第1章『月夜の黒百合』


灰色がかった濁った水滴が、

ぽたりと床に落ちた。



「遅くなったが、今日の分の薬だ」


 

白衣の悪魔が、

琥珀色の液体が揺れる小瓶をオレに突きつける。

鼻を刺す金属臭。――死の匂いだ。


 

オレは抵抗せずに受け取り、口に含んだ。

冷たさが喉を撫で、息を止める。


 

「あ…っ、が…ぅ…く、くる…し…」


 

膝から崩れ、

片手で口を押さえたまま床にしゃがみ込む。


腹を押さえていた手から、

小瓶が指の隙間を抜け、カランと転がった。

オレの様子を見て、悪魔は満足げに出て行った。


 

――カチャン。



 

「……うえ、ぺっ」


 

転がった小瓶へ、

口に含んでいた液体を吐き戻す。


 

「うまく騙せたね」


 

ルナが目を細める。


 

オレは瓶に戻した毒へ、

天井から落ちる汚れた水、舞い落ちる埃、

ネズミの糞をひとつまみずつ混ぜる。


中身は、

見るだけで吐き気を催す濁り色になった。


 

「ルナの分は明日。

……その時に暴れて。全力で」


「……」


 

ルナは小さく頷き、互いに目を合わせた。

言葉はいらない。




――――




「今日からは3番。お前も飲め」


 

悪魔が小瓶を突き出す。


 

「……いやだ!

昨日ノクタがあんなに苦しんでたのに!」


 

ルナが頭を振り、背中を壁に押しつける。

両腕と肩が小刻みに震えている。


 

「いやだ!飲まない!」


「暴れるな!」


 

悪魔が屈み込み、ルナの顎を掴んだ瞬間――


 


今だ!!


 


服の内側から瓶を引き抜き、

そのまま悪魔の口に押し当て、

喉の奥へ突き込む。


金属と薬の匂いが混じった吐息が鼻先をかすめ、

反射で喉が動く音が聞こえた。


 

「っ……てめぇ、クソガキが……う、ぐぅ……」


 

首筋の血管が浮き、膝が折れる。



「ルナ!!腰の鍵!」


「取った!」


「走って!!」



悪魔の唸り声を背中に受けながら、

ルナと一緒に牢を抜け、

すぐそばの階段へ駆け込む。


湿った石段を駆け上がる。


息が焼ける。

看守はもう動けないはずなのに、

背後で鉄扉が開く幻聴が追いかけてくる。


 

ルナの手から鍵束を受け取る。

焦りで指先が震え、汗がにじむ。


ひとつ、またひとつと差し込み、回す。

錆びついた鍵穴が動かない。


軋む音が扉の向こうに響いたような気がして、

心臓が跳ねた。


 


――ガチャン。



 

ついにこの時がきた。


金属がぶつかる乾いた音が、

石壁を伝って地下全体に響き渡る。


 


もう、隠れることはできない。



 

扉を押し開けると、

隙間から冷たい風と、

子どもの泣き叫ぶ声が吹き込んできた。



「……いくよ、ルナ」


「わかった」



一歩前へ出た瞬間、

視界いっぱいに白百合が咲き乱れた

――そう錯覚した。



 

その正体は、悪魔の白衣だった。

その奥から、鋭い声が飛んできた。


 

「お前ら…!」


 

不味い。

扉を開けた目の前に看守が立っている。

どうする……!?


 

咄嗟に頭に浮かんだのは、

どこで見たか聞いたかも覚えていない技名。



それが吉と出るか凶と出るか

――でも、やるしかない!!



「マハリス・クラッシュ…!!」



叫んだ瞬間、

ラピスラズリ色の水が看守を殴りつける。

水しぶきが頬にかかる。しょっぱい。



「それよりルナ!今だ!逃げて!!」



ルナが頷き前へ飛び出す。

だがオレの魔力に気づいた看守たちが、

黒い影が床を這うように集まってきた。


 

「くそ…!どうしたら…!」


 

魔法を使おうにも、まだ幼くて覚醒したばかり。

そう何度も使えるわけじゃない。

 

――気づけば、囲まれていた。



「ノクタから離れて!!」



ルナの声と同時に、

一面に暖かな光がほとばしった。


足元から植物の根が這い上がり、

看守たちの

体を絡め取って宙に吊るし上げている。



「ルナ…!」


「ノクタ!」



再び手を握り、出口へ向かう。


 

「どうする?鍵で開ける?」


「いまのボクたちの力なら……壊せるかも!」


「わかった!」



――この扉が壊れるかどうか、

誰にも分からない。

 

壊れれば、ルナと一緒に外へ出られる。


でも壊れなければ、

ここに閉じ込められたままだ。


 

胸の奥が締めつけられ、

手のひらがじっとりと湿る。


互いの目を見つめ、

わずかな可能性に賭ける。

 


「マハリス・クラッシュ!!」


「グランヴィレーヌ・スパインブルーム!」



深海の水圧をまとった拳が扉を叩き、

空中の種は着弾と同時に瞬く間に伸び、

棘状の茎が扉を貫いた。


花は弾けるように咲き、

微かに虹色の残像が空気に漂う。


 

扉は粉砕され、粉塵が晴れる。

夜の空気が頬を撫で、

胸の奥に解放の感触が広がった。

 


――出られた……! 出られたんだ!!

だが、その喜びは一瞬で凍りつく。


 


――目の前に、禍々しい男が立っていた。


 


その姿はまるで黒いオオカミみたいだった。

鋭い目がギラギラ光り、

唸るような息遣いが闇に響く。



勝てない。

そう本能が告げた。



「どうする、ノクタ……」


 

前へ出なきゃいけない。

けれど足がすくむ。

それでも――


 

「行くしかない……!!」


 

踏み出そうとしたとき、

周囲から子どもの声が上がった。


騒ぎを聞きつけた子どもたちが、

物陰から震える足を

押し出すように顔を覗かせる。



子どもたちは互いに目を合わせ、

恐怖を押し込むように息を呑んだ。


胸の奥で何かがはじけたように、

膝は震えても背筋だけは真っすぐに、

一歩ずつ前へ踏み出す。



「みんな……!」


「う、うちらも手伝う!」


「こんなとこから出たい!」



次々とオレたちの隣に並び、

禍々しい男の前に立ちはだかる。


 

「ガキ共が、集まったところで勝ち目はない」


「やってみないとわからないだろ!!」



掛け声とともに、それぞれが全力をぶつける。


 

男の動きが一瞬止まった

――と思ったら、次の瞬間、

オレの耳のヒレを鋭く掴まれた。


 

「ぐ……ぐぁぁあっ! いってぇぇえ!」


 

男が呻き、思わず手を離し、後ろにのけぞった。


 


何が起きたかわからない。だが今しかない。



「全員、今だ!!! 逃げろ!!!」


「ノクタ!」


「ルナ! 行こう!!!」



それぞれが四方八方へ散っていく。


 

オレとルナは再び手を繋ぎ、

闇を裂くように走り出す。


頭上には上弦の月。

満ちていく希望を追いかけるように、

オレたちは足を止めなかった。



「ま……待て! クソガキ共ーーー!!!」


 

その怒声を背に、

子どもたちは闇へと消えていった。




 ――――――




「申し訳ございません…

『月』を逃がしてしまいました」


「別に良い。『月』はまだ未熟だ。

それより覚醒をしたのだろう?」


「はい。未完成ではありますが、

『黒百合』の発現は確認できました」


 

――室内には静かな緊張が漂い、

見守る者たちの目が

『月』の行く末を見据えていた。


 

「ならいい。他の駒も放っておけ。

いずれ『月』は完成するだろう――」


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