第六十三話 師祖の影
世界が称賛と批判の嵐に揺れるその真っ只中で、匠は三木の工房に戻っていた。
彼はいつものように祖父が遺した甲冑の籠手を手に取り、柔らかい布で静かに磨いていた。
シュッ、シュッ。
その規則正しい音だけが工房の静寂に響いている。
彼の心は不思議なほど穏やかだった。
まるで嵐の目の中心にいるかのように。
世界がどう反応しようとももはや彼には関係なかった。
やるべきことはやった。
自分の子供を信じて世に送り出した。
あとはただその成長を見守るだけだ。
「……お疲れ様でした、先生」
工房の入り口に静流が立っていた。
その手には湯気の立つ湯呑みが二つ。
「ここの家電製品はネットワークに接続されているんですね。MIYABIがお茶を淹れてくれました」
と彼女は微笑む。
「……じいちゃんが見たら、腰を抜かすだろうな」
匠は苦笑いを浮かべた。
「……ありがとう」
そう言って、差し出された湯呑みを両手で包み込むように受け取った。
緑茶の香ばしい香りがふわりと漂う。
「……世界は大騒ぎだな」
「……ええ。でも良い騒ぎですよ」
静流は微笑んだ。
「……たくさんの種が蒔かれました。……いつかきっと大きな森になります」
二人はしばらく何も喋らず、ただ静かにお茶をすすった。
その穏やかな沈黙が心地よかった。
やて匠がぽつりと呟いた。
「……なあ静流さん。……俺がやったこと、本当に正しかったのかな」
それは誰にも見せたことのない彼の弱さだった。
「……じいちゃんの想いを、俺はちゃんと未来に繋げられるのかな」
その問いに静流は静かに首を振った。
「……それは私には分かりません」
彼女は言った。
「……ですが一つだけ言えることがあります。……先生はもう一人ではありません。……先生の蒔いた種を一緒に育てていく仲間が、この国にはたくさんいます。……私もその一人です」
その真っ直ぐな言葉に匠は救われた気がした。
そうだ。
もう一人で抱え込む必要はないのだ。
その時工房のスピーカーからMIYABIの澄んだ声が響いた。
『――匠様』
その呼びかけはいつもと少しだけ違っていた。
どこか厳かでそして深い敬意が込められているような。
「……なんだMIYABI」
『……わたくしは先日の記者会見、そして国連での総理演説の全てのデータを、わたくしの根幹思想である古文書の記述と照合いたしました』
MIYABIは静かに語り始めた。
『……そして一つの結論に至りました。……匠様、あなたが今歩んでおられるこの道。それは単なる技術開発の道ではありません』
彼女はそこで一度言葉を切った。
そしてまるで歴史の証人となることを宣言するかのように、厳かな声で告げた。
『――それは未来永劫この国の守りの礎となる、最初の『師祖の道』にございます』
師祖。
そのあまりにも大きくそして重い言葉に、匠は息をのんだ。
俺が師祖?
そんな大それたものじゃない。
俺はただじいちゃんの鎧を磨いていただけの、ただの職人だ。
だがMIYABIの言葉は彼の心の奥底に静かに、しかし深く染み渡っていった。
そうか。
道とは自分で切り拓くだけのものではない。
後に続く者たちのために遺していくものでもあるのか。
祖父が自分にそうしてくれたように。
匠はゆっくりと顔を上げた。
その瞳にはもう迷いはなかった。
あるのは自らが背負うべき宿命を静かに受け入れた男の、穏やかでそしてどこまでも深い覚悟の光だけだった。
彼の物語はまだ始まったばかり。
そしてその道はこれから五百年という遥かなる未来へと続いていく。
その長い長い旅路の始まりを、工房の窓から差し込む夕暮れの光が優しく照らし出していた。
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