翡翠悪役姫は五蘊の黒竜と契約する。
麻生燈利
001 その婚姻は翠龍の裁き
プロローグ
あれは確か、士官学校を卒業した年だった。
任命式のために、霞が関の陸軍庁舎を訪れた日のことだ。
その日は、しとしとと降る雨で
任命式は滞りなく進み、式は一時間程度で終わったが、参列者がぞろぞろとロビーに集まり出すと、とある噂で持ちきりになった。
「陸軍大臣があんな年若い女では、軍の規律が乱れてならない」
「
怒りを覚えるような下賤な噂の中心には、いつも一人の女性がいる。
その女性は一段高い場所に佇み、凛とした立ち姿で悪意を一身に受けていた。
軍服の襟から除く首筋は細く、純粋な日本人ばかりの場所で、その翡翠色の髪と瞳は嫌でも人目を引く。
その女性が裏切りの家門として名高い『
「
士官学校の同窓生が声をかけてきた。在学中から公爵家であることを鼻にかけるような奴だった。
「翡翠姫だぜ。あの髪。気味が悪いな」
そうは言われても、彼女の容姿はどんな女性よりも際立っているし、透明感のある瞳も、宝石のような髪も、美しいとしか形容できない。
「俺はそうは思わない。普通の女性ではないか」
「存外、君は女権論者だね。軍隊に女は必要ない。それに、
同窓の男は、大きな額縁を見上げる。
陸軍庁舎のロビー、その最も目立つ場所には、帝の権威を示す
金の縁取りを施された書画には、龍のごとく荒々しい
当時の斎王が命を賭して書き上げたという、いわく付きの祝詞だ。
この祝詞は帝が絶対的な現人神であることを示すもの。
男ばかりの軍事社会に、翠川公爵家の『翡翠姫』が、『皇宮近衛警察』の最高指揮官であり、陸軍大臣を賜る無理を通すための呪縛の言葉だった。
※訳
天の契約を破りしとき、翠龍が災いをもたらす(
天の大神の御印(契約の証)を破り、背き、
おまえの眼と髪を翠に染め奉ったその契りを、再度、破ったならば、
翡翠の龍が雲を裂き、雷をまとって天より翔け降り、
朔弥は祝詞と言われる宣言文を複雑な心境で仰ぎ見る。
これは祝詞などではない。呪いの言葉だ。
帝は神道の
しかし、我が竜胆家一族は知っている。翠龍が『
五蘊の霊獣は仏の御心により生まれ出た仏教の教え。すなわち神道に属するものではない。
先の維新の内戦の折に五蘊を使役する藩主が、四家門も味方に付いていたのは幕府側だ。
本来は維新側が勝てる見込みのない戦だった。
それでも我が竜胆家の先々代は、五蘊の黒竜一体で維新側についたのだ。
だが蓋を空けると、五蘊の霊獣三体は消え、翠川家は維新側に寝返り、帝に勝利をもたらした。
尚且つ、翠龍は帝の神獣とされている。
以来、戦いの穢れを受けられない祭祀王の代わりに、軍事と改革の汚れ仕事を翠川家が引き受けていた。
その象徴である翡翠色の髪と瞳を持った令嬢。
一代に必ず一人現れる、呪いが具現化された者。
翠川家は元々武士道精神で名高い家門だったと聞く。
まさに翠龍と共に宮中家に捧げられた、供物のような贄姫だった。
だが、『翡翠姫』の眼差しを見ろ。
澄んだ瞳に映るのは、憂いと深い悲しみ。生贄としての諦め。
彼女には心がある。
そんな簡単なことを、ここにいる誰もが無視している。
そして、彼女に近付くことは、決して許されないことなのだ。
001 その婚姻は翠龍の裁き
カフェーのネオンが灯る繁華街を抜け日比谷通りに入ると、落ち着いた色合いのガス燈が道路を淡く照らし出す。
街路樹の
それでなくても、近頃は
『翡翠姫』である
こんな夜はガス燈の闇影に紛れて、小さな餓鬼の群れが暗躍している。
この小鬼自体に大した力はない。だが、数が多すぎて疫病の発生源になることがある。
先の維新の戦いによって、長く続いた旧幕府はついに崩壊した。
政権交代そのものは必要なことだった。
外交を閉ざしたままでは、大日本帝国に未来は無いからだ。
しかし、幕府が倒れたことにより、思わぬ障害が発生し始めたのだ。
旧幕府が統治していた世は、御仏の教えに基づき、五体の霊獣が国を守護していた。
それらは『
ところが維新の戦いにより五蘊持ちの藩が倒れ、この世の均衡が崩れ去ったのだ。
そのため、帝に仇なす人々の怨嗟が悪神となり宮中を襲うことすらある。
現在の軍隊は、その怨敵を鎮めるために奔走していた。だが根本的な解決策はない。
帝はあまりにも多くの藩主から恨みを買いすぎているのだ。
その帝を守護する『皇宮近衛警察』の最高責任者である『翡翠姫』は、今夜は軍服を脱ぎ舞踏会に出席しなくてはならない。
『翡翠姫』は、帝との契約履行の証。
血脈に受け継ぐために、何があっても結婚しなくてはならない。
忌々しい婿取りの契約に癖癖しながら、お見合いを兼ねた夜会に出席するため帝国ホテルに急ぐ。
黒塗りのフォード車は、馬車を追い越し車止めに滑り込む。
運転手がブレーキを踏み停車するときの、ガタガタという振動は、何度経験しても慣れることができない。
今さら気にしても仕方がないが、結い上げた翡翠色の髪がほつれていないか手で確認した。
(ドレス姿より軍服のほうが、まだましだわ)
車のドアが開かれ、父親代わりの伯父が手をそっと差し出す。
白手袋に包まれた左手を伯父の方へ伸ばした。
血のつながった父親は、産まれてすぐに母親と離縁した。
顔は見たことがあるが、話したことはない。
翡翠姫の婚姻はいつもそうだ。呪われた翡翠の髪の女児が産まれると、役目が終わったかのように離縁となる。
それも仕方がない。
翠川家と婚姻を結ぶことは、その家門全体が翠龍の審判を受け続けるのと同じことだ。宮中家に反意がある者は、翠龍の怒りにふれ惨殺死体となる。お伽噺でもなんでもない。紛れもない事実だ。
「今夜の夜会は、君が主役だ。帝の勅命だし、嫌でも出なければならない」
伯父は厳しい口調で言う。
その後は、いつもの飄々とした微笑みを浮かべ、何気ない仕草を装って言葉を続ける。
「翡乃。今夜は新月だ」
「どおりで暗いと思ったわ」
伯父は翡乃の手を掴みぐっと力を入れる。
そうしないと、翠龍の加護で失った感覚のせいで何も感じないからだ。
圧力なら感じることができる。
「新月に願い事をすると叶うという言い伝えがある。我が家では難しいが、かわいい姪が婚約者候補たちと会うんだ。翡乃を幸せにしてくれる人を願うくらは、いいだろう」
伯父の手を頼りに車から降りると、案内役のベルボーイが迎えにくる。
帝国ホテルライト館は、その名にたがわず華やかな黄金色の電燈が館内から溢れ出ていた。
彼女はドレスの裾を捌き、淑女の振りをしてしずしすと歩く。
翠川家は裏切り者の家門。憎まれ役の『翡翠姫』。
彼女の名前を呼ぶものは家族しかいない。だが、彼女には「翠川翡乃」という名前がある。
翡乃は玄関前の小さな花壇に目をやった。
夏の終わりを告げるリンドウがひっそりと咲いていた。まるで、新月の宵闇に溶けるような色だった。
「宵闇に 竜の
ふと、そんな歌が口を付いて出る。
あまりにも現実離れした儚い夢なので、滑稽で笑ってしまいそうだった。
気を引き締めなくてはならない。
今宵の夜会は、若い男女が縁を結ぶために用意された。
帝が決めた相手と契約結婚を結ぶしかない翡乃は、格好の侮蔑の種なのだ。
皮膚ではなく、心が固い鱗に覆われていればいいのに。
そう願い、心を殺した。
続く
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