第1話 炎の吐けない竜と虐げられ令嬢

(痛い。やめて!!)


 九歳のアイリスは恐ろしい女の前に座らされ、机の上に手のひらを乗せている。その手のひらを、女が定規で叩いている。


 ピシリ、と乾いた音がするたびに、アイリスは必死で唇を噛みしめる。

 悲鳴を上げないように苦痛を耐えているが、その特徴的な赤い目は、涙でいっぱいだ。


「貴女のやったことを侯爵に報告したら、あの鞭で叩くわよ。こんな罰ですんでいることに、感謝なさい」

 手のひらを定規で打つと、傷が残りにくく目立ちにくい。だが敏感な箇所なので感じる痛みは強い。


 女はアイリスの住んでいる屋敷の女主人。侯爵夫人だった。


 侯爵夫人は好んでその折檻を行っていた。


 そして夫である侯爵の持つ鞭での罰を、いつもアイリスへの威しに使う。


【アイリス、アイリス、どこにいるの?】

 苦しむ彼女に気づいたのか、頭の中に飛んでくるのは、愛竜からの心話だ。アイリスはその声に心話で答える。


【ティファ、大丈夫だから、こっちに来たら絶対にダメ】


 その二人のやりとりに気づいた訳でもないだろうが、再びピシリと侯爵夫人は定規をしならせて手のひらを打つ。その痛みに思わず声が出そうになった。


 だが助けを呼ぶ代わりにアイリスは、大切な唯一の存在である小さな灰色竜の姿を脳裏に思い浮かべた。


(ダメ。私が声を上げたら、ティファが傷つけられちゃう……)

 そんなアイリスを責め立てるように、女は何度も彼女の手のひらを定規で打つ。


「お前が【出来損ないの竜】なんかと一緒に生まれたから面倒なことになったのよ。恨むならあの竜を恨むのね」


***


「……なさい。ごめん、なさい。許して、ください……侯爵、夫人」

「……リス、アイリス!」

 聞き慣れた声に、アイリスははっと目を覚ます。


「アイリス、朝だよ。大丈夫? うなされていたよ……」

 アイリスの耳元で囁き、悪夢から起こしてくれたのは手のひらに乗るほどの大きさで、灰色の体をした竜だ。目だけが赤い。その色は、銀髪赤目のアイリスとおそろいだ。


「起こしてくれてありがとう。ティファ。ちょっと嫌な夢、見ちゃっただけだから、大丈夫」

 心配そうに覗き込んでいる灰色竜の眉間を撫でてやると、灰色竜のティファはホッとしたように目を細めた。


「アイリス、今日は良い天気だよ。何か面白いことがあるといいね」

 慰めるように明るい声を掛けてくれる存在にアイリスはいつだって心が温かくなる。現実に折れそうなアイリスの心を支えてくれるのは、魂を分け合っているティファの存在だ。


 アイリスが普段過ごしている地下にある部屋には、北側に小さな窓が一つあるだけで、日差しなんてほとんど入ってこない。それでも朝になれば少しだけ明るくなる。


「そうね、何か面白いことがあるかもしれないわよね」

 気持ちを立て直し、ティファを心配させないように、なんとか笑みを浮かべて答える。だがそんな二人の小さな期待は乱暴に扉が開けられた瞬間、露と消えた。


「くっさいねえ。ここはカビ臭くて息すらできない。そんな部屋にぴったりな食事をご用意いたしましたよ。アルフォルト侯爵令嬢様」


 鼻をひん曲げた顔と馬鹿にしたような口調で、『アルフォルト』の名と敬称を口にする。


 部屋が暗いため、扉を開けただけで後光を背負って入ってきたのは、アイリス付ということになっている侍女ラーラだ。片手にお盆と、もう一方にバケツを持ってきている。


 ラーラは性格の悪さを買われて侍女になった。

 元々下働きで雇われ、アイリスの面倒を見るために侍女扱いとなったが、給金はほとんど増えていない。


 その逆恨みをアルフォルト侯爵夫人のもくろみ通り、アイリスにぶつけるような生活を送っている。


「まあ侯爵令嬢って言ったって、あたしらが食べるより、酷い物を食べててさぁ。まぁ、働きもしない穀潰しだから仕方ないね。おかわいそうに」


 ラーラは侯爵がアイリスに無関心なのをいいことに、自己満足のために、わざと酷い食事を用意しているのだ。


 ニヤニヤと笑いながら机の上に置いたのはお盆に載った小さなお椀にはいった水。そのなかの水は、淀んでいる。井戸の水ではなく、池からわざわざ汲んできたのだろう。


「おっと……」

 その上、お盆に載っていたパンをわざと床に落とす。


「侯爵様は優しいねえ。こんなみにくい娘に食事まで用意してやってさ」

 硬くなったパンは、下働きの子供ですら食べないようなものだ。それが石畳の床の上に転がっていった。


「あっ……」

 お腹ならいつも空いている。

 みっともないと思いながら、アイリスは咄嗟にパンを視線で追ってしまう。こんなパンでも頼りになる人がいないアイリスにとっては、貴重な食料だ。


 慌ててその場にしゃがみ込み、アイリスがパンを拾おうとすると、ラーラはしゃがみ込んだアイリスの頭の上から持ってきたバケツに入った水を掛けた。


「――冷たっ」

 飲料用のお椀の水は池の水だったくせに、掛ける水はわざわざ井戸からくんで来たらしい。凍るような水の冷たさにアイリスの骨と皮ばかりの背筋が震える。


 頭から掛けられた水は、アイリスの銀色の髪を伝ってしたたり落ちた。それを見たラーラは、面白そうに手を打って笑い声をあげた。


「侯爵様が戻られるから、アイリスお嬢様を呼んでほしいんだってさ。そんな汚い格好で御前に出るわけには行かないと思って、気をつかって差し上げたんですけどね」

 ニヤニヤと笑って告げる女の顔を、呆然と見上げる。拾ったパンは水浸しで、食べられそうもない。


(お腹が……空いていたのに)

 衣類はボロボロ。水は貴重だといってめったに風呂に入れてもらえることもない。地下牢のような部屋に押し込められ、食事すら生きるのにギリギリの残飯をあたられるだけ。


 けれどもアイリスは公式には、この王国の侯爵令嬢、という尊い立場らしい。


 だが物心ついた頃からまともな生活をしてきてない。そのせいでアイリスは九歳だというのに、五歳程度にしか体が成長できていないのだ。


 ラーラをはじめとした下働き上がりの侍女達から食事をまともに与えないだけでなく、地下室に閉じ込め、太陽の下もろくに歩かせもしなかったためだろう。


「それを食べて、後でもうすこしマシな服に着替えてくださいね。客人が来るそうですよ」

 ぞんざいにそう言い放つと女は出ていく。その後ろ姿を見て、アイリスは涙をぐっと堪えた。



「許せない! ボクが火を吐けたら、アイツのあのみっともない箒みたいな頭をこんがり焼いてやるのに」


 ラーラが出ていくと、ティファがなぐさめるようにアイリスの肩にちょこんと乗って、かけられた水で濡れた頬に顔をすり寄せる。アイリスはティファの優しい声に思わず涙が一粒零れた。


「ボクがなんか美味しそうなもの、探してくる。そんなの食べなくていいよ」

 それだけ言うと、小さな灰色竜は一瞬でその場から姿を消した。


 アイリスの唯一の味方、灰色竜のティファには秘密がある。


 アイリスはぎゅっと髪に滴る水を握って絞り、立ち上がるとスカートと袖を絞り、唇を噛みしめると気持ちを立て直し、笑みを浮かべた。


「大丈夫。私にはティファがいる。あんな意地悪女になんて負けないわ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る