4時 彼は彼女を固有名詞として認識した

 殺人は存在しない

 そう謳われる理想国家の首都。氷の舞台の裏で、鮮やかな血がじわりと広がっていた。


 スケート会場、殺人現場である選手控室へ続く裏通路は封鎖され、容疑者であるスケーターたちが集められていた。警官が何やら名前を読んでいる。


「被害者は②選手の振付師。現場には、①選手のスケート靴が片方だけ落ちていました」


 犯行時刻はスケーター①が演技をしていたはずの時間帯。それでも警官たちは、ためらいもなく結論づける。


「まぁ、①が犯人でいいか。楽だし」

「でも優秀なスケーターですよ? 別の奴に罪を着せた方がいいのでは」


 冷笑が飛び交う中、神宮は遺体を一瞥もしない。彼には犯人も、①が滑走を遅らせた理由も、全て分かっている。しかし誰が冤罪で処刑されようがどうでもいい。

 彼はベンチに腰を下ろし、紙袋からパンを取り出すと、それを無造作に噛み始めた。

 その姿に、スケーター②がぎょっとして目を丸くした。


「……な、何してるんですか。こんな状況で……」


「え? パンって食べ物でしょ?」


 神宮は平然と答える。

 だが②は顔を引きつらせて距離を取った。


(食事している方が人間らしいと思ったが、死体の前で食べてはいけないのか。衛生上の問題だろうか)


 神宮は無表情のまま咀嚼を続けた。


 一方、①は必死に訴えていた。


「違います! 犯行時刻、私はSPショートプログラムの演技をしていました! 靴は昨晩に盗まれてたんです!」


 だから向こうの人に昨日届けてもらったのだと、①は神宮の方を指差した。


「盗んだ犯人が私に罪をなすりつけるために殺人現場に置いた――映像を見てください!」


 この国では、あらゆる場所に監視装置が仕掛けられている。

 警備員が渋々、首都の監視塔に映像の照会を要求した。

 今頃、保安省の地下では、完全記憶能力者ミーアの首元にHDMIケーブルが差し込まれているだろう。あの光景はシュールだ。


「0時1分前後、映像が乱れてます」

「ほら、例のバグだ」


 ノイズの走る画面に、一瞬だけ振付師らしき影が映る。

 その動きは異様に素早く、輪郭が滲むようにブレていた。


「こんなの、人間にできるか?」

「影……悪魔か? まぁ、フィギュアスケーターならできるんじゃないですか?」


 ろくな確認もせず、警官たちは、誰を犯人に"するか"を話し始めた。


「①はまだ若い。②は来年には体が成長して跳べなくなるでしょ」

「いやSPショートプログラムの結果は1位と2位だし。2位通過の①が犯人ってことで」

「拷問で自白させりゃ終わりだ」


 ①の顔から血の気が引いた。


「違う! ②が犯人です! 振付師と口論してた! 精神状態の監視記録を見ればわかるはず!」


 ②は①をじっと見つめていた。その様子は、観察者というよりは、恋する乙女のようだ。


「『殺してやる』って言ってた!」


 その瞬間、神宮は咀嚼を止めた。小麦粉では満たされない乾き。


 スケーター①。いや、"一ノ瀬"に手を伸ばした警官の腕を、神宮は無言で掴んだ。

 ミシミシと骨が軋む音がする。


「……どけよ」


 冷たい声。


「俺の獲物だ」



 しばらく神宮と警官たちが外で話し合った後、再び控室に戻ってきた。結論は奇妙に簡潔だった。


「両方優秀なスケーターだ。どちらを逮捕するかは、FPフリープログラムの結果で決める」


 警官は淡々と説明した。その目はどこか虚だ。


「証明しろ」


「自らこそ、最も国家に貢献しうると」


___


【監視報告書】


 神宮が一人の女性を固有名詞として認識した形跡を確認。当該女性が読心能力者と推測される。

 読心能力者の存在自体は特定できたが、神宮の介入により以降の計画は困難となった。

 彼があのお方の他に認識できたのは、首都レイグラード監視装置ミーア、一ノ瀬である。 

 後者二例は読心能力に直接関連するため、認識可能と推定される。一方、レイグラードに関しては、あのお方の名を冠する街であることが要因と考えられる。

 だが、そもそも神宮があのお方を固有名詞として認識できる理由自体が、読心能力を求めるがゆえなのだろうか。


追記

 おそらく彼は我らの呼称を認識している。

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