早口の主張ー届いた拍手ー(完全版)
水無月菜乃花
第1話早口の出会い
_教室・放課後_
西日が、窓から斜めに差し込んでいた。机の上に落ちた光が、教室の隅をじんわり染めていく。
早川邦人は、自分の席で漫画を読んでいた。 タイトルは『やっぱりコレだね』──通称「パリコレ」。
中学生の頃からずっと読み続けているお気に入りで、セリフもほとんど覚えてしまっているくらいだった。
ページをめくる手は静かで、周りの空気に溶け込むような気配だった。誰かが話していても、笑っていても、彼の席だけは少し違う時間が流れていた。
ドアが勢いよく開く音がして、同じクラスのチカ、カナ、ハルカの3人が騒がしく入ってきた。クラスでも目立つギャル3人組で、アイスを片手に笑いながら教室の空気を一気ににぎやかにする。
チカとカナは中学の頃に同じクラスだったこともあり、よく話しかけてくる。でも、ちょっと苦手な相手だった。
ハルカは名前は知ってる程度で、あまりよく知らないが、他の2人とはどこか雰囲気が違って見えた。
「――お? ハヤクチじゃん、何やってんの?」
チカが机越しに声をかけた。邦人は顔を上げない。ページをめくる手が少しだけ止まる。
「ハヤクチ?」
ハルカが繰り返す 声には、ふわりとした疑問が滲んでいた。
「こいつ、普段全然喋らないじゃん?」
チカが身を乗り出しながら言う。
「でもさ、中学のとき“好きな物発表”って授業があって、そん時漫画の話になったんだけど、急に喋り出してさ」
「なんか『演出がどうとか』『構成の妙が』って……とにかく早口すぎて誰にも聞き取れなかったんだよね」
カナが横から笑いながら加わる。
「何言ってるかわかんないのに、めっちゃ喋ってて超面白くてさ」
「それ以来、ウチらの中では“ハヤカワクニト”の“ハヤクニ”をもじって、“ハヤクチ”って呼んでんの」
チカが満足げに言う。笑い声が重なる。
陽射しが邦人の背中を照らす。彼の手が、ページの端をゆっくりと押さえた。
チカが身を乗り出す。
「マジウケるよねー、ほらなんか早口で喋ってみ?」
「ねえ、生麦生米生卵、ほら言ってみてよ、得意でしょ?」
カナも楽しそうに言葉を重ねていく。
その瞬間、邦人の肩が小さく揺れた。開いた口が、何か言おうとして、止まった。
「え、あ……いや、別に……」
声は出た。けれどすぐに引っ込んでしまう。 のどがつかえて、言いかけた音が形にならず消えた。
うまく口が動かない。視線が揺れる。指が力なく、ページの端を撫でた。
ハルカがふいに言った。
「やめなよー、キョドってんじゃん」
笑いながら言ったその言葉に、不思議と刺々しさはなかった。
しばらく沈黙が落ちる。ハルカがちらっと漫画の表紙に目を止めた。
「……それ読んでるの、もしかしてパリコレ?」
ハルカの声が、少しだけ熱を帯びた。
「それ、昔弟に勧められて読んだんだけど、8巻のあそこが……」
その言葉に、邦人がほんの一瞬だけ目を上げる。反応する。
けれど――
「ハルカの弟って、あのオタクの?」
チカが割り込むように言った。
「ハルカんち行ったらいつも漫画読むかゲームするかしてるよねー。」
カナも笑いながら便乗する。
そして――
「オタク同士、案外ハヤクチと仲良くなれんじゃね?」
カナが邦人をちらっと見て、ふざけた口調で言った。
ハルカが少しだけ戸惑ったように言う。
「え、あ、うん……そうだね」
邦人は目を伏せる。心の奥に微かに浮かんだ期待は、周囲の笑い声にかき消されるように、すぐに消えていった。
教室の扉が開かれる。カナが笑いながら去っていく。
「じゃあな、ハヤクチ!早口言葉、練習しとけよー」
チカも追いかけながら叫ぶ。
「生麦生米生卵ー!」
彼女達の足音が遠ざかる。残された教室は、静かになった。
邦人はページを閉じた。表紙には『8』の数字。 西日がその上に影を落とす。
小さな声でつぶやいた。
「……8巻か」
その言葉が、宙に浮かぶ。誰にも届くことなく、ただ教室に残った──
……そう思った直後。
「やっぱそこが熱いよねー」
不意に、背中越しに声がした。思わず振り向いた。
彼女が、そこにいた。教室の入り口で、ハルカがこちらを見ていた。手ぶらで、アイスの棒は捨てたらしい。
視線が合った。何も言わない。けれど、それだけで胸の奥が少し揺れた。
邦人は、そっと目を伏せる。
ハルカの足音は静かで、さっきの騒がしさとは違っていた。
「さっきは言えなかったけど、ウチもパリコレめっちゃ好きなんよねー」
「弟に勧められて一気読みしてからハマっちゃって」
邦人の指がページを離れる。目がハルカに向く。
「……8巻」
ハルカが一瞬止まる。 驚くでもなく、思い出すように。
「え?」
邦人は少しだけ躊躇して、でも言葉を続けた。
「パリコレの話になった途端、“8巻”ってワードが出たから、この人ガチなファンやなと思った。」
ハルカが、肩を揺らして笑う。 そこにふざけた様子はない。
「何それー。でもやっぱりパリコレと言えば、8巻のあの台詞は外せへんよね」
ふたりの口が、同時に動いた。 好きすぎて、言葉がこぼれたように。
『好きって言葉は、胸を張って言う言葉だ』
一瞬、顔を見合って、ふたりで笑う。
その言葉は、パリコレ8巻の名台詞── “好き”を伝える事が、誇りになると教えてくれた一節だった。
その一言で、何かがほどけた。
邦人の口が開く。 言葉が転がり始める。 テンポが変わる。
「……そう。8巻の『視線が刺さる構図』。 あそこは斜めからの俯瞰で、誰の主観にも属してない。 “ただ見つめられる”って視線の圧が、台詞よりも先に感情を伝えてて── 台詞じゃない構図で泣かせるのが、あれの真骨頂やと思ってる。
しかも、あのカットの前後でトーンの濃度が変わってる。 推しが出る瞬間だけ、背景の密度が増すやろ? あれって、読者の目線を絞らせるための“構図側の演出”やねん。
で、それを支える台詞がまたさあ──」
「ちょ、待って! ほんまに早口になるやん!」
ハルカが思わず笑いながら止めた。 驚いたというより、嬉しそうだった。
けれど、邦人は慌てて肩を落とす。
「……あ、ごめん、うるさかった? また、やってもうた……」
声が小さくなる。 言葉が引っ込んでいく。
あの過去の嘲笑が、脳の片隅に戻ってきた。
ハルカは邦人の顔を見て、首を小さく振った。
「ちゃうちゃう、うるさくないって」
その笑いは、さっきの2人とは違ってた。
「なんか、好きなこと語る時って早口になるの、めっちゃわかるわー」
その一言で、ふたりの間の空気が少しだけ変わった。邦人は、一瞬目を見開いた。
まるで、自分の“早口”が笑われるものじゃなく、理解されるものだったことに驚いたように。
ハルカの顔には、嘲笑の色はなかった。ただ、素直に楽しそうな笑顔が浮かんでいた。
邦人の肩が、すっと力を抜いたように落ちる。
指先が、閉じかけていたページの端をそっと離した。
「……ほんまに?」
その声は、確認するように、でも少しだけ期待を込めていた。ハルカは笑う。
嘲笑ではなく、ただ素直に楽しそうな笑い。
「うち、弟と話す時もめっちゃ早口なるし。
たぶん、語りたいこと多すぎる時って、喉が追いつかへんねんな」
少しだけ間を置いて、ハルカが続ける。
「てか、語りたい相手がおる時ほど、早口になる気がする」
邦人は、息を呑んだ。
その言葉が、自分にも向けられているかもしれない──
そんな予感が、胸の奥に静かに灯った。
邦人は笑う。 ほんの少しだけ、期待を込めて。
ハルカも笑って言った。
「てか、さっきの構図のやつ……気になってんねんけど(笑)もうちょい詳しく聞かせてくれへん?」
邦人は、そっと息を整えた。
夕方の教室が、2人の会話で満たされていく。
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