0時1分の欠落
リョーシリキガク
午前編 本能
1時 保安省の悪魔
自然は真空を嫌う。
――アリストテレス
空白があれば、それを埋めようとする。空洞に風が吹き込むように。
ならば僕の心の空白も、なにかで埋められるはずだったのだろうか。
楽曲『シンデレラ』が響く中、一人の女性が氷のリンクを軽やかに滑っている。スケート靴はガラスのように煌めいていた。足の踏み切り方はサルコウだ、回る、回る、4回転。
おとぎ話の王子様みたいな、美しい恋でなくとも。
⸻
「はぁっ…はぁっ…」
青年が悪魔から逃げていた。それは獣のような腕をしならせ、青年を欲していた。
爆発が夜を引き裂いた。白雪が、炎に照らされて銀の花弁のように宙を舞う。
死骸となった悪魔は、血を流すこともなく、獣のような肉体を黒い霧へと変え、静かに夜に溶けていった。
――討伐任務遂行中。
爆発と共に現れた男、
その動きは軍人のものでも、英雄のものでもなかった。
ただ職人が、仕事を終えて工具を納める、それだけの所作であった。
「あ、ありがと……ございます……助けてもらって……」
青年の声を背に受け、神宮がゆっくりと振り返る。
長身の影が雪の上にすっと伸びる。
すらりと伸びた手足に、黒いコートの下には筋肉質な体躯が浮かび上がる。
端正な顔立ちで、闇夜に溶け込む艶やかな黒髪と、ひときわ目を引く赤い瞳――
そして青年の視線が、神宮の黒い帽子――国家保安省の紋章まで上がった瞬間、表情が一変した。
「……保安省の悪魔」
*
静まり返った家の中。
古びた暖炉に薪がくべられ、火の揺らぎが壁の染みに踊っている。
神宮は、鉄製の椅子にコートのまま腰かけていた。
「悪魔には銃も効かず……実体がないようで。能力者って本当にすごいですね……」
青年が震える手でカップを差し出す。神宮は受け取らなかった。
「あの獣は討伐対象ではなかった。雑魚だ」
「え……?」
「悪魔は人型に近いほど強いから、あれは違う。例の悪魔の風貌は?」
神宮の問いかけに、男はたどたどしく言葉を探す。
「……見る人によって違って、それぞれ亡くなった家族に見えたそうです。……俺には、死んだ姉に見えました」
男は思い出すように、部屋の隅に目を向けた。
監視カメラの無機質なレンズの隣に、微笑む女性の写真が飾られている。
蝋燭の火が揺れて、そのガラスの縁にささやかな反射を残していた。
「姉は三年前に。あなた方保安省が……」
その言葉のあと、部屋には沈黙が落ちた。
神宮は能力で脳内の記録をなぞる。
確かに三年前、国家反逆罪で処刑されている――この国ではありふれた話だ。死体も、ここには返却されていない。
火の粉が、暖炉の奥で微かに跳ねた。
「死体を操るタイプではなく、幻影を見せる悪魔か。心を読み取り、最も大切な者の幻影を見せる」
神宮の声は、まるで他人事のように静かだった。
彼の瞳には揺らめく火も映らない。
「なんにせよ、僕が森を歩けば向こうから来る」
「な、なんでそんな……」
青年の声がわずかにかすれる。
神宮は暖炉の火をぼんやりと見つめ、言葉を継ぐ。
「悪魔は、自分にない能力を持つ能力者を喰らい、それを得ようとする。僕は読心術以外、すべての能力を使える。だから悪魔は寄ってくるはずだ」
彼の口調には、怖れも怒りもない。
この仕事に、感情を預けたことは一度もない――ただ、それだけの語りだった。
「自然が真空を嫌うように。空白を埋めるように。それが悪魔の本能だから」
炎がまた、小さくぱちりと弾ける。その音が妙に大きく響いた。この家は一人暮らしには寂しいほどの大きさだ。
「俺がやる! 俺が、敵を取る!」
不意に、子供の声が空間を破った。
拳を握りしめた小さな手。十歳ほどの男児が、焚き火のような目を神宮に向けている。
「部屋に、戻って!」
青年がきつく叱責するが、子供はその場に踏みとどまった。
神宮は子供を見た。その仕草だけで、青年はビクリと震えた。彼に息子がいる記録は、なかったはずだ。
青年はまるでこちらの心を見透かしたように言った。
「……悪魔の被害で親を亡くした子を、引き取ったんです」
その横顔には、微かな疲労と、どうしようもない守護者の表情があった。
部屋に戻らぬ子供に痺れを切らし、青年は扉へと向かった。背中で神宮と子供のあいだに壁を作るように立ち、扉に手をかける。
なにも取って食うわけでもないのに――
それでも子供を、神宮から遠ざけておきたかったのだろう。
「辛いだろうが……悪魔を倒したって、何も戻ってこない。危ないから、外には出るな」
静かに扉が閉まる。木製の扉がきしむ音さえも、遠い。
欠けたものを求めるのは、人も同じか。
神宮は静かに呟いた。
「今からでも、家族に似た人間を見繕えばいい」
青年はドアノブを強く握りしめ、背を向けたまま低く答える。
「いいですよ別に。あなたには、理解できないでしょうから」
*
深夜0時。
鐘の音が外出禁止令を歌い始める。
白く凍てついた森は静かで、夜空から降り注ぐ月光が枝々を銀色に染めていた。神宮は青年に手を引かれながら、その静かな森を歩いていた。霜柱が二人の靴音を微かに響かせている。
「昼間の悪魔、俺が襲われるまで放置してましたよね」
青年がぽつりと呟く。その声には、抑えきれぬ怒りと――どこか諦めの色が混じっていた。
「それは俺が能力者だと見抜くために?」
神宮は悪びれもせず、淡々と答えた。
「あぁ」
強力な能力者なら国の財産として連れ帰ろうと思ったが。彼は大したことがないな。銃を上手く操れる、といった能力だけだろう。
青年が立ち止まった。彼の震える手が一瞬、握りしめた神宮の手を強く締めつけた。
「今、俺に……外出禁止令を破らせてまで直接案内させてるのも、悪魔を引きつけるため?」
月明かりの下、二人の影がぴたりと重なる。
「あぁ」
青年はしばらく何も言わなかった。ただ、肩で息をし、寒さとは別のものに震えている。
「……エサ扱いって! 国民守るのが仕事でしょう!?」
月光がゆっくりと神宮を照らす。その端正な顔は、まるで感情のない彫刻のように見えた。
「違う。僕の仕事は悪魔を狩ることだ。僕は僕のやりたいことをやる」
青年は絶句した。
「……ッ!やりたいことって何ですか」
「
森の静寂が、二人の会話をのみ込んでいく。
枝を揺らす夜風すら、何かを待っているようだった。
「漣くん……?」
「僕の親友で超能力者。数年前、僕が処刑した」
その言葉は唐突で、けれどどこか執着と喪失を滲ませていた。
「彼は『自分を忘れるくらいの誰かに出会え、やりたいことを見つけろ』と言い残した。でも中々見つからない」
青年は短く息をついた。その表情に、一瞬だけ戸惑いと哀れみの色が浮かぶ。
国家保安省の職員にも、大事な人がいるのか――と言いたげに。
「既に失ったものを求めるのではなく、今後を見るべきだ。これは君に言ってるんだよ」
神宮がそう言うと、再び彼がこちらを握る力が強まる。
「君のそれは愛じゃない。“満たされたい”という欲望だ。それは悪魔と変わらない」
風が、止んだ。
「……うるさい」
カチリ、と音がした。
冷たい金属が月明かりの中で煌めく。
「悪魔と契約した」
銃口がまっすぐに神宮の胸を狙っていた。
「……お前を連れて来れば、死んだ姉さんに会わせてくれる、と!」
青年の声はさらに激しさを増す。
「悪魔は三人殺した。だがお前たち保安省は何人殺した?」
青年の指が引き金にかかる。涙で潤む目が月明かりに照らされていた。
「最初、悪魔は代償に能力者である君の体を要求したはずだ。しかし僕がこの村に来ると、今度は僕を連れて来いと言った」
なぜだと思う?
神宮は銃口に動じることなく、青年にそんな視線を投げかけた。
「悪魔は欠けた能力を求める。それが全てだ。後で君も喰われるよ」
息が白く溶ける。彼の掌は震えている。
その時、甘美で優しい囁きが森に響いた。
「知りたくないか? 天国からの、愛する人のメッセージだよ?」
空気が凍る。
青年は、引き金を引いた。
「はぁ……はぁ……」
青年はその場に膝をつき、雪に沈んだ銃をただ見つめていた。震える息が白く空を漂い、涙とも汗ともつかぬ雫が頬を滑る。
「契約は果たした……姉さんに……会わせて……」
その声に応えるように、ふわりと黒い霧が渦を巻いた。
「……よく頑張ったわね。私、アレが欲しかったの」
女の声が響いた。霧の中から、優しげな微笑みをたたえた女性の姿が現れる。青年の記憶にある、あの姉の面影。あの、優しかった、強かった、そして最後まで自分を守ってくれた――愛しの姉。
「……姉さん……」
青年はよろめきながら手を伸ばす。その姿に、女はゆっくりと歩み寄り、足を止めた。
女の目は、神宮から離れなかった。惹きつけられていた――本能が。
倒れていた神宮の身体から、まるで影が剥がれ落ちるように、黒い霧が噴き出す。
それは吹雪のように雪を巻き上げ、ゆっくりと立ち上がった。
――自然は真空を嫌う。
欠けたものを埋める。
それが悪魔の本能だ。
内にない能力を得ようと、悪魔が求めるのは
能力者、そして"悪魔"。
「……保安省の、悪魔……!」
青年の声は震えていた。悪魔は人型に近いほど強い。
今、目の前に立つ神宮。黒い霧に包まれたその男の姿を見て、彼は直感してしまった。
この男は、本物の悪魔だと。
神宮は女の幻影に指を伸ばす。
指先に、赤い光が灯る。
「やめて!!」
青年が、涙を散らして叫び、幻影の前に立ちはだかる。
「姉さんは、……こうでしか、会えないんだ!!俺を、喰ってもいい……!」
だが、神宮は何の躊躇もなく、無造作に腕を振り上げる。
瞬間、爆ぜるような破裂音が森を揺らした。黒い霧とともに、幻影は青年ごと吹き飛ばされる。
「ぎゃああああああッ!!」
女の幻影は、もはや姉ではなかった。砕けた仮面のような顔、ねじれた四肢、醜悪な叫び。
「お前なんて、いらねぇよ」
神宮は、それだけを吐き捨てて、一歩ずつ前に進む。
――僕が、欲しいのは。
「ま、待て……!」
霧の中で、悪魔が這うように口を開いた。その声音は、恐怖と絶望に震えていた。だが、最後の希望を手繰るように、言った。
「……漣……漣ってやつの言葉……代わりをしてやれる……!」
神宮の足が止まる。
「君、僕の心が読めるの?」
悪魔は、泥水を啜るような声で懇願する。
「ああ……わかる、わかるから殺さないで!」
神宮の表情に、初めて微かな色が差した。
「漣くんは、処刑の瞬間、僕に
神宮は、悪魔に歩み寄りながら言った。
「僕には心がないから、読心術だけは使えないし、君の読心でも、僕の心は読めなかった。でも、最後に読心術で読んだ。僕の心を」
足音が、霧の中に沈んでいく。
「何が見えたの? それとも何も見えなかった?」
「そ、それは……」
悪魔の息は荒く、焦っていた。
――なぜかこの男の前では愛しの者に変身できない。だが間違えられない。
神宮が静かに歩み寄る。その顔には、期待が滲んでいた。
悪魔は、しばし言葉を探し、やがて震える声で囁く。
「……知×××よ」
神宮は一瞬、唇をわずかに開き――すぐに閉じた。
そして、静かに呟く。
「そうか。代わりなんて、いないんだ」
刹那、神宮の指先が赤く光り、悪魔は悲鳴をあげて消滅した。
漣くんは、もうこの世のどこにもいない。
神宮は、その場に残る黒い霧の名残を、ただ無表情に見下ろしていた。
*
「父さん!」
意識の底から引き上げられるように、青年がはっと目を覚ました。
子供が、青年の首にしがみついている。
「……なんて馬鹿な真似……! 俺にはこの子がいるのに……!」
青年の目から涙が溢れた。
過去にばかり目を向けて、でも過去はもう二度と手に入らない。
「ごめん、ごめんなさい……姉さん……」
果てしない後悔の中、青年は顔を上げた。視線の先、暗闇に沈む黒いコートの男――神宮と目が合った。
「僕の正体を誰かに話したら処分するが。聞きたいことがあるから生かした」
その声音に、青年の身体がびくりと震えた。
「“代わり”ができると期待したとき、嬉しくなかった」
青年は困惑した顔で黙った。
「これがいつか、二人になるのか? なりたくない。君は唯一であってほしい……そう胸が痛んだのはなぜだ?」
その独白に、しんとした空気がさらに静まる。
「それが……心、じゃないの?」
ぽつりと、子供がつぶやく。
「父さんのこと、お兄さんが運んでくれたんだよ。保安省だけど、優しいの!」
神宮は無言で自分の胸に触れる。
「この痛み……これが“心”」
青年は怯えながらも、そっと頷いた。
「あの悪魔……俺の心から死者を完全に再現できていた。……だから……漣さんも、あなたの心の中にいるはず……」
神宮は微かに口角を上げた。
人は過去には戻れない。失ったものは取り戻せない。だからこそ生は美しい。思い出が消えないよう、少しずつ喪失を埋める営みが。
だが――
「漣くん以外がだめなら、漣くんを“増やせばいい”」
まるで手品の仕掛けに気づいた子供のように、神宮は楽しげに呟いた。
――漣くんは、僕の心の中にいる。なら、その心を読み取れば彼を再現できる。
「……読心能力者を探すんだ」
唯一無二の存在を、模倣という方法で手に入れようとする姿は、まさに先ほどの悪魔と同じだった。そして同様に――
悪魔は読心術を求めていた。
欠けたものを求める。
それが、悪魔の本能だ。
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