第11話 海峡を渡る時間
夜明け前の函館フェリーターミナルは、巨大な生き物の腹の中のように静かだった。
硬いベンチで浅い眠りから覚めた彼は、首の凝りをほぐしながら立ち上がった。窓の外では、これから乗り込む大型フェリーが、白い船体を静かに横たえている。
乗船券を買い、彼は徒歩乗船の待合ゲートへと向かった。
周りには、大きなバックパックを背負った旅行者や、手土産の袋を提げた帰省客らしい人々の姿が見える。車の乗船レーンには、長距離トラックがアイドリング音を響かせながら列を作っていた。あのトラックの運転手たちも、かつて自分を乗せてくれた男のように、それぞれの物語を荷台に乗せて海を渡るのだろう。
ボーディングブリッジを渡り、船内に足を踏み入れる。
ひんやりとした空調と、カーペットの匂い。外の潮の香りとは違う、閉じた空間の匂いがした。
彼はリュックを客室の隅に置き、すぐさまデッキへと出た。やがて、長く太い汽笛が鳴り響き、船体がゆっくりと岸壁を離れていく。
函館の街が、昨日歩いた道が、見下ろした夜景が、少しずつ小さくなっていく。函館山が遠ざかり、赤レンガ倉庫が豆粒のようになり、やがてすべてが朝靄の中に溶けていった。
彼は、なぜ大間港へ向かう最短ルートではなく、3時間40分もかかる青森港行きの便を選んだのか、自問していた。
答えは単純だった。
――もっと長く、この海の上にいたかった。
陸路をヒッチハイクで繋いできた旅は、常に次の一歩を意識させるものだった。だが、一度海に出てしまえば、自分の意思ではどうにもならない時間が流れる。この強制的な空白の時間の中で、彼は北海道で得たもの全てを、ゆっくりと反芻したかったのだ。
デッキの手すりに寄りかかり、彼は目を閉じた。
吹き付ける潮風の中に、出会った人々の顔が次々と浮かんでくる。
「流すための旅だ」と言った、古いワゴン車の男。
「港町の本当の顔が見える」と笑った、札幌市場の藤島。
「そういうの、書けよ」と無骨な優しさを見せた、長距離トラックの運転手。
「言葉じゃ説明できん」と冬の海を語った、森町の漁師。
「僕たちのことも書く?」と無邪気に尋ねた、ミニバンの男の子。
彼らの言葉、表情、手の皺、そして彼らが見せてくれた景色。
そのすべてが、固まっていた彼の心を溶かし、新しいインクのように満たしていく。
北海道は、ただの通過点ではなかった。失いかけていたものを取り戻すための、広大なゆりかごだった。
彼は船内のラウンジに戻り、窓際の席に座ってノートパソコンを開いた。
船のわずかな揺れが、心地よいリズムで指先に伝わる。
キーボードを叩く音は、もう迷いのない、確かな音になっていた。書くことは苦痛ではなく、呼吸をするように自然な行為へと戻っていた。
どれくらい時間が経っただろうか。
ふと顔を上げると、窓の向こうに、これまで見てきた北海道とは違う、濃い緑に覆われた陸地が見え始めていた。下北半島だ。
本州が、見えている。
やがて、船内にアナウンスが流れた。
「――まもなく、青森港に到着いたします」
彼はパソコンを閉じ、再びデッキへと向かった。
港が近づくにつれて、潮の香りに工場の匂いが混じり始める。カモメの鳴き声も、函館で聞いたものとは少し違って聞こえた。
フェリーがゆっくりと接岸し、巨大な船体が岸壁に固定される。
ゴウン、と重い音が響き、タラップが架けられていく。
彼はリュックを背負い直した。
北の大地で得た温かい記憶と、再生した言葉たちを胸に、彼は本州への第一歩を踏み出す。
旅の第一章が終わり、ここから、また新しい道が始まる。
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