第5話:見えない階段

その日、風はやさしく、空はどこまでも青かった。

けれど、遥子ようこは顔を上げなかった。


青が、かえって胸を刺すように眩しかった。彼女の心はまだ、その光を受け止められなかった。

傷が乾ききるには、少しだけ時間が足りなかった。


騒動から、数ヶ月。

所属していた芸能事務所との契約は、正式に解除された。


きっかけは、父の決断だった。


「もう、ここじゃ無理だ」


そのときの父の目は、疲れきっていた。

けれど、不思議と、どこか晴れやかでもあった。


違約金の請求書は、白い紙にしては重すぎた。机に置かれた瞬間、部屋の空気まで沈み込んだ。

それでも父は、遥子を守るために、小さな個人事務所を立ち上げた。


姉・真帆は、大学の課題を抱えながら、家計を支えるためにバイトを増やした。


「私がなんとかするから。遥子は、自分のペースでいいよ」


その言葉に、遥子は声もなく泣いた。


そして、アンコ。  


団地では飼えなかったが、放課後に公園で触れ合う時間だけが、遥子の心をやわらかく撫でてくれた。


アンコの飼い主は、ご近所の老婦人。

「予知の子」などと騒ぐこともなく、静かに見守ってくれる、数少ない大人の一人だった。


独立して最初のイベントは、区民ホールでの無料イベントだった。


チラシは家のプリンターで刷った紙。照明は窓からの自然光だけ。

折りたたみ椅子の金属がきしみ、少し湿った床が靴底に冷たかった。


それでも、そこには、遥子の言葉を待つ人たちがいた。


「……明日、みなさんにとって“やさしい何か”が起きますように」


そう言って微笑んだ遥子。  


奇跡は起きなかった。

でも──


その日、観客の一人が、帰り道で思いがけず小学校時代の親友と再会した。

二人の子どもが、同じ保育園に通っていることも、そこで初めて知ったという。


SNSには、「予言が当たった!」と写真付きの投稿が並び、

「#小さな奇跡」というタグがつけられていた。


父の努力。姉の支え。アンコの無言の寄り添い。

そして、少しだけ前に進もうとする遥子。


彼女の未来視は、以前よりも鈍っていた。

まるで、未来そのものが霧の中に隠れているように。


でも、誰かの背中をそっと押す力は、まだ残っていた。


小さな成功が積み重なり、やがて小劇場や商業施設から声がかかるようになった。

取材も、少しずつ舞い込み始めていた。


けれど、その足元には、見えない不安の影が静かに横たわっていた。


父の借金返済は、想像より重く、生活は切り詰められていた。


そして遥子自身も、未来が「曇って」見えていることを、まだ誰にも言えなかった。


家族の優しさに守られた独立。

でも、それが永遠に続く保証は、どこにもなかった。

父の机の上には請求書の封筒が少しずつ積み重なり、冷蔵庫の隅には安売りの豆腐ばかりが並んでいた。

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