錆びついたバルブ

「緊急停止、間に合いません!バルブが固着して…!」


計器盤の前にいた部下の報告は、絶望の響きを帯びていた。

彼の指先が、緊急停止用の手動バルブのハンドルを虚しく滑る。

本来であれば、成人男性の力で十分に回るはずのハンドルが、まるでコンクリートで固められたかのように微動だにしない。

長年の湿気と、わずかな水漏れが、金属の接合部に見えない錆の楔を打ち込んでいたのだ。


「どけ!」


渚は部下を突き飛ばすように脇へ追いやり、バルブの前に仁王立ちになった。剥き出しの鉄でできたハンドルは、彼女の掌より大きい。滑り止めの軍手を嵌めた両手で、冷たく湿った感触を確かめるように、一度強く握り込む。


「う、おおっ…!」


腰を落とし、全身の体重を乗せてハンドルを回そうと試みた。

腕の筋肉が張り詰め、歯を食いしばった奥歯がギリ、と嫌な音を立てる。

だが、鋼鉄の塊は、まるで渚の力を嘲笑うかのように、ぴくりとも動かなかった。


「くそっ…!」


掌に、じわりと汗が滲む。

ポンプの断末魔は、一秒ごとに激しさを増していた。

耳鳴りのように脳に響く轟音と振動が、焦りを増幅させる。現場で男性作業員と対等に渡り合うため、同年代の女性よりはるかに鍛えてきたはずの身体。

だが、今この瞬間、絶対的な物理法則の前に、その努力はあまりに無力だった。


(こんな所で…!)


諦めが黒い染みのように心を浸食し始める。

このままではポンプが壊れる。

いや、最悪の場合、内部圧力の異常上昇で爆発する可能性すらあった。

飛び散る金属片、熱湯と化した水蒸気。

部下たちの顔が次々と脳裏をよぎり、全身から血の気が引いていくのがわかった。

その時だった。


「監督、下がってください!」


背後から響いた野太い声に、渚は我に返った。

振り向くと、五十代のベテラン作業員、斉藤が長さ一メートルはあろうかという鉄パイプを肩に担いで立っていた。


「テコを使うしかねえだろ、こういう時は」


彼はそう言うと、バルブのハンドルの隙間に鉄パイプの先端を差し込んだ。

その表情には、渚が感じていたような焦りや絶望の色はなかった。

ただ、目の前の「言うことを聞かない鉄の塊」をどうにかしてやろうという、職人特有の静かな闘志だけが宿っていた。

渚は数歩下がり、斉藤の作業を見つめる。

自分の無力さと、彼の経験に裏打ちされた冷静さとの差が、悔しいほどに胸に突き刺さった。

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