第16話

サルドビア式タキシードの出番が来たのは7月、関東にも梅雨入りの知らせが届こうという季節のことだった。

紫陽花咲き誇る東京のど真ん中・皇居。

その中心部にある立ち入り禁止の宮殿の一室には、死ぬほど見覚えのあるご一族がアドルフと俺をもてなす茶会を皆開催してくれていた。

紫陽花の美しく咲いた中庭を望む窓辺に、立礼式(りゅうれいしき)茶道に使われる漆塗りの机とイスが並ぶ。

緊張気味に椅子に腰掛ける俺と初めての茶道を付け焼刃の知識で対応するアドルフを、老齢の天皇皇后両陛下は優しくサポートして下さる。

日本人として皇室は敬うものと刷り込まれて育った身としてはいささか恐縮してしまう。

赤茶色の歪んだ茶椀に濃い抹茶が立てられている。

「お椀が歪んでる?」

先に気付いたのは外交使節最年の少年で、少しムッときたような顔を見せた。

「日本の伝統的なお茶会ではこうした器が良く好まれるので、彼らはいい器を出してくれたんですよ」

俺の助け舟に皇室側の人間が「その通りです」と返してくる。

これは江戸初期に焼かれた赤楽という歪みのある形が特徴の焼き物で、この茶椀は本阿弥光悦が焼いたとされる器らしい。

その話を聞いて芸術には疎いがひとつだけ察するものがある。


(この茶碗、すごく高い奴では……?!)


本阿弥光悦って聞いたことあるよ、俺。そんな有名人が焼いた器が安物のはずはない。まして今ここでそんな嘘をついてもしょうがない。つまりこの情報はガチ。

こわい。怖すぎる。

下手に落として割ったら首吊りものでは?という恐怖感が全身を駆け巡る。

しかし茶会は粛々と進んでいき、ついに俺の手元に茶碗が来た。

割ったら死!割ったら死!という恐怖に震える指先を抑えながらゆっくりと茶碗を持ち上げて口をつけようとした。

その時、指先から椀が零れ落ちた。

茶碗は抹茶色の線を引きながら机の端まで転がっていく。

(このままだと床に落ちて割れる!)

机の端から茶碗が地面へ吸い込まれようとするのを防ごうと、咄嗟に俺は茶碗のほうに手を伸ばす。

地面に落ちていく寸前で、茶碗は俺の手の内へキャッチされた。

「……セーフ」

しかし純白のタキシードは抹茶色の大きな染みを残し、洗いもの担当のメイドさんに内心で詫びた。いい洗剤とお菓子持ってくので許して欲しい。

「ユキ、ケガは?」

「無い無い。むしろ高い器割ったせいで迷惑かけなくて良かったよ」

「器ぐらいいくらでも弁償する、ユキが怪我をする方が嫌だ」

政治の都合と勢いで結婚した割にいい夫であろうとしてくれることがやけに嬉しいと思ってしまうあたり、俺は割とチョロい気がする。

それを見た皇后陛下はフフフっと愉快そうな笑いを零した。

「どうしました?」

「ごめんなさい、お2人が本当に仲睦まじくて嬉しくなってしまいまして」

優しく穏やかなおばあちゃんである皇后陛下の笑い声や表情を見れば、この赤の他人の幸福を喜んでくれているのだと分かる。

「提案なのだけれど、その赤楽茶碗に銘をつけてくださらない?」

なんでもこの茶碗は最近になって東北の旧家の蔵から再発見されたもので、多くの有名な茶器などにある銘がないのだと言う。

なので皇室史上初の異世界人のもてなしに使われたこの記念すべき茶器に名前を付けて欲しい、という訳だ。

アドルフの方に視線を向けると、器をじっと見たあとに「……『転陽手止てんようしゅし』」という言葉を出す。

使節団メンバーは皆が名づけに納得したようだが、俺と皇室関係者にはまったくピンと来ていない。

「サルドビア三大ダンジョンのひとつに広大な大地に真っ赤な太陽が転がり続ける事で冒険者の感覚を狂わせる『転陽』というダンジョンがあります。

この器をダンジョンに転がる太陽に見立て、そして転がっていたときに私の夫がその手で止めたので『転陽手止』と」

ダンジョンとかいう不可思議空間の太陽を俺が止めるってちょっと無理が過ぎません?と言いたいが、異世界人らしい名づけには皇室関係者もご満悦だ。

そしてどこからかいそいそと無地の木箱と筆が現れる。

「よろしければ、その銘をこの箱に書いてくださいませんか?」

「アディ、よろしく」

「日本語を書くのは難しいから、ユキが書いてくれ」

「ええ……」

結局、俺は周囲に押されるがままに大して上手くもない箱書きを認める羽目になった。

この器はその後皇室の宝物庫に入り、日本とサルドビアの歴史の生き証人として飾られることになったという。

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