第26話 匿名性の海へ
つくばという理性の島を後にして、彼は旅の最終目的地ではない、しかし避けては通れない巨大な関門、東京へと向かう決意をした。ここから先は、これまでのような長閑な風景は望めないだろう。だが、この国を動かす中心地で、人々が何を思い、どんな言葉で生きているのかを知らずして、この旅は終えられない。彼は、再び国道6号線沿いに立ち、南へと向かう親指を立てた。
空は白っぽく、遠くの景色は霞んでいる。車の流れはこれまでになく速く、そして無機質だった。誰もが明確な目的地を持ち、道端の旅人に構う余裕などないように見える。一時間、二時間と経つうちに、彼の心には、北の大地で感じたのとは質の違う、焦燥感が募り始めた。
その時、一台のコンパクトカーが、少し先でハザードを点滅させて停車した。慌てて駆け寄ると、運転席から、彼と同じくらいの歳に見える女性が、少し戸惑ったような、しかし好奇心に満ちた目でこちらを見ていた。中性的な顔立ちの彼を、女性と見間違えたのかもしれない。
「あの…大丈夫ですか? もしよかったら、次の駅までとか…」
「ありがとうございます。東京方面に向かいたいんです。行けるところまでで構いません」
「…すごい。本当にヒッチハイクなんですね。どうぞ」
女性は、どこか緊張を解いたように微笑んで、彼を助手席に招き入れた。
車内には、人気のポップミュージックがかすかに流れ、新車特有の匂いがした。
「私、こういうの初めてで…。ちょっとびっくりしちゃいました」
女性は、アキと名乗った。つくば市内の企業に勤める社会人二年目で、この日は千葉県船橋市にある実家へ帰る途中だという。
「北海道から、ずっとヒッチハイクで? 作家さん…なんですか。すごい。なんだか、映画みたい」
二十歳の彼が、高校卒業後すぐに作家として活動していることを話すと、アキは心から感心したように何度も頷いた。
「私は、毎日同じ時間に起きて、同じ電車に乗って、同じデスクに座るだけ。週末に実家に帰るのが、唯一の変化、みたいな。だから、あなたみたいな生き方、すごく…眩しいです」
その言葉には、羨望だけでなく、どこか諦めのような響きが混じっていた。
車は、利根川を渡り、千葉県に入った。車窓の風景は、彼がこれまで旅してきたどの土地とも異質だった。田園でもなく、山でもなく、整然とした研究都市でもない。ロードサイド店、集合住宅、中小の工場、そして無数の電線が、何の脈絡もなく、しかし隙間なくぎっしりと空間を埋め尽くしている。
一つ一つの建物に個性はなく、すべてが同じような顔をしている。土地の記憶を語りかけてくるような風景は、どこにもない。それは、彼がこれまで集めてきた「土地の物語」を、まるで飲み込み、均一化してしまうかのような、強力で巨大な流れだった。
「この景色、どう思いますか?」とアキが尋ねた。
「…正直、まだ、言葉になりません。大きすぎて」
「分かります。私も、大学で上京してきた時、そうでした。人がたくさんいるのに、誰も私のことを見ていない。空が狭くて、息が詰まりそうになる。でも、いつの間にか、それが『普通』になっちゃうんですよね」
アキは自嘲するように笑った。その笑顔は、この巨大な匿名性の中で生きるために、彼女が身につけた鎧のように見えた。
やがて、船橋市街の渋滞にはまる。車の流れは止まり、周りを見渡せば、同じように無表情でハンドルを握る人々、スマホの画面を見つめる人々。誰もがそれぞれの車という個室に閉じこもり、隣の車に誰が乗っているのか、関心も持たない。
「ここ、いつもこうなんです」とアキが言った。
「みんな、急いでる。でも、どこへそんなに急いでいるのか、多分誰も分かってない。ただ、周りの流れに乗り遅れないように、必死でアクセルを踏んでるだけ」
その言葉は、彼がこの風景から感じ取っていた、漠然とした不安の正体を、的確に射抜いていた。
ここは、土地の記憶が薄い代わりに、無数の人々の「今」という瞬間が、猛烈な速度で消費されていく場所なのだ。
「もしよかったら、もう少し乗りませんか。いつもなら電車で帰るんですけど、今日はあなたを送っていきたい気分だから」
アキはそう言うと、カーナビの目的地を、都心へと向かう地点に設定し直した。
「私、あなたの旅の、ほんの少しだけでもいいから、一部になってみたい」
その申し出を、彼は断ることができなかった。それは、単なる親切ではなかった。巨大な匿名性の中で生きる一人の人間が、自分の存在の証を、彼の旅に託そうとしている、切実な叫びのように聞こえたからだ。
車は、京葉道路へと合流した。高架橋の上から見下ろす街には、無数の灯りが灯り始めていた。それは、函館で見た夜景とは全く違う、どこか冷たく、無機質な光の海だった。
「東京が近づいてきましたね」とアキが呟いた。
「あなたはこの景色を、どんな言葉で彫るんだろう」
その問いに、彼はまだ答えられなかった。
北の大地から始まった旅。会津の義、日光の神、つくばの知。彼がこれまでリュックに詰め込んできた、重く、価値あるはずの言葉たちが、この圧倒的な物量と速度の前で、その輝きを失ってしまうのではないか。
そんな恐怖が、彼の胸をよぎる。
彼の旅は、いよいよ最も困難で、そして最も現代的なテーマへと、否応なく突き進んでいた。この匿名性の海の中で、人はどう生き、どんな物語を紡ぐことができるのか。その答えを見つけない限り、彼の旅は、そして彼の小説は、決して終わらないだろう。
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