2話―眼科医の忠告
数日が過ぎても、結衣の胸にこびりついた不安は拭えなかった。
眠っても眠っても疲れは取れず、会社で原稿を読んでいても文字がにじむ。
目の奥が熱を帯びる。頭痛もする。
――病気かもしれない。
そう思って、結衣は会社を早退し、最寄りの眼科に駆け込んだ。
診察室に現れたのは四十代ほどの男医師だった。
白衣のポケットから覗く万年筆、落ち着いた低い声。名札には「白石 慎一」とある。
白石は淡々と検査を進めた。視力測定、眼圧、光を当てての眼底検査。
結衣は緊張しながら、検査機械に顔を固定した。
「……異常は、ありません」
白石は結果を見てそう告げた。
「網膜も角膜も、傷ひとつない。視神経も正常です」
安堵しかけた結衣だったが、白石はそこで一瞬、言葉を切った。
そして、躊躇するように彼女の目をじっと覗き込んだ。
その表情は医師のものというより、怯えた人間のそれに近かった。
「……あなた、もしかして」
低い声。
「“見えて”しまっているんですか?」
結衣は息を呑んだ。
「な、何を……」
「黒い影のようなもの、視界の端にちらつく感覚……人の背後に立つ、顔のない人影」
言い当てられた。心臓が喉まで跳ね上がる。
「どうして……」
白石は椅子にもたれ、眼鏡を外した。額に汗が浮いている。
「これは医学では説明できない。ただ、古い文献に記録があるんです。“眼球の裏側”……」
そう言って彼は書棚から分厚い本を取り出した。革張りの医学書。
ページを繰ると、古びた図解が現れる。
人間の眼球の断面図。網膜のさらに奥に、もう一枚の膜のようなものが描かれている。
白石が震える指で文字をなぞった。
【"網膜の裏には“もうひとつの膜”が存在する。そこは内から外を覗くためのものではなく、外から内を覗き返すための器官である】
「……外から内を……?」
「そう。私たちは“見る側”のはずなのに、本当は“見られている”側なんです」
白石の声は掠れていた。
「見えてしまった人間は、やがて視界を奪われる。覗かれるままに……狂うか、死ぬ」
結衣の背筋に冷たいものが走った。
頭では信じられない。だが、佐伯の死にざまを思い出す。あの眼球。
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
結衣の声は震えていた。
白石は目を閉じ、短く答えた。
「――潰すしかない」
「え……?」
「眼球を、自ら。そうしなければ“裏側”に引きずり込まれる」
ぞっとした。息が詰まった。
結衣は椅子から立ち上がり、拒絶するように首を振った。
「そんなの……できるわけない!」
白石はそれ以上何も言わなかった。ただ深くため息をつき、顔を背けた。
――――――――――――――――――
それから数日後。
結衣が再び眼科を訪れると、そこはもぬけの殻になっていた。
受付は閉ざされ、張り紙には「臨時休診」の文字。
近隣の住人は「昨日から急に姿を見ない」と囁いていた。
診察室の窓から中を覗くと、机の上に一枚の紙が置かれていた。
眼球の断面図。黒インクで塗り潰された裏側に、赤いペンで大きく殴り書きがしてある。
――潰せ。
結衣の手は震えて紙を掴むこともできなかった。
背後から、誰かに見られている気配だけが、確かにあった。
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