第27話 光の海、音の洪水

 

 京葉道路のヘッドライトの帯は、巨大な生き物の血管のように、絶え間なく脈動していた。アキが運転するコンパクトカーは、その流れの一部となって、東京という心臓部へと吸い込まれていく。

 「どこで降りるか、決めてますか?」

 アキの問いに、彼はしばらく答えられなかった。これまでのように、次の目的地が明確にあるわけではない。ただ、この巨大な都市の、どこか中心と言える場所で、一度自分の足で立ってみたかった。

 「…皇居の近くで、お願いできますか」

 それは、彼が咄嗟に口にした、ほとんど無意識の選択だった。


 車は、首都高速の箱崎ジャンクションの複雑な光の迷路を抜け、都心環状線へと入る。窓の外には、天を突くようにそびえる高層ビル群が、無数の光を放ちながら迫ってくる。それは、函館の夜景のような、人の営みの温かみを感じさせる光ではなかった。富と、権力と、欲望が可視化された、冷たく、しかし強烈な引力を持つ光の奔流だった。

 「すごい…」

 アキが、まるで初めて見るかのように呟いた。毎日この近くで働いている彼女でさえ、この夜景は非日常なのだ。

 やがて、車は竹橋の出口を降り、皇居のお堀端へと出た。ライトアップされた石垣と、その向こうに広がる深い森の闇が、摩天楼の光と鮮烈なコントラストを描いている。

 「ここで、大丈夫ですか」

 「はい。本当に、ありがとうございました。アキさんの言葉、忘れません」

 「私の方こそ。…なんだか、明日から、少しだけ違う景色が見られそうな気がします」

 アキはそう言うと、力強く彼の手を握り、そして、雑踏の中に消えていった。彼女の車が見えなくなるまで、彼はその場に立ち尽くしていた。


 一人になると、東京という街が発する、本当の音が聞こえてきた。

 絶え間なく走り去る車の走行音、遠くで響くサイレン、そして、それら全てを包み込む、地鳴りのような都市のノイズ。会津や日光で感じた「静寂」は、ここには一片も存在しない。

 彼はリュックを背負い直し、歩き始めた。お堀の水面が、周りのビルの光を歪んで映している。その光景は、まるでこの街そのものが、現実と虚構の境目が曖昧な、巨大な幻影のようだった。

 歩道には、仕事帰りの人々が、早足で彼を追い越していく。誰も、彼の存在など気にも留めない。すれ違う人々の顔は、一日の疲労と、明日の不安とで、一様に無表情に見えた。

 ――この人たちは、どんな物語を生きているのだろう。

 これまで彼は、出会う人々の背景にある、土地の記憶や仕事の誇りに耳を澄ませてきた。だが、この街では、その手がかりが掴めない。人々は、土地や共同体から切り離された、無数の「個」として、この光の海を漂っているように見えた。


 彼は、安い宿を探す気にもなれず、24時間営業のファミリーレストランに入った。窓際の席に座り、ただ、窓の外を流れていく光と人の群れを眺める。

 ノートパソコンを開く。だが、指は動かない。

 これまで彼が旅で得てきた言葉――「流す」「彫る」「支える」「守る」「沈黙」――。それら全てが、この圧倒的な現実の前で、その力を失ってしまうような無力感に襲われた。

 この街を、どう言葉にすればいいのか。この巨大な匿名性を、どう物語ればいいのか。

 彼の旅は、最も困難な問いを突きつけられたまま、東京の夜の中に、たった一人で放り出されていた。

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