第12話 本州の匂いと、リンゴ畑の道



 フェリーのタラップを踏みしめ、青森港の地に降り立った瞬間、彼はむわりと湿った熱気を感じた。北海道の乾いた涼しさとは明らかに違う、肌にまとわりつくような空気。潮の香りに、アスファルトの照り返しと草いきれが混じり合った、これが本州の夏の匂いかと思った。


 空は高く、雲の形もどこか違う。

 彼はターミナルビルを抜け、リュックの重みを確かめながらゆっくりと歩き出した。旅の第二章が、今、始まったのだ。


 まずは腹ごしらえをしようと、スマホで近くの市場を調べた。「古川市場」で自分で具材を選んで作る「のっけ丼」が名物だと知り、迷わずそこへ向かう。

 市場の中は、威勢のいい津軽弁が飛び交い、活気に満ちていた。北海道の市場とはまた違う、人懐こい熱気がそこにはあった。

 ホタテ、マグロ、ヒラメ。地元の魚屋のおばちゃんと会話しながら丼に乗せてもらう。そのやり取り自体が、新鮮な物語の断片のようだった。


 熱いご飯と冷たい刺身をかき込みながら、彼はこれからの道筋を考える。

 「鹿児島まで」という大きな目標は変わらない。ひとまず、東北を縦断して仙台を目指すのが順当だろう。


市場を出て、彼はコンビニでマジックと新しいダンボールを調達した。

 国道4号線へと続く道沿いの、少し開けた場所に立ち、「仙台方面」と力強く書き込む。

 北海道での経験が、彼をためらわせなかった。待っていれば、道は開ける。


 日差しは強く、額に汗が滲む。

 三十分ほど経った頃だろうか、一台の軽ワゴンが彼の少し先でハザードを点滅させて停車した。

 窓から顔を出したのは、人の良さそうな笑顔を浮かべた六十代くらいの女性だった。頭には手ぬぐいを巻き、作業着姿だ。


 「仙台までは行かねぇけど、弘前の方までなら乗せてってやんよ」

 訛りのある、温かい声だった。

 「ありがとうございます、お願いします」


 助手席に乗り込むと、車内には甘酸っぱいリンゴの香りが満ちていた。後部座席には、収穫用のカゴがいくつも積まれている。


 「兄ちゃん、旅人かい? その格好」

 「はい。北海道からヒッチハイクで」

 「へぇー、大したもんだ。わらし(子供)の頃、映画で見たことあるくらいだ」

 女性はケラケラと笑いながらハンドルを切る。


 車は市街地を抜け、やがて道の両側に広大なリンゴ畑が見えてきた。

 まだ青いが、たわわに実ったリンゴが、夏の光を浴びてきらきらと輝いている。

 「うちもリンゴ農家でな。今は摘果作業でてんてこ舞いだ」

 女性はそう言うと、足元に置いてあった水筒を差し出した。

 「自家製のリンゴジュース、飲むかい?」


 差し出されたジュースは、ひんやりと冷たく、濃厚な甘さが喉を潤した。市場で売っているものとは違う、土と太陽の味がした。


 「小説家になりてぇって? そりゃすごい。んだば、うちの畑のことも書いでけろ」

 「はい。このリンゴの香りも、畑の景色も」

 「言葉にするってのは、難しそうだなぁ。わ(私)なんか、『まいね(だめだ)』とか『け(食べろ)』とか、そんぐらいしか言えねぇもんな」


 女性は謙遜して笑うが、彼の耳には、その短い方言のひとつひとつが、土地に深く根ざした豊かな響きを持っているように聞こえた。

 机の上でこねくり回していた言葉よりも、ずっと力強く、温かい。

 ――土地の言葉には、その土地の生活と感情が凝縮されている。


 北海道で「景色を見ること」を学んだ彼は、本州に来て、今度は「土地の言葉を聞くこと」の重要性に気づかされていた。


 やがて、弘前へと続く道と、南へ向かう国道7号線の分岐が近づいてきた。

 「この先のでっかい交差点で降ろすな。あそこなら、秋田や盛岡さ向かうトラックも拾いやすいはずだ」

 車が停まり、彼は深く頭を下げた。


 「兄ちゃん、達者でな。腹減ったら、ちゃんと飯食うんだぞ」

 女性は母親のようにそう言うと、後部座席からリンゴを二つ取り出し、彼に手渡した。

 「まだ酸っぱいかもしれねけど、旅のお守りだ」


 軽ワゴンが走り去っていく。

 手の中に残った、ずしりと重いリンゴの感触。その表面から、まだ太陽の温もりが伝わってくるようだった。

 彼はリンゴをリュックにしまい、再びダンボールを掲げる。


 目の前には、どこまでも続くアスファルトの道。

 北の海の匂いはもう遠く、今は土と果実の匂いを背負って、彼は南を目指す。

 

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