第6話 港の匂いと筆の先



 小樽に着いたのは、まだ午前九時前だった。

 港の水面は薄い灰色を帯び、漁船が並んでいる。ロープの軋む音とカモメの鳴き声が混ざり合い、空気には潮と魚の生臭さが濃く漂っていた。


 軽トラックの男――藤島と名乗った――は、港近くの小さな店舗の前で車を停めた。

 「ちょっと荷下ろし、手伝ってくれるか?」

 「もちろんです」


 彼は荷台から発泡スチロールの箱を下ろす。中にはまだ氷の粒が残っていて、指先がじんと冷える。

 藤島は慣れた手つきで扉を開け、店の中に荷を運び入れた。



 荷下ろしが終わると、藤島は「せっかくだから」と港の近くを案内してくれた。

 観光客がまだ来ていない時間帯の運河沿いは、石造りの倉庫が無言で並び、窓ガラスには薄い朝日が反射していた。

 「ここらは昔、ニシン漁で栄えたんだ。今は観光のほうがメインだがな」

 藤島の声は、長年この街と関わってきた人間の落ち着きを帯びている。


 彼は立ち止まり、港を見渡した。

 その視線の先で、漁船の甲板に立つ男たちが網を干している。

 手の動きは一切無駄がなく、海の匂いがまた強くなった。



 「いいだろ、この感じ。観光パンフレットには絶対載らない景色だ」

 藤島の言葉に、彼は頷く。

 「兄ちゃんみたいに、ただ景色をボーッと見てるだけじゃなく、何かを読み取ろう   としてるような目をした奴は久しぶりだ。だから、見せてやりたくなったんだよ」

 パソコンの画面よりも、この空気感のほうが文章を動かす。

 潮風が頬を撫で、指の中に昨日の発泡スチロールの冷たさが残っている。


 ――これは、書ける。


 その確信が胸に広がった。



 藤島は腕時計を見て、「そろそろ戻るわ」と言った。

 「このあとどうするんだ?」

 「南に向かいたいです」

 「じゃあ、この港沿いの国道で立ってみな。苫小牧あたりに行くトラックがけっこう通る」


 別れ際、藤島は片手を上げて去っていった。

 軽トラックは小さくなり、やがて運河の向こうに消える。



 彼は港沿いの歩道に立ち、ダンボールに「苫小牧方面」と書いた。

 潮の匂いとエンジン音が入り混じる中、さっき見た港町の朝が、頭の中で言葉に変わっていく。

 キーボードを打つ代わりに、心の中で物語が静かに紡がれていった。


 空は徐々に明るくなり、彼の旅はまた次の誰かの車を待っていた。

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