噌と出汁の香りが、湯気と一緒に鼻をくすぐる。ちゃぶ台の上には、焼き魚、ほうれん草のおひたし、そして大きめの椀に盛られた具だくさんの味噌汁。
「……いただきます」
手を合わせてから箸を取ると、向かいの祖母が新聞をたたみ、湯呑を口元に運びながらぽつりと言った。
「……最近、よく境内にいるようになったねぇ」
「え?」
箸が止まる。
「朝の掃除、前よりずっと熱心だろう? なにか気になることでもあるのかい」
私はすぐには答えられなかった。
──だって、言えない。
あの声のことも、気配のことも。言葉にすれば消えてしまいそうで、それが怖かった。
「……なんでもないよ。 ただ、なんとなく」
笑ってごまかすと、祖母は深く聞いてこなかった。
「そうかい。 春は、いろいろ感じやすい季節だからねぇ。 風も、匂いも、人の気持ちも」
昔話をするような口調で、でも、少しだけ私の胸に残る言い回しだった。
春は、人を変える。風が吹いて、いろんなことを思い出させる。
朝食を終えると、制服に袖を通し、鏡の前で髪を軽く整えた。
髪が頬に触れて、いつも通りの私がそこに映っている。
でも、ほんの少しだけ、昨日の自分とは違う気がした。
「いってきます」
玄関で靴を履きながら声をかけると、祖母が台所から手を振った。
「気をつけてお行き」
鳥の声と朝の空気を背中に感じながら、私は通学路を歩き出した。
その途中、ふと空を見上げる。
春霞にかすんだ空。そこには、細く淡いひこうき雲がひとすじだけ残っていた。
* * *
教室の窓の外に、うっすらと白い雲が流れていた。
春霞高校の朝は、いつもと変わらず始まったはずだった。ホームルームの時間、先生の声は遠く、ただ機械的に耳へと届いてくる。私は自分の手元をぼんやりと見つめていた。指先が微かに震えているのは、寒さのせいではなかった。
──風が通った。
あの日の感触が、まだ胸の奥に残っていた。
「ねぇ、こよみ?」
小さな声が横から届く。
莉音は、今日も気さくな笑みを浮かべていたが、どこか探るような目をしていた。
「今日も、ちょっとぼーっとしてる?」
「……そうかな」
私はやんわりと笑ってみせた。
笑顔というより、形だけのやり過ごし方だった。
「無理しなくていいんだよ。 話したい時は、聞くからさ」
「……ありがとう。 でも、大丈夫」
それ以上、莉音は深く踏み込んでこなかった。彼女なりのやさしさがそこにあった。
私は目を伏せ、教室の天井を仰いだ。
誰にも言えないことがある。けれど──誰かに聞いてほしい気持ちも、確かにあった。
昼休み。
購買の袋を抱えて戻ってきた莉音がパンを分けてくれた。
そのやり取りも、昨日と同じ。けれど、私の心は少しずつ、昨日とは違っていた。
窓の外を見ると、風がまた校庭を駆け抜けていく。
枝先の蕾が揺れ、制服の袖口にも微かに風が触れたような気がした。
──神さまは、どうして声をかけてくれたんだろう。
問うた声に応えるように、記憶の中のあの声がかすかに響いた。
(……また来たのか)
その言葉の奥にあった微かなためらい。
あれは、拒絶ではなかった。完全に、ではない。
もしかすると──ほんの少しだけでも、話すことを許してくれたのかもしれない。
だから、また会いたいと思った。
でも会いたいというよりも──
──話したい。
言葉を交わしたい。あの、静かで、孤独に閉ざされたような声の主と。
そう思った瞬間、私の中で何かが変わった。
単なる不思議な出来事への興味ではない。呼ばれている──そんな感覚。
(……今日も、行こう)
そう決めた時には、もう体がそちらへ向かう準備を始めていた。
* * *
坂道をのぼる足取りは、昨日よりもずっと静かだった。
放課後の空気にはまだ昼の熱が残っていて、蝉の鳴き声が遠くでくぐもっていた。けれど、風だけはどこか冷たくて、朝方に感じたあの気配を、確かに思い出させてくれた。
手には、小さな和紙の封筒があった。
授業中に言葉のように浮かんできた気持ちを、そのまま短く書き留めたものだった。意味があるかどうかは分からなかったけれど、何か届けたいと思った。
そして気がつけば、私は今日もまた、ここに来ていた。
境内は昨日と同じように静かで、人の気配もない。
鳥居をくぐるとき、私は封筒を胸元にしまい込んだ。足を踏み出すたび、草の香りと石のぬくもりが微かに伝わってくる。風が通り抜けるたびに、耳の奥にさざ波のような感触が残った。
奥社の手前で立ち止まる。
見えない境界のようなものを越えてはいけない気がして、その場所にだけは踏み込めないまま、私はそっと声をかけた。
「……また、来ちゃった」
しばらくの沈黙のあと、空気の層が一枚、静かにめくれたような感覚があった。
そして──
「……またか」
昨日よりも、幾分か柔らかく響いた声だった。
でもその言葉には、まだ明確な拒絶の気配がある。
「勝手に来て、ごめんなさい。 でも、どうしても伝えたくて……」
私は胸元から封筒を取り出すと、そっと足元に置いた。
「これ……あなたへの手紙。 意味があるか分からないけど……昨日の声を聞いて、どうしても、伝えたくなったから」
「……手紙、だと?」
その言葉に、ほんのわずか、戸惑いのような響きが混じった。
「姿も、名も分からない人に宛てて書くなんて、ちょっと変かもしれないけど。 ……あなたが誰かも分からないのに、どうしてか、ちゃんと届く気がしたの」
また少し、風が揺れた。
「……人というのは、そうして言葉を投げることで、何かが変わると信じているのか」
それは否定ではなかった。ただ、どこか遠い問いのように聞こえた。
「信じたい、だけかもしれない。 ……でも、わたしは……あなたを知りたいの」
言ってから、胸の奥がきゅっとなった。
でも、それが今の私の、嘘のない言葉だった。
「なぜだ」
「え……?」
「なぜ、知りたいなどと……。 私には、語るべきものなど何もない。 ここにあるのは、忘れ去られた声と、祓われぬ災いだけだ」
低く、静かな声。けれど、ほんの少しだけ揺らいでいた。
「でも……誰にも知られないままでいるなんて、悲しいと思う。 名前も、顔も、心も、誰にも伝わらずに消えてしまうなんて……」
「名は、要らぬ」
ぴしゃりと断ち切るような声が返ってきた。
「縁を結べば、また誰かの願いに触れてしまう。 ……それは、繰り返してはならぬことだ」
私は、言葉を失って立ち尽くした。
封じるように口を閉ざしたその声の奥に、どれほどの痛みと後悔があったのか──それを、私はまだ知らない。
ただ、ぽつりと落とされた一言が、耳の奥に残っていた。
「……もう、名を持つ資格などないのだ」
それが、ほんの一瞬だけ、誰かに手を伸ばしかけた声に聞こえた気がした。
風が、ふたたび吹いた。
私は手紙をそのままにして、深く一礼した。
「……また、来ます」
返事はなかった。
でも、風の揺らぎが、それを拒んでいない気がした。
* * *
夜の帳が下りて、我が家の食卓にも静かな時間が流れていた。
ちゃぶ台の上には湯気の立つ味噌汁と、焼き魚。
祖母は茶碗を持ち上げながら、ひと口ずつ丁寧に箸を動かしていた。
「明日から、また寒くなるらしいよ。 こよみも、もう少し厚着していきなさい」
「……うん。 気をつける」
そう返事をしながら、私は箸を動かす手をふと止めた。
今日、あの場所で聞いた声。
その余韻が、まだ胸の奥で消えずに残っていた。
夕暮れの空の色と、石畳を撫でた風の感触。
そして、読まれたかどうかも分からない、あの手紙のこと。
(……あんな書き方で、ちゃんと伝わったかな)
思い返すと、私は思わず小さく笑っていた。
ただ、名前も知らない誰かに宛てて、素直な気持ちを書いただけの手紙だった。
形式もなければ、飾り気もない。
それでも、嘘はなかった。
食後、皿を洗い終えて自分の部屋に戻ると、カーテンの隙間から夜風が入り込んできて、白いレースを揺らしていた。
机の上には、開きかけの文庫本と、未開封のままの便箋が数枚。
私は椅子に腰を下ろし、ゆっくりと深呼吸した。
──なぜか分からない。でも、また行きたいと思ってしまう。
理由はあとから考えればいい。
あの声に触れたとき、自分の中に確かに何かが生まれた。
それをもう一度、見つめ直したいと思った。
「……また、行こう」
ぽつりと呟いた声は、部屋の静けさの中にすっと溶けていった。
窓の外では、風がそっと庭木を揺らしていた。
その音がまるで、遠くから返事をしてくれたような気がして、私は微かに目を細めた。
♦︎ ♦︎ ♦︎
その頃──
こよみが去ったあとの、誰もいない奥社の石の空間に、風が一筋吹き込んだ。
手紙は、社の傍に置いたままだった。
封もされていない、折りたたんだ紙に、何かが触れたような気配がある。
空間に、ひとときだけ揺らぎが生まれた。
(……なぜ、おまえは忘れていない)
その思念のような気配は、風とともに静かに消えていった。
夜は深まり、境内を包む静けさだけが、なおもそこにあった。
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