【四日目】

 埃を払う。


 最初こそ丁寧に最先端化学繊維のクロスとかを使っていたが、息を吹きかけた方が圧倒的に綺麗になることに気がついてしまった。エタノールを染み込ませた綿棒で軽くなぞり、液晶モニタはさっさと拭き上げる。まあこんなものだろう。

 多分、もう問題ないはずだ。

 そっと構えると、その重さに驚く。二年前の自分はこれを掲げて走り回っていたのか。

 当時は随分元気だったようだ。


 ファインダーを通して縁側を切り取ると、黒猫がそこにいた。


「お前、いつの間に……」


 ぶなぁお、と可愛くない声を上げたそいつはくつくつと喉を鳴らし、ペッと何かを吐き捨てた。先程まで薫の右足が位置していた場所に寸分違わず緑色の物体――それも唾付きの――を寄越す。自分の反射神経を賞賛しつつ、その物体を観察する。


 嫌な予感がして仏壇に向かうと、外れていてほしいと願ったそれが的中していた。


「猫ってきゅうり食べても大丈夫だっけ」


 まあ精霊馬はもう一匹(もう一頭?)あるしいいか。多少ぎちぎちでも親戚同士、仲良く乗ってもらおう。




「薫、蛍見に――」薫は声が聞えるや否や応えた。


「行こう」


「えらい食い気味やな。珍しいやんか、どしたん?」


 その勢いにたじろいだのか、涼葉は止まる。


「何でもないよ。ほら、早く」


 右腰あたりに来るよう長さを調節したストラップを肩掛けし、涼葉の横に並ぶ。




 今日は蝉の声が嫌に大きい。隣の涼葉の言葉も集中しなければ聞き取れなかった。


「にしても薫が四日連続で外に出て来てくれるなんてなー。一体どういう風の吹き回しなん?」


「ただの気分」


 そこまでの出不精ではない、はずだ。少なくとも今は。


「えらいご機嫌やなー。前だったら面倒くさいーって言ったやん。薫、ようけ成長したなあ、嬉しいわ」


 芝居がかった仕草で、流れてもいない涙を拭う。

 そんな彼女はまるでカメラ越しの人のように現実感がなく、反応が遅れた。


「そんなに変わってないよ、多分」


 涼葉は物言いたげな瞳で見つめたが、二人の間を通り過ぎた風に小さくため息を漏らすだけだった。




 畦道の終わり、山の入り口でどちらからともなく足を止める。


 奥の方でひゅうひゅるりと飛び交う蛍に近づいていいものか、迷いが生じたのだ。微動だにせず見つめていると、涼葉が一歩、踏み出した。


「よろしくお願い、しまーす‼︎」


 張り上げた声に呼応するように竹が揺らぎ、ギィと軋んだ。面食らったが、無表情を装い尋ねる。


「なんでまた急に」


「いや、やっぱり山神様に挨拶しとかんとなーって」


 照れたように笑うが、どの辺りに照れる要素があったのかは理解できなかった。どういう風の吹き回しなのだろうか。


 昨日までしていなかったくせに。


「……よろしくお願いします」


 習って、頭を下げる。

 奥で蛍が揺らめいた。




 涼葉の、秘密基地へと向かう足取りが重いことには気がついていた。


「涼葉」


「どしたんー?」


 今も無理に明るさを装っている。


「直せた」


 右腰あたりの物体を軽くたたきながら、簡潔に伝える。


「流石は薫やな。期待しとるで」


 煌く黒髪を耳にかけ、嬉しそうに笑った。

 すぐにでも右腰からカメラを出してしまいたかったが、何とか衝動を堪える。



「じゃあ、撮るよ」


 涼葉は返事をしない。ただ小川がさらさら流れている。



 涼葉は動かない。

 彫刻のように、樹のように。何かを偲ぶかのように、佇んでいる。

 カメラを覗く。……だめだ、蛍が暗い。もっと。ちゃんと絞って、あまりぼやけないように、あの木は邪魔か……いや。やめよう。取り繕っても、どうせばれる。


 そっとボタンに指を置く。瞬きも忘れ、ただ彼女を涼葉を見失わないように見つめ続ける。

 ……いや。

 まだ足りない。これじゃだめだ、押しちゃだめだ。繕うな。装うな。撮れるはずだ、もっとうつくしく。



 生暖かい、苦いようなしょっぱいような涙が頬を伝った。


「……なんで泣いとんや?」


 しまった、被写体を動かしてしまった。それでも、涼葉はうつくしかった。まだシャッターチャンスは逃していない。


 大丈夫、まだやれる。


「いや、ただ……瞬きを忘れただけ、気にしないで」


 一瞬、きょとんと目を丸くした涼葉だったが、すぐに唇を綻ばせた。


「ほんまに泣き虫やなあ、薫は。なんも変わっとらん」


 蛍が一斉にわなないた。小川には光の波紋が広がっている。

 泣き虫はどちらだというのだ。その目元の光は、眼鏡を掛けていなかったとしてもわかる。


 画にするのなら断然、泣き顔より笑顔がいいが、どちらもうつくしいのだから困りものだ。




「本当に、撮っていいんだね」


 うん、と呟いて涼葉は顔を背けてしまった。川と一緒に流れてきた風に、淡い蛍の光を受け艶めく黒髪が、静かにそよぐ。

 蛍たちは穏やかに、彼女を照らし続ける。涼葉だって馬鹿じゃない。いい加減、気づいたことは、知っているのだろう。


 そう、おかしなことばかりだったんだ。

 人々が山神様に挨拶をするのは奇数人で山に入る時だけだ。

 西日本のこの蛍、ゲンジボタルは二秒に一回の点滅周期だった。それなのに、光が止むことは寸暇もない。そもそも蛍の時期は一ヶ月前には終わっている。

 ――そしてなにより、涼葉は死んでいる。

 この前の六月に、三回忌だったのだから。


 今思えばおかしなことばかりだったのだ。


 毎年、いの一番に家に来る涼葉が夕方に来た。迎え火を焚いた、夕方に。

 いつも水遊びを仕掛けてきて、無理矢理小川に引き摺り込むくせに、昨日はしなかった。それどころか水に触ることすらさせなかった。お盆以外は、喜んで水遊びする涼葉が。


 涼葉はいつも規格外だった。だから今年のこの、おかしな盆も当然だろう。そう、このぐらいの異常事態は当然だ。だって涼葉なんだから。涼葉がいるんだから。


「なあ、薫」


 わかってるよ。シャッターを切ったら、涼葉はどこかに行ってしまう。でもシャッターボタンを押さなかったら、二人ともずっと互いに、この夏の蛍に縛られるのだろう。だから押せって言いたいんだよな、涼葉は。


『薫』がここに囚われないように。



 ……それでもいいと思っているんだけどな。季節だろうが蛍の習性だろうが捻じ曲げてやる。それぐらいは、思ってたんだよ。多分全部、お見通しだろうけど。


 きっとすぐに、思い出さなくなる。それまでは……少し寂しくなるけど。





 

「――言わなくたっていいよ」





 

 そろそろ終わりにしようか。

 このボタンを押すだけ、あっけないね。














 もう、終わりにしよう。













  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蛍、朽草、星垂れる @6174_314

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ