0時1分の欠落

リョーシリキガク

午前編 本能

1時 保安省の悪魔

自然は真空を嫌う。

――アリストテレス


 空白があれば、それを埋めようとする。空洞に風が吹き込むように。

 ならば僕の心の空白も、なにかで埋められるはずだったのだろうか。


 楽曲『シンデレラ』が響く中、一人の女性が氷のリンクを軽やかに滑っている。スケート靴はガラスのように煌めいていた。足の踏み切り方はサルコウだ、回る、回る、4回転。


 おとぎ話の王子様みたいな、美しい恋でなくとも。

 シンデレラを求める欲求を、僕は愛だと信じてた。



「はぁっ…はぁっ…」


 青年が悪魔から逃げていた。それは獣のような腕をしならせ、青年を欲していた。


 爆発が夜を引き裂いた。白雪が、炎に照らされて銀の花弁のように宙を舞う。


 死骸となった悪魔は、血を流すこともなく、獣のような肉体を黒い霧へと変え、静かに夜に溶けていった。


――討伐任務遂行中。


 爆発と共に現れた男、神宮じんぐうは悪魔を一瞥することもなく、黒いコートの裾を翻しながら、ゆっくりと腰のベルトに通信機を戻した。

 その動きは軍人のものでも、英雄のものでもなかった。

 ただ職人が、仕事を終えて工具を納める、それだけの所作であった。


「あ、ありがと……ございます……助けてもらって……」


 青年の声を背に受け、神宮がゆっくりと振り返る。

 長身の影が雪の上にすっと伸びる。

 すらりと伸びた手足に、黒いコートの下には筋肉質な体躯が浮かび上がる。

 端正な顔立ちで、闇夜に溶け込む艶やかな黒髪と、ひときわ目を引く赤い瞳――


 そして青年の視線が、神宮の黒い帽子――国家保安省の紋章まで上がった瞬間、表情が一変した。


「……保安省の悪魔」



 静まり返った家の中。

 古びた暖炉に薪がくべられ、火の揺らぎが壁の染みに踊っている。

 神宮は、鉄製の椅子にコートのまま腰かけていた。


「悪魔には銃も効かず……実体がないようで。能力者って本当にすごいですね……」


 青年が震える手でカップを差し出す。神宮は受け取らなかった。


「あの獣は討伐対象ではなかった。雑魚だ」


「え……?」


「悪魔は人型に近いほど強いから、あれは違う。例の悪魔の風貌は?」


 神宮の問いかけに、男はたどたどしく言葉を探す。


「……見る人によって違って、それぞれ亡くなった家族に見えたそうです。……俺には、死んだ姉に見えました」


 男は思い出すように、部屋の隅に目を向けた。

監視カメラの無機質なレンズの隣に、微笑む女性の写真が飾られている。

 蝋燭の火が揺れて、そのガラスの縁にささやかな反射を残していた。


「姉は三年前に。あなた方保安省が……」


 その言葉のあと、部屋には沈黙が落ちた。

 神宮は能力で脳内の記録をなぞる。

 確かに三年前、国家反逆罪で処刑されている――この国ではありふれた話だ。死体も、ここには返却されていない。


 火の粉が、暖炉の奥で微かに跳ねた。


「死体を操るタイプではなく、幻影を見せる悪魔か。心を読み取り、最も大切な者の幻影を見せる」


 神宮の声は、まるで他人事のように静かだった。

 彼の瞳には揺らめく火も映らない。


「なんにせよ、僕が森を歩けば向こうから来る」


「な、なんでそんな……」


 青年の声がわずかにかすれる。

 神宮は暖炉の火をぼんやりと見つめ、言葉を継ぐ。


「悪魔は、自分にない能力を持つ能力者を喰らい、それを得ようとする。僕は読心術以外、すべての能力を使える。だから悪魔は寄ってくるはずだ」


 彼の口調には、怖れも怒りもない。

 この仕事に、感情を預けたことは一度もない――ただ、それだけの語りだった。


「自然が真空を嫌うように。空白を埋めるように。それが悪魔の本能だから」


 炎がまた、小さくぱちりと弾ける。その音が妙に大きく響いた。この家は一人暮らしには寂しいほどの大きさだ。


「俺がやる! 俺が、敵を取る!」


 不意に、子供の声が空間を破った。

 拳を握りしめた小さな手。十歳ほどの男児が、焚き火のような目を神宮に向けている。


「部屋に、戻って!」


 青年がきつく叱責するが、子供はその場に踏みとどまった。


 神宮は子供を見た。その仕草だけで、青年はビクリと震えた。彼に息子がいる記録は、なかったはずだ。


 青年はまるでこちらの心を見透かしたように言った。


「……悪魔の被害で親を亡くした子を、引き取ったんです」


 その横顔には、微かな疲労と、どうしようもない守護者の表情があった。


 部屋に戻らぬ子供に痺れを切らし、青年は扉へと向かった。背中で神宮と子供のあいだに壁を作るように立ち、扉に手をかける。


 なにも取って食うわけでもないのに――

それでも子供を、神宮から遠ざけておきたかったのだろう。


「辛いだろうが……悪魔を倒したって、何も戻ってこない。危ないから、外には出るな」


 静かに扉が閉まる。木製の扉がきしむ音さえも、遠い。


 欠けたものを求めるのは、人も同じか。


 神宮は静かに呟いた。


「今からでも、家族に似た人間を見繕えばいい」


 青年はドアノブを強く握りしめ、背を向けたまま低く答える。


「いいですよ別に。あなたには、理解できないでしょうから」



 深夜0時。

 鐘の音が外出禁止令を歌い始める。


 白く凍てついた森は静かで、夜空から降り注ぐ月光が枝々を銀色に染めていた。神宮は青年に手を引かれながら、その静かな森を歩いていた。霜柱が二人の靴音を微かに響かせている。


「昼間の悪魔、俺が襲われるまで放置してましたよね」


 青年がぽつりと呟く。その声には、抑えきれぬ怒りと――どこか諦めの色が混じっていた。


「それは俺が能力者だと見抜くために?」


 神宮は悪びれもせず、淡々と答えた。


「あぁ」


 強力な能力者なら国の財産として連れ帰ろうと思ったが。彼は大したことがないな。銃を上手く操れる、といった能力だけだろう。


 青年が立ち止まった。彼の震える手が一瞬、握りしめた神宮の手を強く締めつけた。


「今、俺に……外出禁止令を破らせてまで直接案内させてるのも、悪魔を引きつけるため?」


 月明かりの下、二人の影がぴたりと重なる。


「あぁ」


 青年はしばらく何も言わなかった。ただ、肩で息をし、寒さとは別のものに震えている。


「……エサ扱いって! 国民守るのが仕事でしょう!?」


 月光がゆっくりと神宮を照らす。その端正な顔は、まるで感情のない彫刻のように見えた。


「違う。僕の仕事は悪魔を狩ることだ。僕は僕のやりたいことをやる」


 青年は絶句した。


「……ッ!やりたいことって何ですか」


さざなみくんの代わりを探してるの」


 森の静寂が、二人の会話をのみ込んでいく。

枝を揺らす夜風すら、何かを待っているようだった。


「漣くん……?」


「僕の親友で超能力者。数年前、僕が処刑した」


 その言葉は唐突で、けれどどこか執着と喪失を滲ませていた。


「彼は『自分を忘れるくらいの誰かに出会え、やりたいことを見つけろ』と言い残した。でも中々見つからない」


 青年は短く息をついた。その表情に、一瞬だけ戸惑いと哀れみの色が浮かぶ。

 国家保安省の職員にも、大事な人がいるのか――と言いたげに。


「既に失ったものを求めるのではなく、今後を見るべきだ。これは君に言ってるんだよ」


 神宮がそう言うと、再び彼がこちらを握る力が強まる。


「君のそれは愛じゃない。“満たされたい”という欲望だ。それは悪魔と変わらない」


 風が、止んだ。


「……うるさい」


 カチリ、と音がした。

 冷たい金属が月明かりの中で煌めく。


「悪魔と契約した」


 銃口がまっすぐに神宮の胸を狙っていた。


「……お前を連れて来れば、死んだ姉さんに会わせてくれる、と!」


 青年の声はさらに激しさを増す。


「悪魔は三人殺した。だがお前たち保安省は何人殺した?」


 青年の指が引き金にかかる。涙で潤む目が月明かりに照らされていた。


「最初、悪魔は代償に能力者である君の体を要求したはずだ。しかし僕がこの村に来ると、今度は僕を連れて来いと言った」


なぜだと思う?

 神宮は銃口に動じることなく、青年にそんな視線を投げかけた。


「悪魔は欠けた能力を求める。それが全てだ。後で君も喰われるよ」


 息が白く溶ける。彼の掌は震えている。


 その時、甘美で優しい囁きが森に響いた。


「知りたくないか? 天国からの、愛する人のメッセージだよ?」


 空気が凍る。

 青年は、引き金を引いた。





「はぁ……はぁ……」


 青年はその場に膝をつき、雪に沈んだ銃をただ見つめていた。震える息が白く空を漂い、涙とも汗ともつかぬ雫が頬を滑る。


「契約は果たした……姉さんに……会わせて……」


 その声に応えるように、ふわりと黒い霧が渦を巻いた。


「……よく頑張ったわね。私、アレが欲しかったの」


 女の声が響いた。霧の中から、優しげな微笑みをたたえた女性の姿が現れる。青年の記憶にある、あの姉の面影。あの、優しかった、強かった、そして最後まで自分を守ってくれた――愛しの姉。


「……姉さん……」


 青年はよろめきながら手を伸ばす。その姿に、女はゆっくりと歩み寄り、足を止めた。


 女の目は、神宮から離れなかった。惹きつけられていた――本能が。


 倒れていた神宮の身体から、まるで影が剥がれ落ちるように、黒い霧が噴き出す。


 それは吹雪のように雪を巻き上げ、ゆっくりと立ち上がった。


――自然は真空を嫌う。


 欠けたものを埋める。

 それが悪魔の本能だ。


 内にない能力を得ようと、悪魔が求めるのは

能力者、そして"悪魔"。


「……保安省の、悪魔……!」


 青年の声は震えていた。悪魔は人型に近いほど強い。

 今、目の前に立つ神宮。黒い霧に包まれたその男の姿を見て、彼は直感してしまった。


 この男は、本物の悪魔だと。


 神宮は女の幻影に指を伸ばす。

 指先に、赤い光が灯る。


「やめて!!」


 青年が、涙を散らして叫び、幻影の前に立ちはだかる。


「姉さんは、……こうでしか、会えないんだ!!俺を、喰ってもいい……!」


 だが、神宮は何の躊躇もなく、無造作に腕を振り上げる。


 瞬間、爆ぜるような破裂音が森を揺らした。黒い霧とともに、幻影は青年ごと吹き飛ばされる。


「ぎゃああああああッ!!」


 女の幻影は、もはや姉ではなかった。砕けた仮面のような顔、ねじれた四肢、醜悪な叫び。


「お前なんて、いらねぇよ」


 神宮は、それだけを吐き捨てて、一歩ずつ前に進む。


 ――僕が、欲しいのは。


「ま、待て……!」


 霧の中で、悪魔が這うように口を開いた。その声音は、恐怖と絶望に震えていた。だが、最後の希望を手繰るように、言った。


「……漣……漣ってやつの言葉……代わりをしてやれる……!」


 神宮の足が止まる。


「君、僕の心が読めるの?」


 悪魔は、泥水を啜るような声で懇願する。


「ああ……わかる、わかるから殺さないで!」


 神宮の表情に、初めて微かな色が差した。


「漣くんは、処刑の瞬間、僕に読心術どくしんじゅつを使ったよね?」


 神宮は、悪魔に歩み寄りながら言った。


「僕には心がないから、読心術だけは使えないし、君の読心でも、僕の心は読めなかった。でも、最後に読心術で読んだ。僕の心を」


 足音が、霧の中に沈んでいく。


「何が見えたの? それとも何も見えなかった?」


「そ、それは……」


 悪魔の息は荒く、焦っていた。


 ――なぜかこの男の前では愛しの者に変身できない。だが間違えられない。


 神宮が静かに歩み寄る。その顔には、期待が滲んでいた。

 悪魔は、しばし言葉を探し、やがて震える声で囁く。


「……知×××よ」


 神宮は一瞬、唇をわずかに開き――すぐに閉じた。


 そして、静かに呟く。


「そうか。代わりなんて、いないんだ」


 刹那、神宮の指先が赤く光り、悪魔は悲鳴をあげて消滅した。


 漣くんは、もうこの世のどこにもいない。


 神宮は、その場に残る黒い霧の名残を、ただ無表情に見下ろしていた。



「父さん!」


 意識の底から引き上げられるように、青年がはっと目を覚ました。

 子供が、青年の首にしがみついている。


「……なんて馬鹿な真似……! 俺にはこの子がいるのに……!」


 青年の目から涙が溢れた。

 過去にばかり目を向けて、でも過去はもう二度と手に入らない。


「ごめん、ごめんなさい……姉さん……」


 果てしない後悔の中、青年は顔を上げた。視線の先、暗闇に沈む黒いコートの男――神宮と目が合った。


「僕の正体を誰かに話したら処分するが。聞きたいことがあるから生かした」


 その声音に、青年の身体がびくりと震えた。


「“代わり”ができると期待したとき、嬉しくなかった」


 青年は困惑した顔で黙った。


「これがいつか、二人になるのか? なりたくない。君は唯一であってほしい……そう胸が痛んだのはなぜだ?」


 その独白に、しんとした空気がさらに静まる。


「それが……心、じゃないの?」


 ぽつりと、子供がつぶやく。


「父さんのこと、お兄さんが運んでくれたんだよ。保安省だけど、優しいの!」


 神宮は無言で自分の胸に触れる。


「この痛み……これが“心”」


 青年は怯えながらも、そっと頷いた。


「あの悪魔……俺の心から死者を完全に再現できていた。……だから……漣さんも、あなたの心の中にいるはず……」


 神宮は微かに口角を上げた。


 人は過去には戻れない。失ったものは取り戻せない。だからこそ生は美しい。思い出が消えないよう、少しずつ喪失を埋める営みが。


 だが――


「漣くん以外がだめなら、漣くんを“増やせばいい”」


 まるで手品の仕掛けに気づいた子供のように、神宮は楽しげに呟いた。


――漣くんは、僕の心の中にいる。なら、その心を読み取れば彼を再現できる。


「……読心能力者を探すんだ」


 唯一無二の存在を、模倣という方法で手に入れようとする姿は、まさに先ほどの悪魔と同じだった。そして同様に――


 悪魔は読心術を求めていた。

 欠けたものを求める。

 それが、悪魔の本能だ。

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