〔Side:Shino〕11. 2週間の一日目


 金曜日の朝。

 今日からジュリは家を空けることになる。


「ごめん、シノン。靴履いちゃったんだけど、リビングのスーツケース持ってきてもらえない?」


「いいよ。待ってて持ってくる」


 ジュリの2週間分の大きなスーツケースを引きずって、玄関へ持ってきた。

 ねんのため、ジュリには軽く注意を促す。


「こんな大きなもの、旅先に忘れてきたら大変だよ。気をつけてね?」


「ふふ、シノン、ありがと」


 ジュリの含み笑いの意図がつかめないまま、ウチはスーツケースを玄関の靴脱ぎスペースに置きながら返事をする。


「ううん、これくらいお安いごよ――」


 ん…………


 不意を突かれ突然の刺激に呼吸が止まる。

 目の前のジュリは目を瞑っていて、ウチは目を見開いていた。


 ………………


 …………


 数秒、あるいは数十秒。頭がパンクしかける。


 ……ふ、は。


「えへへ。不安になったら、これを思い出すようにするね。それじゃあ、行ってきます」


「う? うん、いってらっしゃ……」


 ジュリの後ろ姿と、パタンと閉まる扉を見つめながら、数秒が経過した。

 ぼーっとする頭でドアロックを確かめて、リビングへと引き返す。

 静まり返ったリビングの扉にもたれかかると、鼓動と呼吸の音だけが耳につく。


 たまたまシフト休みが重なって見送りができたのだけれど……

 こんな見送りになるとは思わなかった。


 別れ際に一瞬だけ見えたジュリの満足気な笑顔と、ウチの心情は正反対だった。


 2週間……


 これからジュリの居ない2週間が始まる……


 ソファーに視線を送ると、のんシャとフォカも向かい合ってくっついていた。




 ――


 ぼんやりと過ごした昼間から、夕飯の買い物に行かないといけない時間に差し掛かっていた。


 買い物から帰ってくると、手に持っていた食材が多いことにようやく気が付いた。

 金曜日は残業とか接待があることが多いから、もともと日持ちするものを買う習慣が幸いした。

 今日使わないものは、明日別の調理方法で食べればいい。


 今日からジュリはしばらくいない。朝見送ったのに、なんとも実感が湧いてこない。

 けれど、一旦朝のことを思い出すと、また鼓動が高まる。


 どうしちゃったんだろ、ウチ……


 手に持っている食材を冷蔵庫にしまいながら、夜遅くにジュリが玄関を開けて帰ってくるまで待つ必要がないことに思い至る。



 いつもより数時間早い夕食は、どうにも味気ない気がしていた。

 どこかで分量を間違えたのかもしれない。

 それとも、向かいに誰も座っていないから、広い部屋の中で静かだったからだろうか。


 たかだかキスの一つで、こんなにもダメにされてしまうとは情けない。

 思い直して今日初めてのコーヒーを入れようと、メモ帳と各種の軽量器具を準備する。



 コーヒーを淹れている間はそのことだけに集中できた。


 マグカップに注いだアツアツの一口目。


「ふ~……あつ」


 やっぱりコーヒーはいい。

 口に含むと苦みと共に甘味や酸味、雑味など複雑な味わいが広がって、心が落ち着く。


 淹れたときの豆の種類と収穫時期をはじめ、開封や保存方法、淹れ方などのあれこれ、蒸らし時間や抽出時間をストップウォッチで測ったものをそれぞれメモしている。

 メモの最後に、飲んだ時の感じ方を付け加えて記録している。


 あついままの一口目、提供後のお客が口にするであろう間を空けて少し冷め始めた二口目。

 半分くらいはそのまま飲み進めて、少しおいて一気に冷めてくる来ると、人肌くらいの温度の時の味わいも確かめる。


 コーヒーが冷めてくると味わいもそれぞれ変わる。

 冷めてもあまり味の変わらないものもあるし、冷まし方を変えても味が変化する。

 その変化を確かめるためマグカップに口をつけた瞬間、一瞬だけ朝のあの時の感覚が脳裏をかすめた。


「……かたい……」


 マグカップは人肌くらいの温度で迎えたけれど、いかんせん硬質な感触が一瞬の高ぶりをすぐに冷ましてくれた。

 それなのに、マグカップから唇を離すのがちょっとだけ口惜しく感じてしまったのだ。


「てかウチ、何してんだか……」


 気を取り直そうとメモ帳に目を落とし、書き漏れたことがないかをチェックする。

 自分の書いた味の感想には、 ”いつもより苦い” とか "甘さ控えめ" とか、ほんとは味なんてよくわからなかった。

 このメモはダメっぽい。今度同じような条件で淹れなおそう。



 にぎやかなルームメイトがいない初日は、思った以上に退屈でいつもの数倍遅く時間が流れているようだった。

 きっとそういうのは最初のうちだけ、そのあとは普通に帰りを待つことになる。きっとそう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る