第2話:風の音がまた聞こえた日
教室の窓の向こう、春の空は、今日もぼんやりと滲んでいた。
春霞高校の二年三組。
チャイムが鳴り終わってもざわめきの収まらない教室は、毎日が昨日の続きのようだった。
「こよみ、授業のノート……今日の分も、借りていい?」
隣の席から莉音が、申し訳なさそうに声をかけてくる。
私はカバンに手を伸ばしながら、わずかに微笑んだ。
「……うん。 でも、ちゃんと返してね」
「ありがとう。 最近、ちょっとだけ……サボりぎみで」
「ちょっとだけじゃないと思う」
私の苦笑に、莉音は小さく舌を出して笑った。
「も〜そんなことないってば。 てか、こよみこそ、いつもよりぼーっとしてるよ。 もしかして寝てた?」
「寝てないよ。 ちょっと……ぼんやりしてただけ」
「ふーん? なんか最近のこよみ、すこしだけ変な気がする。 何かあった?」
「……別に、なにも」
莉音の勘の良さにはいつも驚かされる。
私の顔に書いてあるわけでもないのに、なぜか小さな変化を見逃さない。
でも、その先には踏み込んでこないのが、彼女のやさしさだ。
授業がはじまり、時間はいつもどおりに過ぎていく。
板書を写しながらも、ふと気づけば窓の外に視線が逸れていた。
校庭の桜はまだ蕾のままだけど、日差しはすでに春を告げ始めている。
七歳になる年の春、私はあの声を聞いた。
けれど、あれから一度もあの声を聞いていない。
放課後。
莉音は友人たちと楽しそうに話しながら、駅前のカフェに寄るらしかった。
「今日は帰るの? こよみ」
「……うん。 神社、いろいろあるから」
「そっか。 また明日ね!」
莉音の笑顔に軽く手を振って、私は一人で帰路についた。
坂道を登る足取りは、軽くもなく、重くもない。
ただ、毎日通い慣れた道を、黙って歩く。
山のふもとに差しかかる頃、風が少しだけ強くなった。
何気なく振り返った空には、ひこうき雲が一本だけ残っていた。
それを目で追っているうちに、私は思い出していた。
声の主──あの神さまのことを。
言葉も、温度も、ぜんぶ覚えている。
でも、ここしばらくは何も聞こえなかった。
私が変わったのか、神さまが沈黙したのか、それすら分からないまま──
(……また声が聞きたいな)
そんなふうに思ってたのは、今日が初めてだった。
* * *
石段を登る足音が、今日はやけに響いた。
境内にはもう陽が傾きかけていて、木々の影が長く伸びていた。
風鈴は鳴らず、鳥の声もしない。ただ、遠くの町のざわめきだけが、かすかに耳に届いていた。
私は手水舎に立ち寄って、ゆっくりと手を清める。
冬の名残がまだ残る水は冷たく、掌から伝わるその冷気に、胸の奥が少しだけ震えた。
掃除は、祖母が午前中に済ませていた。
だから私はただ、神社の空気の中を歩いた。
拝殿の前に立ち、頭を下げて、何も願わずに手を合わせる。
昔からそうだ。
私はこの場所で、何かを「願う」ことができない。
指先を合わせたまま、そっと目を閉じる。
──春の風。
ほんの少しだけ、温度を帯びた風が、頬をかすめていった。
はっとして目を開ける。
その風に、何かを感じた気がした。
見上げた鈴が、小さく揺れていた。
軒先に吊された、小さな銅の風鈴。
その音は、どこか──昔、聞いた音に似ていた。
私は無意識に、奥社のほうへと視線を向けていた。
拝殿の裏手。
苔むした石垣を越えた先、木々に囲まれた細い小道。
春の夕暮れはまだ淡く、その影を濃くは染めていない。
けれど、そこには確かに違う空気があった。
今日の風は、あの日の風に似ている。
十年前──あの声を聞いた日の風。
なぜか、そんなふうに思った。
理由なんて、どこにもない。
けれど、空の匂いも、雲の色も、風の音も──全部が、あの時と同じに思えた。
私の中で、何かが静かに、目を覚ました。
気がつけば、私は社の奥へ向かって歩いていた。
鳥居の前で、立ち止まる。
古びた木の柱には、薄く陽が差し込んでいた。
注連縄は新しく巻き直されていたけれど、それでも、ここだけは時間が止まっているようだった。
私の視線が、社の扉へと向いた瞬間──
風が、通った。
木々が揺れたわけでもない。
葉擦れの音すらなかった。
ただ、私の耳の奥に、ふっと──
「……おまえ、また来たのか」
世界が、凪いだ。
胸の奥が、一瞬で冷えて、それからじん、と熱を持つ。
何もないはずの空間から、確かに、あの声が聞こえた。
十年ぶりにただ、そこにいるように届いた声。
「……あなたは……」
声が震える。
でも、足は動かない。
体のどこかが、懐かしさでぎゅっと締めつけられていた。
「どうして──」
そう呟いたその言葉に、返事はなかった。
けれど、風がもう一度だけ吹いた。
それはまるで、遠くで誰かが、ふと息を吐いたような気配だった。
十年ぶりに届いた声は、
あの時と変わらず、静かで、やさしくて、少しだけ寂しかった。
* * *
夜の神社は、ひとけもなく静まり返っていた。
夕食の準備をする祖母の背中を眺めながら、私は台所の隅でじゃがいもの皮を剥いていた。
手は動かしているのに、頭の中はずっと、あの声のことでいっぱいだった。
(……おまえ、また来たのか)
たった一言だけだった。
でも、その言葉は耳から消えず、今も胸の奥に残っている。
「こよみ、切ったらお味噌汁の鍋に入れてくれるかい」
「うん」
返事はできる。でも、うわの空だった。
不思議なことが起きたのに、私は誰にもそれを話そうとは思えなかった。
だって──
あの声は、私にしか届いていない気がしていた。
思い出せば思い出すほど、それは夢のようにも思える。
幻聴だったんじゃないかと、疑いたくなる瞬間もあった。
けれど。
あの声が届いた瞬間、空気が確かに変わった。
風の流れが、時間の感覚すら、あの時だけ違った──それだけは確かだった。
夕食のあと、私は茶碗を片づけ、少しだけ庭に出た。
古い木の影が、夜風に揺れている。
見上げた空には星がまばらに瞬き、白く細い月が、山の端にかかっていた。
(……また、聞こえるのかな)
そんなことを思っても、声は戻ってこない。
まるで、一度だけの奇跡だったみたいに。
でも、私はなぜかもう一度を信じている自分に気づいていた。
──風が吹くたびに、神さまの気配を探してしまう。
胸の奥に、小さな祈りのようなものが芽生え始めていた。
それが何なのか、まだ分からないまま──
* * *
夜が明けきる前の静けさが、まだ境内に残っていた。
私は帚を手に、石畳を掃いていた。
ひんやりした朝の空気が、手先にじんと沁みる。
しゃっ、しゃっ、と掃く音が響く。
それ以外には、遠くの鳥の声と、山の木々を撫でる風の音だけ。
けれど、そんな静けさの中で──私は耳を澄ませていた。
もしかしたら、あの声がまた聞こえるかもしれない、と。
(……やっぱり、夢じゃなかったと思う)
昨日、確かに聞いた。
あの低くて穏やかな、どこか懐かしい声を。
「こよみ、冷えるよ。 そろそろ中に入りなさい」
玄関先から、祖母の声がした。
私は帚を壁に立てかけて、手をはたきながらうなずいた。
土間を上がると、台所には味噌と出汁の香りが立ち込めている。
切り干し大根の煮物が湯気を立てていて、味噌汁の鍋の蓋がかすかに揺れていた。
「お味噌汁と、焼き魚だよ。 ちゃんと食べていきなさいね」
「うん。 ……ありがとう」
ちゃぶ台に座って箸を揃える。
その向かいで、祖母が新聞を広げていた。
味噌汁を一口すすると、体の奥にあたたかさが染みてくる。
でも、心はまだどこか、昨日の声の余韻を引きずっていた。
「……ねえ、おばあちゃん」
「なんだい?」
「神さまって、ほんとにいると思う?」
祖母は新聞から目を上げて、少し驚いたように私を見た。
でも、すぐに笑って言った。
「いるともさ。 少なくとも、私はずっとそう思ってるよ」
「……なんで?」
「そりゃあ、この神社で長年暮らしてきたからね。 姿が見えなくても、在るって感じることはあるもんだよ」
私は軽くうなずいて、湯気の向こうの景色をぼんやりと見つめた。
「……そうだね」
箸を取り直して、私は煮物に手を伸ばす。
あたたかい味が口の中に広がって、胸の奥のざわつきが少しだけ和らいだ気がした。
今日も、変わらない朝が始まっていく。
けれどその朝は、昨日よりもほんの少し──風の匂いが近く感じられた。
* * *
夕暮れの街を抜けて、私は神社の参道を上っていた。
空はすでに山の端へ沈みかけ、淡い群青に染まり始めていた。
石段を踏む足音だけが、静かな空気に溶けていく。
境内に灯りはなく、社の屋根が夜の気配を映している。
拝殿の前で一礼し、私は奥へと進んだ。
奥社へ続く石畳は苔むしていて、昼でも薄暗い。
(どうして……今日も、来てしまったんだろう)
自分でも分からない。
でも、何かが私をここへ引き寄せている──そんな気がした。
足を止めたのは、奥社の少し手前。
誰もいないはずの、その空間で──空気がふと揺れた気がした。
「……いるの?」
問いかけた声が、すぐに返ることはなかった。
でも、確かに気配はそこにあった。
「……また来たのか」
低く、静かな声。
昨日より、少しだけ深く届いた気がした。
「やっぱり……あなた……」
「戻れ」
「……え?」
「二度と来るな。 ここは、人が踏み入れる場所ではない。 ……災いを招く」
冷たく、突き放すような声音だった。
けれど、その奥に、ほんの一滴だけためらいのようなものがにじんでいた。
「どうして……?」
私は一歩だけ前に出る。
それでも、相手の姿は見えない。
「私は……人の願いに触れすぎた。 その果てに、災いをもたらした。 それだけだ」
感情のない声。
けれど言葉のひとつひとつが、やけに静かで、寂しげだった。
「でも、あなたは──今、わたしに話してくれてる。 それは……どうして?」
「風が、通っただけだ。 おまえの声が……それを、たまたま呼んだに過ぎない」
「また、おまえって……?」
その言い回しが少しだけおかしくて、私は苦笑した。
「名前も知らないくせに、ずいぶん馴れ馴れしいよ」
「……名を知れば、縁が生まれる。 それは、もう必要ないものだ」
そこまで言うと、声はぱたりと途絶えた。
風も止まり、境内を包んでいた気配がすうっと引いていく。
「……待って、まだ話して──」
呼びかけは、空へと吸い込まれていった。
私は一人、薄闇の中に取り残された。
けれど、まったく怖くはなかった。
胸の奥に、何かがそっと芽生えはじめていた。
それが祈りなのか、興味なのか、それともただの記憶なのか。
まだ分からない。
でも、私はきっと──また、ここに来てしまう。
風が吹けば、また、声が聞こえる気がするから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます