第1章『月夜の黒百合 ー 月夜の約束』
今でも忘れられない、あの夜空。
無数の星が瞬き、
上弦の月が静かに浮かんでいた。
オレとルナは光を求め走り続けた。
「ノ…ノクタ、待って…もう走れない…」
ルナは肩で息をし、
膝が震えて今にも崩れそうだった。
「ごめん、ルナ…少し休も」
そう言ってオレらはその場にしゃがみ込む。
月が揺れる水面を見て、
オレらはようやく息を吐いた。
「――ノクタ、出られた…逃げられたね!」
「そうだね!」
オレらは笑いあった。
空を流れる星が、祝福しているように見えた。
緊張がほどけ、眠気が押し寄せてくる。
「でも、その前に火を焚こう」
「火を…?」
「魔獣避けになるんだ。本で読んだんだ」
火を灯し、オレたちはそのまま眠りについた。
翌日から、
オレたちはただ街を探して歩き続けた。
思ったより魔力の反動はなく、
体はまだ動いた。
ただ、時々視界が霞むことがあった。
――オレも、ルナも。
上弦の月から満月になる頃、
ルナの調子が悪くなっていた。
いや、正確には良くなっていた。
――サキュバスとしては順調だった。
その前々日から、
背中や腰、それと頭を搔くことが増えていた。
川で水浴びさせたが、痒みは収まらなかった。
「え!?ノクタって女の子だったの!?」
「そうだけど…」
「『ボク』って言ってたから男の子かと…」
「……それより、痒そうにしてるとこ、
ちょっと赤いよ」
「掻きすぎたかな…」
けれども、痒いのは収まっていなかった。
その原因がわかったのは満月の夜だった――
「…ル…ナ…?」
その容姿は、角が生え、尻尾に悪魔の翼、
そして腹には淫紋が
妖艶なピンクに染まっていた。
まだ幼いはずの少女なのに、
体つきは妙に大人びていた。
当時のオレには、それがただただ異様に見えた。
「あぁ…精が…精気が欲しい…!」
発する言葉も、語彙の選び方も、
いつもの幼さとは明らかに異なっていた。
「ルナ!待って!!どこ行くの!?」
「男がいるとこよ……」
「お、男がいるとこって…!?」
「お嬢さんにはわからないわよ」
「でも…だからって…!」
「ごちゃごちゃうるさいわね!
アトラリリス・ブルーム!」
初めて、人の魔法を受けた。
体の奥が熱を帯び、苦しくてたまらなかった。
そのときはただ、
得体の知れない感覚に呑まれていた。
――後になって、それが『性欲』だと知った。
けれど、
当時のオレはそんな言葉すら知らなかった。
知らないが故にルナを止めるのに必死だった。
――また独りになりたくなかった。
「いつまでしがみついてるつもり?」
「いやだ!行かせない!戻ってきてよ!ルナ!」
「しつこいな…!」
魔法を浴びても、しがみついた。何度でも。
「お願い……お願いルナ…戻ってきて!!」
涙が頬を伝いルナの足に落ちる。
――ルナは言いかけて、止まった。
「ルナお願い…いつものルナに戻って…!」
「ごめん……ノクタ………」
その言葉と共に、彼女は崩れ落ち意識を失った。
抱きとめた腕の中で、
ルナは子どもの姿に戻っていた。
安堵したオレも気を失ったのか、
目が覚めたら朝になっていた。
傷が消えていた。触れても痛くない。
それが不思議で、目を向けると
——ルナが手を握って泣いていた。
「ごめん…ごめんね、ノクタ…昨日はごめん」
小さな肩が震えていた。
ルナが、魔力で治してくれたのだろう。
「大丈夫だよ…
それよりルナは平気?体は大丈夫?」
「わたしは大丈夫…だけどノクタが…ぐすっ
…ノクタをわたし…怪我させちゃって…
ごめん…ごめんね…っ」
彼女の手は冷たく、ずっと震えていた。
この時だ。
オレが医者になろうと決意したのは。
「でも、
ルナがボクの怪我治してくれたんだよね?」
「うん……」
「ありがとう。魔法使ってまで治してくれて」
「でも、なんであんな姿になったんだろうね?」
「わたしもわからない。
気づいたらあんなことになってて…
ノクタを…」
「もう泣かないの。大丈夫だから!
…ただ、原因を突き止めないと……」
「そもそも、わたしはエルフじゃないのかな?」
「うーん…
でも、治癒の魔法や脱獄した時は
エルフ族の魔法だったよね?
それに元々髪色もブロンズだったし」
「うん…
あ、でも確か実験でわたしが暴れた時も
同じ感覚があったかも」
「その時から髪色も変わったよね」
「……わたし、サキュバスなのかな」
「いや………もしかしたら『混血』かも…」
ルナの指が震えていた。
目は泳ぎ、言葉が追いついていない。
無理もない。
この時代では『混血』は禁忌だった――
そしてこのオレも人間と魚人の『混血』。
「ボクもルナも『混血』だと思う。
ほぼ間違いなく。」
「ノクタの鱗……まばらなのって……」
「きっと、そういうことだよ。」
ルナの目からは憎しみ、悔しさ――
そして、優しさが混ざった涙が零れる。
「これからは『混血』を隠して
生きていかなきゃならない――
もしかしたら、あの孤児院と変わらない
苦痛を受けるかも。」
「…………」
「それでも、生きていかなきゃならない。
そしてルナは、サキュバスの能力も
隠さなきゃならない。」
「……でも、どうやって?」
「ボク、医者になる。
ルナがサキュバスにならないようにする薬を…
ボクが開発する…!
そして、ボクは――」
――――――――
「オレは永遠にあいつ……ルナを守ると誓った」
グラスの中の氷がカランと回る。
「それで、今後どうするおつもりなのですか?」
「遅かれ早かれ、
思い出すことになるとは思ってたが…」
「……石はもう取る気はないですね?」
「……それで思い出すならもういいかと」
「暴れたりしません?
……辛い過去だとは聞いてましたけど、
まさかそこまでとは……」
「まあ、
今なら暴れてもテミとミミがいるからな」
「……ノクタも
あの頃と比べたら変わりましたね」
「あ?」
「それより、監視は?」
「その辺は抜かりない」
ルナの家を出る前に、
監視蝿を数匹仕込んでおいた。
もしものことがあれば、すぐに動ける。
「ふふっ……ノクタ、あなたも大概ですね」
「何がだよ」
「ルナのこと、『愛してる』んですね」
「さあな」
『愛』なんて知らない。オレには――
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