第8話 花の心は

「やよいさん、お風呂どうぞ」


 花がリビングを覗いて声をかけると、やよいはちょうど食器洗いを終えた様子だった。


「あ、皿洗いありがとうございます」

「いいの、いいの。ところで風呂だっけ。あたし最後でいいから、琥太郎に声かけてみて」


 返事をしかけて、いや、と踏みとどまる。


「あの、さっき琥太郎は仕事があるって言って……」


 先ほどの琥太郎の鋭いまなざしを思い出す。人殺しの目、完全に仕事モードに入っているときの目だ。数日も一緒にいれば、それがいつもの琥太郎とどれだけ違うかは分かっていた。


「そっか、いないんだったか」

 やよいはそう呟く。そして花のほうにちらりと目をやった。

 何か言いたげに、俯いている少女。その姿を見て、やよいはため息をついた。


「花」


 突然名前を呼ばれた花は、驚いて顔を上げる。


「あんたさ、ちゃんと思ってること言ってみな」


「え?」


「だからさ、琥太郎の仕事についてだよ」


 花は一瞬迷ったが、きちんと自分の心の内を言葉にすることに決めた。

 湯船の中で考えたこと、シャワーでは流しきれなかった不安を全部口にする。


「やめて、ほしいんです。今まで琥太郎がどんな環境で育ってきたのか、なんで殺し屋になったのかなんて知らない。もしかしたら、その仕事をせざるを得なかったのかもしれない。でも……今は違うじゃないですか。

 やよいさんが、いるじゃないですか」


 花はやよいの目を見つめた。


「やよいさん、やよいさんのお仕事のお給料って、私や琥太郎が働かなくても私たちを養えるくらいですか!」

「え! あ、うん……おそらくは」

「ありがとうございます! じゃあ、琥太郎は……稼がなくても大丈夫なんですよね」


 やよいは頷く。花は持っていたバスタオルを握りしめた。


「……私、琥太郎に人を殺してほしくないっていうより、危険な目に遭ってほしくないんです。もうその業界に足を踏み入れているわけだから、遅いかもしれない。けど、もうこれ以上危ない橋は渡ってほしくない!」


 花は半ば叫ぶようにそう言った。ちゃんと言葉にできた。そのことに少しの達成感を得る。

 まだ、琥太郎とやよいとは数日間生活を共にしただけの仲だ。

 年の近い琥太郎とは、きょうだいに近い絆が芽生えたのかと思えば、そうでもない。でも恋愛的な意味で彼を意識しているわけでもない。

 それでも――やよいの言葉を借りて言うと、一旦「家族」になってしまったのならば。


「私、琥太郎の、いつもの優しい目が好きなんです」


 最初は、全身黒い格好のぶっきらぼうな嫌な奴という印象だった。次に殺し屋であるという情報が追加され、さらに彼を恐れるようになった。


 それでも。


『だからって兄呼びはどうなんだよ、せめて下の名前がいい』


 初めてちゃんと会話した時のあの口調。

 食卓で見せてくれるあの笑顔。


 素直じゃないけど、本当は優しい心根を持つ彼――。

 

「私は、ずっと、あのままの琥太郎でいてほしい……!」


 そう花が言い終えた時だった。


「よく言えたじゃないか」

 頭に、ぽんと手が乗った。――やよいだ。彼女の優しい手が、花の頭を撫でていた。


「花は琥太郎にそう思っているわけだ。でもな、心の内で思っていることなんて言葉にしなきゃ伝わらないんだ。魔女だって人がどう思っているか、どう考えているかなんて聞かなきゃわかりゃしないんだから」


 出会った初日にも、やよいはそう言っていた。思いは、言葉にしないと伝わらないのだと。


 それは恋愛でも、友人同士でもそうである。


 もちろん、「家族」同士でも。


「行ってきな、花」


 花の目の前に、やよいのスマートフォンの画面が突き出された。


 そこには、青いピンが示されている。


「駅前らへんですか……? それに、これって」

「琥太郎のスマホのGPSだ。あいつはまだあたしが勝手に位置情報をオンにして、それをあたしのスマホで終えるようにしたなんてこと、気づいてないけどな」

「……ええ、いつの間に」

「きっとこの位置だと、駅前東口のあのビルだろうな。一階に郵便局が入っているあそこだ、わかるか?」


 一階に郵便局。記憶の糸を手繰り寄せてみる。


(――分かった、あのビルだ)


「分かります、そこですか? そこにいるんですか?」


 花がそう言うと、やよいは頷いた。


「移動していなければ、そこに行けば会えるはずだ」

「分かりました。やよいさん、すごいですね」

「魔女は万能なんだ。まあ今はそれはいい、とにかく早く行きな!」

「はい!」


 やよいの声とともに、花は踵を返して走り出した。お風呂上がりの、しかもパジャマ姿だけれど気にしない。

 ――とにかく今は、琥太郎に会いたい。そしてちゃんと伝えるのだ。


 彼は仕事の邪魔をしたことを怒るかもしれない。 

 花の言いたいことは伝わらないかもしれない。

 

 それでも、伝えることにこそ意味がある。


 伝えなきゃ、言葉にしなきゃ、何も変わらないのだから。


「……琥太郎!」


 玄関で急いで靴を履く。本当は運動靴に履き替えたかったけれど、すぐに出るところに置いていなかったため、学校用のローファーにする。


 パジャマにローファー。なんて滑稽な恰好だろう。

 それでも、気にしてなんかいられなかった。


 花は一目散に、駅前に向かう。

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