1話―同僚の死


 翌朝、結衣は目覚めてすぐ、鏡を覗き込んだ。

 瞳の色に異常はない。充血も腫れもない。だが、網膜の裏に膜が張り付いているような不快感は、昨日から消えていなかった。


 「……寝不足のせい」

 無理に口にすると、鏡の中の自分が弱々しく笑ってみせる。


 重たい足を引きずるように編集部へ向かうと、朝から社内の空気は騒がしく張り詰めていた。

 普段から忙しい部署だが、今日はそのざわつきが異様に感じられる。

 廊下ではひそひそ声が飛び交い、机に突っ伏している者までいた。


 コピー機の前で立ち話をしていた二人の社員の会話が耳に入った。

 「……佐伯が……」

 「飛び降りたんだって」


 結衣の心臓が跳ねた。

 ――佐伯。

 隣の席で働く若手社員。昨日も缶コーヒーを片手に「三浦さん、今日も残業ですか」なんて笑っていた、あの佐伯。


 「え、嘘……」

 思わず口をついた声に、同僚が振り返る。

 「本当みたい。昨日の深夜、自分のマンションから……」


 耳の奥がしんと冷えた。

 結衣は昨夜を思い出していた。交差点で見た女の死体。見開かれた両目。

 そして電車で見た、あの“影”。


 机に戻ると、上司の高梨がやってきた。

 「……三浦。今日はもう帰れ。打ち合わせは延期だ。皆も動揺してる」

 「……はい」


 言われるままにパソコンを閉じたが、帰路につく足取りは重かった。

 電車に揺られながら、隣の女性社員の会話が耳に入る。

 「……警察が来て、佐伯さんの状況を話してたらしいの。死に顔が、ひどかったって」

 「ひどいって?」

 「目を、すごく……見開いてたんだって。血走って、今にも破けそうなくらいに」


 結衣は喉の奥で息を詰まらせた。

 耳鳴りがした。自分の眼球の奥に熱がこもる。

 ――あの影を見た者は、目を破裂させるようにして死ぬ。

 そんな言葉が浮かび、必死に首を振った。


 電車の窓ガラスに、自分の顔が映っている。

 疲れ切った女の顔。その瞳の奥から、何かがこちらを覗いている気がした。

――――――――――――――――――

 夜。

 自室の電気を消しても眠れなかった。暗闇に沈んだ天井を見つめると、視界の端にまた“影”が浮かんでいる。

 布団をかぶっても、まばたきのたびにちらつく。


 結衣は意を決して布団を蹴飛ばし、部屋の明かりを点けた。

 「……いるわけない」

 震える声で呟いた。だが、心臓は速く打ち続けていた。


 ――コン。


 窓ガラスに何かが当たる音がした。鳥か虫かと思ったが、二度、三度と続く。

 恐る恐るカーテンを開けた。

 夜の闇の中、マンションの隣のビルの屋上に“人影”が立っていた。

 ぼんやりと黒く滲んだ輪郭。

 その顔には穴のような眼孔が二つ、結衣を射抜くように向けられていた。


 「っ……!」

 背筋が凍りついた。

 その影は動かない。ただ、覗き続けている。


 震える指でカーテンを閉じる。目をぎゅっとつむった。

 その瞼の裏に、影の眼孔が焼き付いて離れない。


 まるで――眼球の裏側から覗かれているようだった。

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