第5話 ネコさん大作戦!

「ネコさんは本当にお一人なのですか?」


「ニャー?」


 この作戦に名前をつけるとするならズバリ――ネコさん大作戦。


 あかねには、ニャー以外の言葉を禁止し、表情からも悟られることのないよう指示が出されている。そう、言葉を理解しないネコのように振る舞えという指示だ。


 正直、あかねにそんなことができるか不安だったが、見事に役目を果たしてくれている。そもそも、自分からやりたいと言い出した――いや、あれは恐らく、私を行かせたくなかったのだろう。理由は不明だが。


 しかし、声変わりした男の声でニャーニャー言うのが、幼いマナから見てかわいいかどうか――。


「よしよし」


 アスト王に手足を縛られ、床に転がされているあかねが、幼いマナに頭をなでなでされている。これは、かわいい判定が出た、ということだろうか。おめでとう、あかね。


「他には誰もいないみたいだね」


「ああ。それに、魔法の痕跡もない」


 二人がそんな話をしている横でも、あかねはほっとすることも、それ以外に露骨な反応をすることもない。


 素直にすごいと称賛したくなる一方で――何があったらそんな風に感情を殺せるようになるのかと、恐ろしくもなる。


 最悪、私たちと話している時でさえ、自分を偽っている可能性があるのだ。本当は、驚きも、喜びも、悲しみも。何も、感じていないのではないかとさえ思うときがある。


 それほどに、あかねは完璧なネコさんだった。


『少し揺れます』


 ――隙を見て、私を抱えたマナは最上階へと戻る。何度も言うようだが、監視の目はそもそも二つ――アスト王と、無口で気配は薄いが魔王もいるのだ。手分けして確認しているのだから、他に誰かいるだなんて、普通は思わないだろう。


アスト王と魔王にとっての誤算は、今現在相手にしているのが、マナだということ。


「それの処遇はそちらに任せる」


 魔王の赤い瞳が、床に転がされた十七の男を冷たく見下ろす。


「ああ、それで構わない。マナも新しいネコが欲しいみたいだからね。名乗る気はないようだし、好きに名前をつけるといいよ」


「名前……」


 まるで捨てネコを拾ったかのような会話だが、拾ったのは、にゃーしか話さない髪の長い男子だ。


『あかねがネコなので、あかねこ、はどうでしょう』


 と、マナが言い出した。


『いいじゃない』


『まなさんはどう名付けますか?』


『そうね……。にゃかね、とか?』


『にゃかね。にゃかね……』


 口の中でにゃかねと繰り返すマナ。いいのか悪いのか、どうして繰り返すのか、何も言わない。なんなんだ一体。


 その間、静かに考えていた幼いマナが、こう言った。


「二つ思いつきました。あなたの好きな方にしたいと思います」


 果たして、マナの考えた二つの名前とは――。


「一つ目は、チェス」


(チェス? 一体、どこから出てきたのかしら。)


 自分のことだからか、隣のマナには意味が分かったようで、声を出さずにくっくと笑った。


「もう一つは――マロンです!」


 思わず笑いそうになって、あかねの二の舞になってはいけないと堪える。


 あかねの髪色が金にも栗色にも見えるからだろう。前者は恐らく、チェスナッツという栗の別名から来ている。どっちにしろ栗だ。


『マロンにしなさい。マロンの方がかわいいから』


『マロンにしましょう。マロンっぽい顔ですから』


(マロンっぽい顔って何よ。面白いじゃない。)


 まあ、そんな私たちの声は届くはずもないというか、届かせてはならないので、すべてはあかねに委ねられた。


「どちらがよろしいですか?」


「ニャ、ニャー……」


「ん? はっきり仰っていただかないと、にゃーにゃーでは何も分かりませんよ」


(マナが、ドSに目覚めているわ……! いや、もともとそんな節があったかもしれないわね。)


「チェスか、マロンか。どちらになさいますか?」


「ニャウ」


「チェス」「ニ「か、マロンか」ャー」


 少女の弾んだ声から、あかねが完全に遊ばれているとよく分かる。恐らくというか、ほぼ確実に、マナはチェスがいいと気づいている。


 が、にゃーを待たずにマロンと口にすることで、どちらに返事をしたか分からないというふりをする。


「チェス」「ニ「マロン」ャー……」


 スピードアップしていく、チェスにマロンゃー。こうなると、マロンという言葉が出る前ににゃーと言うしかない。


「チェス」「ニャ「マロン」ャー」


「チェス「ニャア」マロン」「ァー」


「マロン」「ニャー……ニャッ!?」


 まんまと引っかかっている。


「マロンがよろしいのですか?」


「ニャッ!? ニャニャッ、ニャーッ!」


 猛抗議のあかね。否――。


「そんなにマロンが気に入りましたか。では、決定ですね」


「ニャ、ニャー……」


 榎下朱音改め――今日からマロンだ。


 がっくりとうなだれるマロンが、小さな手に顎をなでなでされているのが、見なくても分かる。


「よろしくお願いしますね、マロン」


 こうしてマロンは、マナたちに保護された――。


***


 扉が閉まる音を確認し、それでも念には念を入れて目を閉じ、音に集中するマナ。


「もう大丈夫ですよ」


「……はぁ~~~。緊張したわ」


 やっと、普通に息が吸える。


「はい。心臓がドクドクいってましたね。ぴとっ」


 わざわざ屈んで、私の胸にぴとっと耳を当ててくるマナ。しかし、緊張から解放されたばかりで疲れが勝り、おざなりに撫でておく。


 私の身長は一三八センチ。対するマナは一七〇センチくらいはあると思う。私はいまだに子どもに間違えられることは多いが、もうすっかり慣れてしまった。


 ゆっくりと深呼吸をして、思考の隅々に酸素をいきわたらせていると――ふと、あることに気がつく。


「……そういえば。あかねって、他人から触れられると吐くんじゃなかったかしら?」


「言われてみると、普通にしていましたね」


 小さいマナはともかく、アスト王から肩に手を置かれている。私の知るあかねなら、間違いなくこの時点で瀕死の重傷だ。


 平気なのは私とマナくらいだと思っていたのだが。


「克服した……わけないわよね」


「ええ。私たちは、彼の心を知っていても、彼自身じゃない。癒えない傷があると知っていても、常に痛みを感じているのは彼だけですから」


 どれだけ近しい相手だろうと、どれだけ勘が鋭かろうと、大切な人の心が弱っていることに気づいてやれないときもある。


 それは、あかねが隠したがっていたからかもしれないし、私たちがまだ、見た目が同じだけの相手を、別人として扱えていないからかもしれない。


「八歳のマナなら気づいてくれるかしら」


 マナは視線を少し右下に下げて、考える素振りを見せた後、答える。


「気づきは、すると思います。ただ――」


「ただ?」


 口元を手で覆って、いつもの稚気を隠したマナが鋭い気配で、言う。


「本音を引き出すことが強さだというのなら、今の彼女はあまりにも、弱い。――強い毒なら即死でしょうが、弱い毒なら、かえって苦しむかもしれませんね」


「たとえが物騒ね……」


 ずらした手の隙間から一瞬だけ覗いた唇は――綺麗な弧を描いていた。悪い笑みに全身がゾクッと震えて――けれど、その意味をどこまでも知りたくなってしまう。


 そんな、悪い子な自分に気づいてなんとなく、目をそらす。と、マナが私の頭をよしよしする。


「私が知っているまなさんよりも、ちょびっとだけ悪い子ですね」


 マナが知っている私は、そんなにいい子だったのだろうか。二人とも何も語らないから、分からない。


(まあ、あたしも何も話してないからお互い様ね。……弱いわ。本当に。)


「ひとまず、あたしが先に出て外の様子を確認してくるわ。外に見張りをつけて警戒しているとしても、あたし以外にもう一人いるとは、さすがに思わないもの」


 マロンに仲間がいる可能性を考えたとしても、せいぜいもう一人だと考えるだろう。仮に、外で誰か待機していたとしても、私が捕まれば、アスト王側に隙が生まれる。


「まなさんを囮にするなんて、本来であればやりたくないのですが……」


 マナは私が好きすぎるきらいがある。想われることは幸せなことだけれど、優先順位の上位を独占してしまうというのは、やや気が引ける。


「まあ、しばらくネコさんになるだけよ。白髪だから、しろぷん、とかどうかしら?」


「素晴らしい名前ですね。私なら、そうですね――」


 私の白髪を人差し指で一房、すくうとそれを見つめて親指の腹で流れにそって毛先を撫でた。 


「まなにゃ、ですかね」


「なんのために髪を見つめてたのよ」


 えへへと笑うマナに、呆れ半分、笑い半分な気持ちで嘆息する。


 それからマナはゆるゆるの笑みのまま、すくった髪をまた、愛おしそうに撫でる。


「ねえ、まなさん」


「なあに、マナ」


 瞳に映る白髪を、私の瞳の赤に変えて。


「――まなさんは、人を殺したことは、ある?」


 今なら、誰の介入も受けずに済む。私とマナ。世界に二人きりみたいだ。


 答えたくないと、心が怯えていた。


「ごめんね。言いたくないことを聞いて」


 私の罪は、逃げ続けてきたこと。だからもう、逃げるわけにはいかない。


 世界は怖いことでいっぱいだけれど、マナは、怖い人じゃない。けれど、だからこそ――。


「言いたくないわけじゃ、ないわ」


 苛立つあかねよりも、目の前の優しい笑みを浮かべたマナの方がよっぽど、恐ろしい。


 だから、上手く、目を合わせられない。


「ただ、昔のことは、まだよく思い出せないの。それから……マナを、傷つけたくなくて」


 何度、大切な人を傷つければ気が済むのか。そんなことは少しも望んでいないのに――。


「そっか。まなさんは、誰も殺さなかったんだね。だから、こんなに真っ白な髪をしてるんだ」


 ひとすくいの髪に、マナの唇の赤が触れる。その髪は一度見たら忘れられないほどに鮮烈で、鮮やかな、桃髪だ。


 だから私の髪に触れるその手を、掴む。整った完璧な笑みの裏に、彼女は一切の感情を隠していた。


 そこに、埋められない大きな壁があるような気がした。


「……ころすころすって、簡単に言うのは嫌だって、あんなにも泣いてたのに。どうしたのよ」


 この世界に来る一年前に、マナが言ったのだ。だから、話題には出さなかった。それがどうして、今になって。


「まなさんは、私が元の世界で何をしたか知ってるの?」


 知らなければ、傷つけるかもなんて悩まずに済んだ。


 ふと気がついた。私が恐れるのと同じくらいに、マナもまた、私を恐れているのだと。


「記録は、すべて読んだわ」


 ――およそ六年の間に、特定の死因による死者が六桁を超えた、血の皇帝の時代。空想のようなふざけた数字が事実なのだろうということは、理解していた。


 きっとマナは、昔よりも心を隠すのが上手くなった。それだけ、隠す必要があったのだろう。


「――でも。マナの口からは何も聞いてない」


 緊張で冷たくなったマナの手を、握って温める。


「だから、何も知らない。記録は記録であって、真実じゃないもの」


「それらすべてが、事実だとしても。まなさんは、私の手を握ってくれますか?」


 人が死ぬのは、怖い。大切な人を奪われたら、死ぬまで一生、許せない。溺れていくような苦しさの中にあって、それでも死ねないみたいだから。


「記憶の曖昧な幼い頃のことは、はっきりとは分からないわ。マナの言う通りあたしは多分、人の命をこの手で奪ったことはない。……けれど、あたしのせいで亡くなった人は大勢いる」


 本当は、この場所にいることさえ、あってはならないのかもしれない。ふとした瞬間、笑っている自分に気づいて、これでいいのだろうかと思うことがある。


 だから握る手に、少しだけ力を込めて言う。


「だから。――地獄の底まで、この手を離すつもりはないわ」


 風が吹けば、飛んで消えてしまう。そのくらい、私の心は、隙間だらけだ。だから、しっかりと握っていなければならない。


 そうしないと、またどこか遠くに消えてしまうから。私も、マナも、あかねも。


「――まなさん、ここから飛び降りるとき、ものすごく怖がっていましたね」


 魔王と入れ違いに階段を飛び降りたとき。内心では声が枯れるほどに叫んでいた。顔を見れば誰にだって怖がっていると分かっただろう。


「それでもちゃんと、離れなかったでしょう?」


「はい。おかげで、下敷きにすることもありませんでした」


「クッションにされたら、あんたと違ってさすがに死ぬわよ」


 塔の高さは音を立てずに飛び降りる、なんて次元ではなく、全身の骨がバラバラになっていてもおかしくない高さだ。いっそ、雲よりも高い。


 マナのささくれが痛むような、わずかな表情の意味が、少し気になったが――。


「そろそろ、頃合いですね」


「――ええ、そうね。下まで運んでくれるかしら?」


 そこには言及せず。両手を伸ばしてお姫様抱っこを所望すると、マナに抱き抱えられる。


「ねえ、まなさん」


「何かしら。怖いから早めに降りてくれた方が嬉しいのだけれど」


「……もし、モノカお姉様に会ったら。少し、気にかけていてくれませんか?」


 モノカといえば、マナの六歳上の姉であり、ゴールスファ家の第一王女だ。


 が、私の世界では犯罪者として、第一王子のエトスの手で処刑されている。


(それが、私の世界――この世界の正史なのよね。)


 ほとんど話したことはないが、マナよりもずっとお姫様、という感じの人だったと思う。私たちが悪さをして怒られたときは、ちょっと怖かったけれど。


「にゃーしか話せないけれど、それでもよければ気にかけておくわ」


「お願いします。――とはいえ、お姉様とは普通に話しても問題ないかと思いますが」


 情報が漏れないよう、ニャーしか言わないのが、ネコさん大作戦のはずだが。


「どうして?」


 マナは顎に手を当てて考え込み。


「――お姉様は、私のことが大好きですから」


 と、答えにならない答えを返した。

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