第8話 海沿いの軽トラ
苫小牧港の倉庫群を抜けると、背後で大型トラックのエンジン音が遠ざかっていく。
港の匂いは潮と油の混じった重い香りだったが、そこから少し離れると空気が軽くなり、代わりに土と草の湿った匂いが鼻に入ってきた。
空は雲が少なく、夏の光は真上から容赦なく降り注いでいる。
「函館方面」と書いたダンボールを掲げ、国道沿いで立ち始めてから二十分ほど。
車のほとんどはスピードを落とさずに通り過ぎていった。
そのたび、横風がシャツの裾を揺らし、アスファルトの照り返しが足元を熱くする。
やがて、一台の白い軽トラックが徐行しながら近づいてきた。
フロントガラスの向こうで、日焼けした顔がこちらをじっと見ている。
窓が下がり、低く少しざらついた声が届いた。
「森町までだけど、乗ってくかい?」
「お願いします」
⸻
助手席のドアを開けると、干し網のような香りと、わずかに潮の匂いが混ざった空気が流れ出てきた。
シートは浅く、足を少しすぼめなければ収まらない。
ドアを閉めると、外の蝉の声が途切れ、代わりに軽快なエンジン音とタイヤのざらつく音が耳を満たす。
「ヒッチハイクなんて、今時珍しいな」
「そうですか。旅しながら景色を見て回ってます」
男は軽く頷き、視線を前から外さない。
首筋から肩にかけて深く日焼けしていて、運転する手の甲には、薄く白い傷がいくつも走っていた。
⸻
苫小牧の市街地が後方に小さく消えていくと、やがて左手に太平洋が現れた。
青さは深く、ところどころに陽光を反射して白く光っている。
右手には断崖が迫り、緑の斜面が海に落ち込むように広がっていた。
男は窓を数センチ下げ、潮風を入れた。
風は少し塩辛く、頬に触れると細かい水滴を残す。
「今日は凪だな。こっちも漁に出たかったけど、網の手入れで一日終わるわ」
「漁師さんなんですか」
「ホッケとスケソウ。時期によっちゃサケもやる」
彼の頭には、銀色の魚が網の中で跳ねる光景が浮かんだ。
⸻
男の話は淡々としているが、ひとつひとつの情景が鮮やかだ。
夜明け前の港の匂い、霜がついたデッキの冷たさ、網を引くときの腕の痺れるような重み。
魚市場で飛び交う声や、塩で荒れた指の感触までも、聞く者の皮膚にまで染み込んでくるようだった。
「冬は大変そうですね」
「荒れると出られんし、網も凍る。でもな、冬の海の色が好きでな」
男は片手でハンドルを軽く叩く。
「晴れた日にゃ、空と海の境目がなくなるんだ。あれは言葉じゃ説明できん」
言葉じゃ説明できない景色。
その一言が、心の奥を小さく震わせた。
まさに、それを求めて自分はここに立っていたのだ。
⸻
途中、小さな漁港の脇を通る。
岸壁には色褪せたブイが積まれ、濡れたロープが波に合わせてわずかに揺れている。
作業服姿の数人が、腰をかがめて網のほつれを縫っていた。
軽トラは速度を落とし、男が軽く手を挙げると、作業していた男たちも無言で手を挙げ返した。
港の匂いが一瞬だけ強く車内に入り込み、すぐにまた風に流された。
⸻
森町が近づくにつれ、海は少しずつ見えなくなり、代わりに山が道の両側に迫ってきた。
木々の間からは、ところどころ川が覗き、白い泡を立てながら流れている。
「ここからは国道一本だ。南に行きゃ函館だ」
停車した軽トラから降りると、足元のアスファルトが熱を持っていた。
礼を言い、軽く頭を下げる。
男は小さく頷き、クラッチを踏んで軽トラを走らせた。
背中を向けたとき、あの「境目のない冬の海」の色が、まだ頭の奥でゆらめいていた。
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