第5話

香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より


 かくにあるらし 古も 然にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき


 (巻一の一三)




 仕事から帰宅した香織は、玄関を「ただいまー」と普段の調子を装い開けた。


 見慣れたトレーニングシューズが丁寧に並んで脱がれており、それが香月が帰宅している事実となり、少し胸をなでおろした。




 昨夜のことがあってから、香月はわざと敬語を使うことで距離感を作り、最小限の会話だけを交わしてくるようになってしまった。


 今朝も逃げるように玄関を締めてしまい、後ろ姿を見送る隙さえ与えてくれなかった。




 もう大人になったと認めてあげ、本人の意思を尊重してあげたい半面、まだまだ世間知らずの子供で、守られる立場にいることを認識しておいてほしいと願ってしまう。




 まだ幼い香月を残し、夫がいなくなってから、自分一人が背負ってきた苦労という一言では片づけられない経験が、どうしても香月の幸せを、ただただ強烈に願ってしまう。


 だから、自分が感じるすべての危険性から、全力で遠ざけようとする。




 正直、学校から報告を受けている男性教師に男子生徒が、愛の告白するということは、他人事ならどうでもよかった。


 誰が誰を好きになろうが、まったく自分たちの生活には一切関係ない話である。




 ただ、香織にとっては同性愛自体、受け入れ難い事柄であったため、嫌悪感を持つかもしれないが、それなら距離を置けばいいだけのことだった。




 しかし、自分の息子が同性愛者だったとなると、話は全く変わってしまう。




 この歳の性は動きやすいと耳にしているので、確定したわけではないが、自分の息子が同性愛者になって喜ぶ親などこの世のどこを探してもいるはずがない。


 もし息子が同性愛者であることが事実なら、香月が幸せを目いっぱい思いながら育ててきた方法のどこに間違いがあったのか、これまでを否定されたような気持になってしまう。




 人に迷惑をかけないように、誰かのためになることを進んでできるように、協調性に富んだ人間になってほしいとの思いで、半ば強制的に始めさせた野球も、今ではチームのキャプテンとして活躍するまでになっている。




 仕事が遅くなり、疲れて帰ってきた時は晩御飯を用意してくれていた。洗濯物の整理も明日の準備もしてくれていた。お互いに心が通じ合え、尊重できている自慢の息子だと、本当に誇らしく思えていた、ついこの間まで。






 香織は真っ暗なキッチンの電気をつけ、惣菜の入ったスーパーの袋をテーブルに置いた。




 静かすぎる家の空気に頭が痛くなる。大きくため息をつき、晩御飯の準備をはじめるため、まずは白米を炊こうと炊飯器に目を移した。




「あっ・・・・・・」


 そこには既に白米は炊きあがり、保温状態になっている炊飯器があった。


 また大きくため息がでるが、先ほどのため息とは、意味が全く違っていた。




「香月・・・・・」


 よく部屋を見渡すと、出しっぱなしだった朝食の食器も、洗濯物も片づけられ、お風呂も準備されていた。




 昨日の出来事は一体なんだったのか、深く悩んでいた自分が馬鹿らしくなり、バックからスマホを取り出し、90年代に日本を一世風靡した小室ソングをかけた。










 机の上に立てたiPadから、有名ユーチューバーが問題を解説する動画をイヤフォンで聞きながら、香月は右手に持ったペンをクルクル回していた。


 そして何度か納得できたように頷いたあと、手元に広げた予想問題にペンを走らせる。


 そんな時間が流れるのは生涯初めてだった。




 部活でクタクタになってしまい、なんとかギリギリの精神力で宿題をこなすだけの日々では、知識など頭に残らない。


 授業中も上の空で、半分眠りながら時間を過ごしていた。


 そんなやっつけ的な時間が多ければ多いほど、将来の夢なんて持てるはずがない。




 正直、今の寄せ集め的な野球部では、甲子園なんて目指せるとは思えない。それでも、自分が少しでも自分でいれる場所では、全力でそこに存在しない限り、【生きている】と感じられなかった。




 だけど、そんな季節も終わってしまう。


 もう全力で生きられる場所なんて、将来の夢なんて現れないと思っていた。


 縄手先生に出会い、その笑顔に、その暖かさに、その優しさに触れるまで。




 本当は、ひょっとして全力で自分が自分でいれる場所が、すぐ近くにあることを心のどこかで気付いていた。


 最初から欲しかった、だけど脆くて、自信がなくて、臆病になって、消えてしまう可能性が高い場所だった。


 だから、距離を置いてそっと見守っているだけにしておこうと、ずっと逃げていた。






 縄手のことを思うと、目の前がぼやけてくる。「もう絶対に逃げない。」溢れそうになる思いを手で拭いながら、「俺って、こんなに泣き虫だったっけ。」とつぶやいた。






 ドアをノックする音が、イヤフォンの隙間から聞こえた。




「はい!」


 母親の香織が、トレイに晩御飯を乗せて入ってきた。


「勉強、頑張っているみたいやから、持ってきたで。」


 チラッと母に目をやり、慌てて涙を両手で拭った。


「そこのテーブルに置いといて。」


 涙の跡を見られたくない久米は、背中を向けたまま答えた。




「うん。置いとくわ。頑張ってや。」


 香織は少しぶっきらぼうな返事に、逆に安心し、勉強に集中している香月の姿に笑顔になった。




 部屋のドアを閉めようとした時、不意に久米は振り返った。




「母さん、昨日はごめんなさい。本当にありがとう。」


 頭を下げた。




 そんな返事が返ってくると思いもよらなかった香織は、少し驚きながら、


「私の方こそ、ごめんやで・・・・」


 と首を振った後「じゃあ、頑張って!」と、今の距離感を壊さないように小さく手を振りドアを閉めた。




 普段の日常が戻ってきたと思えた感覚に間違いはなかったと、香織は大きく頷いた後、キッチンに足早に戻って行った。






 ――――――――――






 斎部が誘うディナーコースのある料理店なんて、ドレスコードがあり、テーブルマナーがあり、アルコールのセレクトにもこだわりがあり、お値段もかなりバブリーなもので、身の丈に合わない自分など、入り口のセキュリティーに門前払いを受ける場所だと思っていた。






 会社帰りのサラリーマンで賑わう大阪環状線のガード下をくぐり、そこらじゅうの換気扇から、たまらなくおいしそうな匂いを放つ路地裏を抜けた河川沿いに、その店は佇んでいた。




 ディオンヌ・ワーウィックが流れる小さな店の扉の先は、ある程度のマナーは必要だが、一度経験してしまえばハードルは思っていたほど高くなく、会計も自分の薄給であっても、二人分支払いやすい空間が広がっていた。




 最初は斎部が気を使い、自分に合わせてくれているのだと思っていたが、単純に余計なところに経費をかけない、料理素材に全てをかけたコスパのいい、行きつけの店を紹介してくれていただけだった。




 自分にとって、格差がありすぎて絶対相手にしてもらえない高嶺の存在。




 もしマッチングアプリで出会っていたら、一生分以上の運を使い切ったと思える存在。いやマッチングアプリなどする必要は、斎部には微塵もないだろうから、そんな陳腐なたとえでは表現できない奇跡的で運命的な出会いだった。






 五年前、まだ自分がオリンピック強化選手だった頃、合宿先の打ち上げに使った居酒屋で、酔った勢いで声をかけたことがきっかけだった。


 正直、素面では声など絶対にかけられない。今でも慣れきれない威圧感に似たオーラを、斎部は持っている。


 だけど、そのオーラは孤独からにじみ出る寂しさを隠すための強がりのように思えてしまうことがある。容姿はもちろんだが、そこがたまらなく魅力的だった。






「おつかれ!」


「お疲れっした!」


 チリワインで満たされたグラスを合わせる。フルボディの濃い赤が弧を描き揺れる。運ばれてくる前菜にフォークを入れながら


「実家に来れそうな日、あった?」


 縄手は上目遣いに斎部を見た。


「そうだね・・・・・ちょっと面倒な案件が回ってきたから・・・・・・早くても十月かな。」


 ワイングラスをテーブルに置き、フォークを手にする。




「ちょい先かぁーまあぜんぜん急いでるわけちゃうし、優耳の都合ええタイミングで大丈夫やで。」


 口にした前菜をかみ砕き、


「本当は優耳のご両親に、ご挨拶をするのが先やねんけどな。」


 縄手は小さく息を吐いた。




「いいよ、うちは。」


 前菜を一口で平らげながら、斎部は縄手を見た。


「そうゆうわけには・・・・」


「もう何年も会ってないからね。」


 縄手はワインを一口飲み、テーブルにグラスを置いた。


「そうかあー。優耳の実家は俺の職場のモロに橿原やのになあ。」


「近いけど、特に行く用事ないしね。」


 斎部は、グラスのワインを一気に飲み、目を反らした。




「俺は優耳のご両親に会ってみたいなぁー」


「いいって!」


 斎部はため息をつく。




「やっぱ優耳のお母さんって、優耳に似て美人なんだろうな。」


 少し身を乗り出し、斎部の顔を縄手は笑顔でのぞき込んだ。




 空いた皿が引かれ、スープが並ぶ。


「忘れた。」


 スプーンですくいあげたスープを一口飲んだ斎部は、ぶっきらぼうに答えた。小さくため息をつきながら、


「それより、お前の学校の方は大丈夫なのか?」


 ワインが注がれたタイミングで、話を変えるように縄手を見た。




「お前」呼ばわりされた縄手は、斎部がイラついていることに気づき、これ以上家族の話をするのはやめようと決め、今日あった久米とのことを話した。






「やっぱ俺って、教師に向いてんやなぁって、マジで心底思ってもーたで。」


「熱いーーって言われるけど、それくらいでちょうどええねんって!」


 自慢げに話す姿に、運ばれてきた魚料理を二口程度で食べた斎部は大きくため息をつき、腕を組んだまま、目を閉じて俯いた。少し考えた後、


「それは・・・・・どう考えてマズいぞ。」


「お前、まだ私のことを伝えてないのか?」


 組んだ肘を指先で叩く。




「う・・・・・ん。」


 褒められると思っていた縄手は一気にトーンダウンした。


「まだ、言ってないなぁ・・・・・・」




「一番伝えないといけないことを、言ってないじゃんかよ。」


 また大きくため息をつき


「ハッキリしないと、そこは。」


 斎部は腕をほどき、少しあきれ顔でテーブルのワイングラスに手を伸ばした。




「わかった。やっぱ言わんとあかんとこやな。」


 縄手は大きくため息をついた。


「でもまあ、あいつが五歳の時に父親が死んだみたいやから、たぶん俺に父親の役割を期待してんちゃうかな。」


 縄手もワイングラスを手に取り、一口飲んだ。




「あの年頃は一時的に、整理のつかん感情が表に出とるだけやろうし。」


 そこまで心配することじゃないよと、楽観的に手を広げて見せた。




「そうか?」


 そんな縄手の姿を、運ばれてきた肉にナイフを入れながら、斎部は上目遣いに見た。


「知らんぞー、後々面倒臭くなっても。」




「・・・・・なんだぁこの肉。」


 少し切りづらい肉にいら立った斎部は、いら立ったのはそれだけのせいではないことに薄笑いを浮かべた。




 学校の話を聞くたびに、一言目には「久米が、久米が・・・」と繰り返す。縄手の心の中に、完璧に住み着いた久米という存在。




『私の領域に入ってくる奴がいるとは!生意気なんだよ!』




 斎部は、一気に肉を切り裂いた。






 ――――――――――








 すべての思いに一切左右されずに、淡々と一学期期末テストは過ぎて行く。




 慣れない勉強にフラフラになっても、縄手先生からのご褒美が欲しくて、欲しくて。


 その気持ちだけを力にして、疲れたらスマホの縄手先生の画像を見て心を癒し、寝りそうになったらスクワットを繰り返し、体を覚ました。




 連日の一夜漬けの日々は、電車の中で膝をカクンと折れさせ、学校までの距離をこんなに遠いものかと思わせた。




 こうして久米は期末テスト最終日を迎えた。






 高校三年の夏の始まりは、いつの間にか街を覆い、大気は湿度をあげ、肌を焼く日差しが久米の白いベースボールキャップに反射していた。




「先生!おはようございます!」


 校門指導している縄手に足を止め、帽子を取り、頭を下げる。


 縄手は久米が通学路の果てから現れ、徐々に近づいて来るまで、いつのまにか笑顔を絶やさず見守っていた。




「久米おはよう!今日で最後やな!頑張れよ!」


 頭をあげた久米の肩を叩く。




「はい!頑張ります‼」


 とびっきりの笑顔になる久米の背中を「よし!行ってこい‼」と背中を押した。




 校舎に走り出した久米は、途中で振り返って縄手を見る。


 その姿を見送っていた縄手は大きくガッツポーズを見せた。縄手のガッツポーズに合わせて、久米は笑顔でⅤサインを空へ上げた。










 テスト最終科目の終わりを告げるチャイムが、こんなに残酷であり、解放的であり、時の存在を示すものだったであろうか。


 凪いでいた校舎を包む空気が一気に爆裂する。




「終わった‼」


「やっと遊べるーで‼」


「ぜんぜんアカンわー」


「うぉー自由だー‼」


「ガチで帰って寝る‼」


 それぞれがチャイムの鳴り終わる前に叫び出す。


 久米にとっても、野球とは違った味わったことのないプレッシャーと、過ぎ行く時間の長さにゲッソリとしてしまった期間だった。






 一学期期末テストが終わりを告げた。






 久米はバックパックに筆箱をしまい込みながら、グラウンドに目を移した。




 実際このまま帰って寝たいところだが、夏の大会に向けての練習が再開する。




 夏の日差しを照り返し、輝いて見えるグラウンド。


 野球は別腹と、久しぶりの練習に体がうずきだす。


「よし!」とバックを勢いよくもちあげ、部室へ歩き出した。


 左右に揺れるにバックには、もう二つのマスコット人形が仲良く重なり合う姿が見えなくなっていた。








「こんちわっす!。」


 久米が何げなく開いた部室の扉の向こうは、テスト前の空気とはガラリと変わってしまっていた。


 まるで異世界の生物が、扉を開けたかのように、あの出来事以来、初めて顔を合わす後輩たちは目を反らし、それまでの話し声が瞬時に止んだ。




『そっか・・・・・そうだった。』




 久米は、学校での自分の立ち位置を思い出し、小さくため息をつきロッカーに向かった。




 後輩たちの横を過ぎる時に、「こんちはっす」「ちわっす」声がかかるが、触れてはいけない部分を気遣うような、息苦しく重い波長が伝わっていた。






 セクシャルマイノリティへの理解をと、リベラルアーツ教育として、過去に何度か講演会が実施されていた。


 そこでは多様性を理解し尊重することを説かれていたが、それをどう表現するべきか、どうゆう役割で応えることが最適なのかを知らされないまま、またそのスキルを持ち合わせていないまま放置されていたため、誰もが困惑し、息苦しく重い空間を作りだすしかなかった。






 そんな空気を察して、できるだけ後輩たちと目を合わせないように、背を向けて着替え始めた久米に続き、後輩たちもいそいそと着替え始める。




 部室のすべての窓が開いており、外の雑踏が耳障りに聞こえるはずなのに、バックのファスナーを開ける音、ユニフォームの擦れる音、スパイクがコンクリートに当たる音、水筒の蓋を回す音までもが、部室の中をさまよい始めていた。




 誰もが、この空気をぶっ壊してくれる破壊神の登場を願った。


「あの・・・・今日はフリーバッティングとシートノックメインですよね・・・・」


 部室の半分開いているドアがノックされ、今年入部してくれた女子マネージャーが顔を出す。




 部室内の空気を読んでか、小声で後輩部員に声をかける。期待外れの顔をマネージャーに向け、声を出さずに大きく頷く後輩。




『そんなに今の俺は面倒臭い存在なのか。みんなで野球を楽しむための部活なのに、まとめないといけない存在であるはずの俺が空気を乱している。』




 突然、久米は喉の中が痒くなり、大きく咳払いをした。瞬間、全員が動きを止めてしまった。


 そんな状況に久米は音を出さないように大きくため息をつき「やっぱ、俺がいない方がいいのかな…」と声に出さず口を動かした。




 部室の中は、音一つ立ててはいけないようなさらに重い空気になってしまい、たまらず外にそそくさと出ていく後輩もいた。






 不意に外の雑踏の中から、久米をネットに晒してしまった部員の集団が現れた。




 やんちゃっぽい存在は、部室内の空気を一気に良くも悪くも変化させる。その中の一人が久米を見るなり、


「おうよ!久米、お前すごいなー!ネットの話題かっさらってんやん‼ゆ――名人!」




 着替えようと、制服のズボンを下ろしていた久米の尻を、パチンとボクサーパンツの上から叩いた。




「痛ッてっ‼」


 よろけそうになりながら、「この空気感も嫌だ。」と迷惑そうに顔を歪ませ、横目で見た。




「別にええやんな!誰を好きになろうが‼今は令和やちゅーに‼」


 お気楽なセリフを笑顔で並べながら、叩いた尻に手を伸ばし撫でた。




「おーい‼やめろ‼」


 驚いた久米は慌てて体をよじり、ロッカーに尻をつけた。


「触んな‼」


 気まずい空気を壊してくれたことには感謝だが、この展開は最悪だ。


「なんやねん!縄手以外には触れせへんのか!。」




 究極に迷惑そうな久米に、ふざけ顔で詰め寄る。


「当たり前やろ!」


 勢いで返してしまった久米は、ハッとし顔を真っ赤にしたまま俯いてしまった。




 声に出さずに目と口を大きく開けた一人は、その場にいる全員に「わーい」と両手を大きく上に上げて


「お!久米くーん、のろけっすか!。」


 きらきら星を描くように、手のひらをヒラヒラ動かした。




『最悪や。最悪や。最悪や・・・・・・』




 部室の中の空気が緩み、普段と同じように気楽に話せるようになる中、久米はため息を繰り返す。


「応援してっからさ!主将!」


 別の一人が離れた位置から、俯いた久米に声をかける。




 久米が望む未来へ、背中を押す人物になることで、ネットに晒してしまった罪悪感を、感謝される存在へとすり替えてしまえば、自分で自分を許し、楽になれるだろうと、三年生部員は久米を盛り上げた。




 さらにその隣にいた一人も、こちらを向いた久米にVサインをして見せる。


「でも、なんであんな縄手なんか?わかんわーー。もっとマシなんおるやろ!」


 茶化しながら独りよがりの盛り上がりは続き、久米に話しかけた。




 素直に乗り切れない雰囲気だけど、受け入れてくれているような気になってしまった久米は、戸惑いながら、


「・・・かっこええやん。」


 苦笑いと共に呟いた。




「えーーーーーー!かっこええ??」


「どこが??」




「あんな落書きみたいな顔がッスか⁈」


「北越智【きたおち】―それは言いすぎだろー。」


 一年生にも茶化され、その場にいたほとんどが一斉に大声で笑う。






「やっぱり最悪だ。」久米は大きくため息をつき、手を大きく横に振った。






 そんな様子を部室のドアの外で、女子マネージャーと会話を交わした後、チッと舌打ちをし「ホンマ、おっとろしんじゃ!。」と葛本は目を細め聞いていた。






 ―――――――――――






 無事に期末テストが終了したことで、一気に緊張が解け、クーラーがフル活動している職員室は、多数の職員で躍動的にざわついていた。




 それぞれが通知表を作成するにあたり、採点をし、成績をパソコンに入力している。


「先生方!入力に当たっては、既定のフォーマットでお願いします!」


 学年ごとで構成された職員室の中で、教務部長が全体に声をかける。




 職員の誰もが、夏休みが目の前に迫り、三者面談も控え、時間が一気に縮まる感覚に陥っていた。




 そんな中でも、担当教科の答案用紙の束は、容赦なく山のように目の前にそびえ立ちはだかる。まずは赤ペンを数本、机にばらまいたまま慎重に迅速に採点してゆく。




 管理者が制限をかけたタブレットを、生徒一人一台レンタル配布して、授業もテストも宿題もこなしてしまえば楽なのにと、縄手は愚痴をこぼしながら担当の教科に、赤ペンを走らせていた。




 三年生となると文系と理系の特徴が濃くなり、選択教科が増える。その分テストの種類も増える。受ける人数は分散されるが、意外と業務工程が増えるので厄介だった。






「すごいーーーーーー‼」


 突然、縄手から離れた席で採点をしていた教師が声をあげる。両隣の教師が「なになに?どうした?」とのぞき込む。




「見てー!久米君、文学92点‼」


 答案用紙を、そこにいる全員に見せるように高く上げる。




「マジで!本当に?」


 のぞき込んだ教師が手に取る。


「本当にビックリなんやけど!」




 さらにその席の斜め前の教師も


「そっちも?こっちも80点‼」


 大声で言い出す。


「はい、はい、はい。こっちも。」


 少し離れて採点していた教師も


「日本史84点‼」


 言い始めた。




「ええええーーーーーっ!」


 三学年の教師全員が目を丸くさせ、顔を合わせる。




「久米君ちゃうやんけ‼どないした?」


「何がったんや?ドーピングしよったか!」


「あいつ、そんなに頭よかったんか?」




 そんな興奮状態の3学年の中、久米の担任教師は、隣の席で採点をしている縄手にゆっくり視線を移した。




 すまし顔で採点をしていた縄手は、赤ペンを静かに置き、スクッと立ち上がった。


 そして、そのまま大きな咳払いを一つする。


 瞬間、その場の全員に嫌な予感が激走してしまい、動きが止まる。




 再び大きく咳払いをした縄手は大きな声で、


「まあ、俺にかかれば。病んだ生徒の一人や二人、超絶エリートに早変わりでございますー!」


 周りの教員全員が怪訝そうに目を反らし、個人個人の作業に戻る。


「皆さん!手に負えないお困りのご生徒様がいらっしゃいましたら、わたくしを見習っていただくか、もしくはコンサル料はいただきませんが、いつでもご相談に乗らせていただきますので、ご遠慮なく。あーー、晩飯のお誘いはいつでも承っておりますので、そのついででも可能となっております。はっはっはっはっは‼」


 長く舌を出し、チート級のどや顔で笑う縄手の姿を、担任教師は微笑ましく見上げていた。










 完全に寝不足状態だった久米は、思っていた以上に動けたことで、満足できる練習ができたし調子は崩れていないと安心した。






 思えば掲示板にゲイであることが晒されてしまってから、目隠しをさせられたまま、ジェットコースターに乗せられたように、思いもよらないタイミングで激動させられる出来事が続いてしまった。


 その状態からの期末テストは、さらに心身ともに疲労困憊させるもの以外なかった。


 だけど、どれほど疲れていても、もうすぐ夏の全国高校野球選手権奈良大会が始まる。






 久米は部室のドアをくぐりながら、視線を目の前に広がるグラウンドから遠くに上げた。




 初夏の空にはまだ夕日が居直り、昼間にため込んだ熱を地面からくゆらせ、着替えたばかりの制服を汗で濡らしていく。




 物心つく前から始めた野球の終着点が、手の届く距離に迫る時間の感覚は、現実を突き付け、これまで培ってきたすべてをぶつける覚悟を決めさせていた。




「先輩!お疲れ様でした!」


「北越智もお疲れ!」


 すれ違う後輩たちに挨拶をしながら、校庭を歩き出した久米に、


「お疲れーっ!香月!」


 不意に現れた木之本が背中を叩いた。




「お・・・・・おう。木之本もお疲れ。」


 屋上庭園以来、ほとんど口を聞かなくなり、一緒に登校も下校もしなくなってしまった。






 今までだましていたわけでもなく、都合よく利用していたわけでもなく、まして欲求の捌け口にしていたわけでもない、だけど、もやもやと渦巻く罪の意識は、木之本との距離を作り出してしまっていた。






「お腹減ってへん?私、もうペコペコー。」


 何もなかったように話しかけてくる木之本の空気感に、更に罪の意識を作り出す要素が増えた気になった久米は、


「あーうん。俺も結構減ってるで。」


 感情の歩調を合わせた。




「駅裏に新しくできたラーメン屋に行ってみーへん?」


「あ!えーなぁー!確かに気になってた!」


「香月、こってり派やな!」


「せやで!ドロドロがええで!」


「ドロドロスープが売りみたい!」


「ガチで!」


「チョーおいしいって!」


「おー!ガチでめっちゃ腹減ってきた!」




 久米は立ち止まったまま向かい合い、笑顔でお互いの顔を見合わせている。こんな風になるのは、いつ以来なのか思い出せないほど、懐かしく感じてしまっていた。




 久しぶりに見せた久米の笑顔から伝わる優しさに、木之本は断裂できない運命的な関係を感じていた。だけど、ジグソーパズルの肝心のピースがどこにも見当たらず、それは永遠に完成することがないと感じる絶望が、胸を苦しめるその瞬間を痛感していた。




 今まで、久米が縄手に好意を抱いていたことを、全く気付けなかった自分の弱さと、その弱さを認めたくないが故に、本当はまだ自分に好意を持っているはずだと、思い込みたい意地が交差し続けていた。




 だから、苦しめられた時間をなかったことにして、普段通りを演じれば元の日常に戻るはず、今はエラーを起こしているだけだと、思い込まないとこれまでの日々が救われなかった。




「餃子も食べちゃお!」


「どうすっかな・・・・小遣いヤバいし・・・・・」


「私がおごるたる!特別やで!」


「え!それは悪いって。」


「大丈夫!大丈夫!」


「ガチでええんやったら!」


「もちろん!」


「やったーーー‼」


 思っていたより、スムーズに流れる会話ができることに、小さな幸せを感じ出した瞬間だった。






 不意に久米の視線が木之本から外れ、後ろに流れる。


「私、バイトもしてるし!」


「じゃあ・・・・ぁ。」


「じゃ!決まり!」


「あー・・・・・・・・うん。」


 一向に戻って来ない久米の視線が気になり、木之本は振り返った。




 校舎の中を歩く縄手の姿が、強烈に飛び込んでくる。




 一気に冷汗が噴き出す。久米に振り合えると、視線で縄手を追い続けているのがわかる。




「行こ!ラーメン食べに行こ!」


「・・・・・・・・」


 早口になった木之本は、久米の縄手の対角線上に立ちはだかり、体全体で催促をする。




「早よ行こ‼」


 今すぐこの場から離れないといけないと、魂が叫びをあげる。


 口が半分開いたまま縄手を追い続ける久米の手をたまらず強引に引っ張る。




「行こって!」


「・・・・・・・・・・・」


「いっぱい食べよう!」


 歩き出そうと、手を繋いだまま2・3歩進めたと思った瞬間、ほどかれた手の感覚に激しく突き飛ばされた木之本は、慟哭の表情で久米に振り返える。




「ごめん‼用事忘れてたわ‼ラーメンまた今度で‼」


 そんな木之本を気にすることなく、まくし立てた久米は一気に校舎に走り出した。


「香月―――――――ッ‼」


 振り返ることなく突き進む久米の後ろ姿に、木之本の今際の叫びは、夕暮れ迫る校舎にむなしく拡散していくだけだった。


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